第二十八話 不思議な夜
「それはお困りでしょう。特別なもてなしはできませんが、どうぞ家へお泊りください」
村長はそう言うと、迷いなく三人を招き入れた。
無駄のない、倹しい室内。
堅実な暮らしぶりが見て取れる、寂しい部屋ではあったが、ストーブで温められたスープが三人の気持ちを和ませた。
「どうぞお掛けください」
卓を囲むと、湯気を立てた器がことりと置かれる。
「妻に先立たれてましてね。簡素なものですが」
「とんでもない。感謝致します」
老人というには皺が少なく、初老というには覇気のない、不思議な人物だった。
「宿が見つからず、途方に暮れていたのです」
「あぁ、宿屋は昨年閉じたばかりで」
村長は「ここは静かな村ですから」と苦笑した。
「旅の方が訪れることは滅多にありません。皆さまはどちらから?」
視線に促され、ルコットは口を開く。
「王都ですわ」
「ほう、王都から遠路はるばる。でしたら、一つ前に大きな町があったでしょう。皆あそこに宿を取るんですよ。観光もできるとかで」
「そういえば、ありましたね。あまり長居はできませんでしたが」
「急ぐ旅なのですか?」
「明後日までにはアルシラに」
「それはまた忙しい道程ですな。今晩はゆっくりとお休みください」
「お心遣い痛み入ります」
そうして三人と満遍なく会話を交わし、男はさりげなく席を立った。
「それでは私は簡単に部屋を整えてまいりますので」
「何から何まで申し訳ない」
「いえいえ、久方ぶりに外の方とお会いできて嬉しいのですよ。何せこんな村では刺激の一つもありませんからね」
そう言って、男は廊下の向こうへと消えていった。
アサトは男の気配が遠ざかったのを確認すると、訝しげに眉を寄せ、声をひそめる。
「妙ではありませんか?」
ルコットは、「え?」と戸惑いの声を上げた。
一方ホルガーは「…あぁ」と短く同意する。表情も心なしか険しい。
「いくら一つ前の町が栄えているからといって、この村の静けさは異常です」
「そう遅い時間でもない。家の数が極端に少ないわけでもない。それなのに人の声どころか、気配一つ感じられない。これは…」
「皆意図的に気配を殺しているということですか…?」
おずおずと確認すると、二人は迷いなく頷いた。
「そんな…何のために…」
「皆さま」
はっとして振り返る。
いつの間にか、男が扉から部屋に戻って来ていた。
「寝床の準備が整いましたよ。我が家には客用寝室が一つしかありませんので、お嬢さまには昔娘が使っていた部屋をご用意しました」
「あ、ありがとうございます」
恐らく、夫婦とその護衛ではなく、お嬢様と護衛二人組だと思われているのだろう。
ルコットの胸は僅かにちくりと痛んだが、強いて気にしないように努めた。
結婚して間もないのだから、夫婦に見えないのも無理はない。
それに、初夜も済んでいない今、同室で休むよう言われても、しっかり眠れる気がしなかった。
そう考えると、男女別々の部屋を用意してもらえたのは、むしろありがたいと思わなければならない。
「しかし、私はルコットさんをお守りしないといけません」
真面目なアサトが躊躇うように申し出ると、渋い顔をしていたホルガーも頷いた。
「えぇ、彼女の部屋が遠いのは心配です」
男は困ったように眉を下げる。
「そうなると、客間に一つ寝具を運んで、同じ部屋で休んでいただくしかなくなるのですが…」
慌ててルコットは口を挟んだ。
「私なら大丈夫ですわ!何かあれば大声で叫びますから!」
その慌てぶりに、男も苦笑しながら言葉を添える。
「そう広い屋敷ではありませんし、ご心配でしたら部屋から部屋への道順もご案内いたしましょう」
是非そうしてほしいとカクカク首を振るルコットに、ホルガーはとうとう折れざるを得なかった。
* * *
「殿下は俺と同室はお嫌だったのだろうか」
村長が裏庭に用意してくれた湯で体を流しながら、ホルガーは深いため息を吐いた。
簡単な屋根と目隠しの隙間から、夜空が見える。
見事な星空だったが、それでも胸のもやは晴れなかった。
アサトは清め終えた体を拭い、制服を手に取りながら苦笑する。
「ですが大将、ルコットさんも今頃お部屋で入浴中でしょう。淑女は万全でない状態を見られるのは嫌がるものです」
「…だが、今回は侍女の一人も連れて来ていないのに」
元よりルコットの侍女は、乳母のばあや、ただ一人だった。
こんなことなら旅の前に一人くらい雇っておけば良かったと歯噛みする。
「そもそも今回アサトを連れて来たのは、側付きも兼任できるだろうと踏んだからなのだが…」
「……まぁ、できないことはありませんが、大将はそれで良いのですか」
「お前なら心配はいらない」
全幅の信頼を寄せられたアサトの真面目さである。
「姉君や妹君の世話をするように、彼女の側付きも頼めるか」
「ルコットさんが良いなら構いませんが…」
言いかけて、彼女は特に気にしないだろうなと直感し、口を閉じた。
「大将が手伝って差し上げれば宜しいのでは?」
至極真っ当な疑問を呈すれば、ホルガーは制服に袖を通しながら、「できると思うか?」と質問で返した。
「俺の姉はあのアスラだが」
そう、その目が訴えている。
アサトは静かに視線を逸らした。
そもそも、女性の身支度を把握しているアサトの方が特殊なのだ。
手先が器用で、センスも良く、何より優しい彼だからこそできた芸当だ。
「…それに、四六時中俺が側にいたのでは、殿下も気が休まらないだろう」
「まだ気にしてたんですか!」
悲観的なホルガーなど、これまで一度も目にしたことのなかったアサトは、内心慄く。
考えるより先に筋肉の動きそうな我らが大将が、と頭を抱えた。
何ということはない。
恋というのは古今東西厄介なものである。
「あれだけ見せつけるような結婚式を挙げておいて、今更何を言ってるんですか!どう考えても相思相愛でしょう!」
目を覚ませと叱咤するも、ホルガーの表情は晴れない。
「…いや、しかしあのときは命もかかっていた。その場の勢いというやつかもしれん」
「ああもう!」
アサトはがしがしと頭を掻くと、ホルガーの腕を掴んだ。
「そんなに気になるなら本人に直接聞きに行きましょう!」
「そんなことできるはずないだろう!今何時だと思っている!」
「このまま一晩中その話を聞かされるよりはマシです!」
全力で引っ張るも、ビクともしない。
「本気で抵抗しないでください!どれだけ大人げないんですか!」
「嫌だ…!せめて、明日にしてくれ!」
ちょうどそのとき、微かな声が一瞬、風に乗って聞こえた気がした。
アサトははっと上を見上げる。
「大将、今のは」
「…殿下の悲鳴だ」
言うが早いか、ホルガーは目隠しに手を伸ばすと、そのまま屋根の上に飛び上がった。
「お前は村長を起こして来てくれ!」
アサトが頷くより先に、一段上の屋根にひらりと登り、ルコットの部屋の窓の方へ走っていった。
「…嘘でしょう」
呟きながら、一瞬も無駄にすることなく裏口を目指す。
陸軍大将の離れ業には、慣れたものだった。




