第二十六話 いざ、アルシラへ
その日は抜けるような透明な青が広がる晴天でした。
冬の気配を感じさせる早朝、空気はひんやりと清廉で、胸いっぱいに吸い込むと、深い落ち葉の香りがします。
「殿下、そろそろ出発しましょう」
馬車の扉を開けて、ホルガーさまは朝焼けに目を細められました。
落ち着いた白色に濃茶の木枠が映えたこの馬車は、屋敷とともにスノウお姉さまから贈られたものです。
馬は好きに用意しなさいとのことでしたが、まだ馬手のいない状況なので、今回は軍からお借りすることになりました。
その隣には駿馬が一頭。
有事の際のために、ホルガーさまはこの馬で並走されるようです。
御者には、護衛も兼ねて、ホルガーさまの部下の方が付いてくださることになりました。
「アサト=ベルと申します。宜しくお願いします」
短髪の爽やかなアサトさまは、人好きのする笑顔で頭を下げられました。
慌てて私も礼を取ります。
「ルコット=ベルツと申します。こちらこそ宜しくお願いいたします。お忙しいときに申し訳ありません」
ホルガーさまお一人なら護衛は不要でも、私も行くとなると、そうはいかなくなったのでしょう。
ご自身のお仕事を置いて、しばらく王都から離れなければならないなんて、有難くも申し訳ない気持ちが勝りました。
しかしアサトさまは、「とんでもありません」と可笑しそうに笑われました。
その声色はとても遠慮をされているようには見えません。
どういうことだろうと首を傾げていると、後ろからホルガーさまが補足してくださいました。
「アサトがいない間は、フリッツ大佐が後を引き受けているので心配ありませんよ。アサトは軍の中ではかなり真面目なので、フリッツも可愛がっているんです」
「因みに大将は『帰ってから自分で片付けてください』と断られてました」
無邪気に笑うアサトさまの頭を、ホルガーさまは小突かれました。
この様子だと、ホルガーさまにとっても気心の知れた方のようです。
きっと腕も立つのでしょう。
ベル家といえば、室内装飾品職人の一大名家なのですが、その中にもこうして軍部で活躍されている方もいるのかと、少しだけ驚きました。
「それに元々、護衛は付かないはずだったんですよ。大将の守る一角なんて、大陸一安全な場所ですからね。それなのに心配性の大将が『物見遊山気分でもいいから』とごねたので、急遽私が派遣されることになったんです」
決まり悪くなられたのか、ホルガーさまはさっと顔を逸らされ、「ばあや殿に挨拶してきます」と行ってしまわれました。
その様子を見送りながら、アサトさまは困ったように笑われます。
「まぁ、そういうわけですから、どうか気にしないでください。アルシラは綺麗なところですよ。私も久方ぶりに羽を伸ばせるので楽しみです」
にこりとされるお顔が眩しくて、私もつい笑顔になってしまいました。
* * *
「ホルガー殿、姫さまを頼みましたよ」
これまで一度だって、ルコットがばあやの元を離れたことなどなかった。
例え日中別行動になろうと、夜になれば同じ部屋に帰り、その日あった出来事をホットミルク片手に語り合う。
ばあやにとって、ルコットはいつまでもあの日の小さな女の子のままだった。
それが、誰もが息を飲む展開の末、花嫁となり、あんなに小さかった両足で旅立とうとしている。
ばあやの胸は、計り知れない喜びとほんの少しの寂しさでいっぱいだった。
ホルガーには、痛いほどそれが伝わってくる。
もし、これほど高齢でなければ、間違いなく同行を願い出ていただろう。
しかしもはや、ばあやの体は長旅に耐え得る気力を備えてはいなかった。
「そんな哀れな老人を見る目をしないでくださいな。私とて行こうと思えば行けるのですから」
ずばりと胸中を言い当てられ、ホルガーはきまり悪そうに苦笑する。
ばあやもつられるように笑った。
静かな笑い声だった。
「私は強いて留守を守るのです。何故だか、あなたさまにはお分かりでしょう。私はいつまでも姫さまのお側にいることはできません」
子は巣立つもの。
庇護がなくとも、強く生きていけるように。
親鳥を失うそのとき、孤独に負けないように。
「…はい」
「あなたさままで暗い顔をなさってどうするのです。まだ当分、この世を離れるつもりはありませんよ」
呆れたような声色は、確かにしっかりしていて、少々しゃがれている点を除けば、とても老年のものとは思えない。
「まぁ、あと半世紀は大丈夫そうですね」
うそぶくと、「私を魔女にする気ですか」と可笑しそうな憤慨の声が上がった。
「少なくとも、お二人のお子を取り上げるまでは頑張りますよ。…おや、お顔が赤いですね」
くすくすと笑うばあやは、「この分では随分と先のことになりそうだわ」と追い討ちをかけた。
「…まったく、お人が悪い」
呟きながらも、彼の口角は安心したように上がっていた。
「行ってきます」
一礼を取り、馬車の方へと数歩進む。
それから、思い出したかのようにさっと振り返った。
「殿下は、俺が守ります!ご心配召されるな!」
そう言って、勢いよく駆け出した。
朝日の中を少年のように走って行くホルガーの背中。
ばあやはその姿が見えなくなっても、なお見つめていた。
「…まったく、あんなにはしゃいで」
口の中で毒づきながら、小さく笑う。
まるで二人目の子ができたようだ。
「ばあやー!!」
遠くから響いてくる声に、目を凝らす。
馬車の中から、すっかり大きくなった彼女の姫君が、手を振っていた。
「…そんなに身を乗り出したら、危のうございますよ」
きっと聞こえてはいないだろう。
ルコットは満面の笑みをたたえたまま、手を振り続けた。
「行ってきまーす!」
遠ざかっていく少女の声。
彼女の全てが、自由に見えた。
見たこともない輝きに満ちていた。
「…行ってらっしゃいませ、奥さま」
手を振りながら、丘の向こうに消えていくのを見守った。
ばあやの耳にはいつまでも、車輪の音が残っていた。




