第二十七話 最初の村
「殿下、お疲れではありませんか」
心底心配げな声に、御者台のアサトはとうとう根を上げた。
「大将、その言葉、あと何回繰り返すつもりなんですか!」
紅葉した楓の木のトンネルに、切実な叫びがこだまする。
ルコットは苦笑し、ホルガーは目を逸らした。
「ホルガーさま、私は大丈夫ですわ」
「ですが…」
なおも言い募ろうとするホルガーに、アサトは「ああもう!」と声を上げる。
「『外出には慣れていらっしゃらないのに』でしょう!聞き飽きましたよ!」
言うべき言葉を取られた口は、何度か開閉し、それから憮然と閉じられた。
まったく返す言葉もない。
「で、ですが色々なところで休憩を挟みながら進んでいくのは楽しいですわ」
ルコットは慌てて取りなしたが、それは本心からの言葉でもあった。
「まぁ、それは確かにその通りです」
それにはアサトも同意する。
王都に慣れた彼にとって、知らない町の探索は、非常に新鮮なものだった。
「今まで馬で駆け抜けてきた道中に、こんなにたくさんの町があるとは、知りませんでした」
早朝王都を発ってから、現在日は中天。
既に三つの町に立ち寄っていた。
居心地悪そうにしていたホルガーも、ようやく口を開く。
「まだ王都の膝元ですが、そろそろアンタナ峠を越えます。独自の文化や風習が見られる町も増えてくるでしょう」
フレイローズの国土は広い。
一つの国として見れば、軍事産業に特化した、他に見るべきものもない大国であるが、やはりそれは一つの側面に過ぎないのだろう。
そもそも四方それぞれが別の国と接しているこの条件下で、画一的な文化が育まれるはずがない。
そして、その埋没している地域性を見つけ出すことが、ルコットに課せられた使命でもあった。
「何か役立つものを見つけて、持ち帰ることができれば良いのですが……いえ、きっと見つけましょう」
ルコットはそう言うと、明るく笑った。
ホルガーもまた力強く笑い返す。
一方、アサトは曖昧に頷くより他なかった。
真面目が過ぎる夫婦だと苦笑しながら。
そもそも今回の旅は、会議にかこつけた休暇である。
それなのにこの新婚夫婦は、命じられてもいない任務を自ら遂行しようとしている。
見守る側にしてみれば、ため息を禁じ得なかった。
(これは、自分が上手く空気を抜いてやらねばならない)
隊どころか軍全体からの期待を一身に背負い、護衛役を仰せつかった若者は、内心そう決意した。
――大将をきちんと休ませてやってくれ。
目の下にクマを作りながらも送り出してくれたフリッツ大佐の命を、忘れたわけではない。
しかし、「陸軍第一部隊一真面目」の名を、不本意ながらほしいままにしているアサトに、果たしてそれが可能なのかは、正しく天のみぞ知る、である。
* * *
夜空の月が、宵闇の中にくっきりと浮かぶ頃、私たちは予定よりも三つほど先の村に辿り着きました。
「思っていたより早く進めていますね。この分だと明日の夜にはアルシラに着けるでしょう」
それを聞いて、私はほっとしました。
私が足を引っ張った結果、会議に遅れることになっては、目も当てられません。
慣れない馬車で少々体は痛みますが、休めば明日一日くらいは問題なさそうです。
ホルガーさまに助けられ、懐かしの地面に足を下ろしました。
「夜も深い。今晩はここで休むしかなさそうだ」
「しかし、本来泊まる予定のなかった村です。そう大きくもなさそうですし…宿はあるでしょうか」
お二人が話し合われている間、私は周囲を見回しました。
確かに、静かな山間の村で、宿どころか食事処さえ見当たりません。
家々の中には、既に眠りにつき、消灯されているのか、真っ暗な窓もありました。
「どうやら夜の早い村のようですね」
お話を終えられたホルガーさまとアサトさまが、隣にいらっしゃいます。
「とりあえず、村長殿を訪ねようと思うのですが、いかがですか?」
「はい、それが良いと思います」
夜分に迷惑であることは否めませんが、それが一番順当な手立てであることは間違いありません。
うなずくと、ホルガーさまが促すように手を取ってくださいました。
「殿下、大分お疲れのようです。足元にお気をつけください」
ふらつく足を叱咤して、私は何とか微笑みました。
たった一日足らず馬車に座っていただけでこの体たらくでは、情けなくもなろうものです。
これでは、スノウ姉さまからのご命令も満足にこなせません。
「…ホルガーさまほどとまでは言いませんが、もっと強くなりたいですわ」
思わずそう呟くと、隣のアサトさまが「勘弁してくださいよ」と両手を上げられました。
「大陸最強夫婦になられるおつもりですか」
ホルガーさまも複雑な表情をされています。
「…殿下のことは俺がお守りいたします。ご無理はなさらず、今日はゆっくりと休むことだけを考えてください」
あまりにも優しく、労わるような眼差しに、私は二の句が継げなくなってしまいました。
「…はい」
勿論ホルガーさまに悪気はありません。
守ってくださるというお言葉が、心からのものだということも分かります。
しかし、それでも私は、せめて周囲の足を引っ張らないだけの強さがほしいのです。
それは、望ましくないことなのでしょうか。
こんなわがままは、彼を困らせてしまうだけなのでしょうか。
何とか笑顔を保って歩く私の隣で、アサトさまはため息とともに天を仰がれていました。




