第二十四話 騎士アーノルドの誓い
「ルコット、私をこの屋敷に匿いなさい」
いつになく焦った様子のスノウお姉さまに、私はとりあえず紅茶と茶菓子を勧めました。
いつだって模範的で何があっても冷静なお姉さまが、夜も明けきらないこんな時間に、一体どうしたというのでしょう。
「ルコットさま、そんな構えなくていいですよ。くだらねーことだから」
「黙りなさいアーノルド」
アーノルドさまはお姉さま付きの護衛の方で、鮮やかな赤い髪が印象的な方です。
お姉さまがお生まれになられたときから任に着かれているのだとか。
あの近衛兵団襲撃事件の際、手酷い傷を負ったと伺っていますが、既に回復されたのでしょうか。
婚礼期間前と変わらず、堂々とした佇まいをされています。
透明な氷のようなお姉さまと、炎のようなアーノルドさま。
見た目は対極のようなお二人ですが、とても気が合われるようで、幼い頃からこうして掛け合いをされているところを何度もお見かけしました。
「危険な目に遭われているわけではないのですね?」
一応確認させていただくと、アーノルドさまが力強くうなずかれます。それなら一安心です。
「…しつこく求婚されて困ってるのよ」
アーノルドさまにせっつかれて渋々と口を開かれたお姉さまは、とてもおやつれになられていました。
お姉さまが求婚されるのは、特段珍しいことでもありません。
女神も羨む美貌と称されるほどの方です。
「お困りなら、いつものように丁重にお断りされたらどうでしょうか?」
そう申し上げると、お姉さまは苦々しげに首を振られました。
「断っているわ。国に訴えると脅しもした」
思っていたよりずっと深刻に断られていたことに、驚きました。
王太女であるお姉さまにそこまで言われて引き下がらないなんて、余程のことです。
「どのような方なのですか」
単純な疑問でした。
恐らくは今この国に滞在している方なのでしょうが、婚姻期間が終わった今、来賓の方々は皆お帰りになられているはずです。
お姉さまは机を睨むように沈黙され、それからため息とともに仰いました。
「ハル=アルト=セイラン。シルヴァ国の第三王子よ」
「……あの夜スノウさまを狙ったくそ野郎ですよ」
アーノルドさまの言い様に、私は苦笑しました。無理もありません。
守るべき存在に刃を向けた相手です。反感を持つなという方が土台無理な話でした。
しかしお姉さまは、そんなアーノルドさまの言葉にそっと付け足されました。
「でも私を助けてくれたのよ」
もはや彼らは争うべき相手ではないのだと仰っているかのようでした。
アーノルドさまは眉根を寄せ、黙ってしまわれます。
少し剣呑になった場に耐え切れず、私は話を戻すことにしました。
「お姉さまがお断りしても聞いていただけないのですか?」
お姉さまもそれ以上ハルさまの擁護はなさらず、幾分冷静にうなずかれます。
「…話を聞いてほしいと言うの」
俯き静かに瞬きをされるお姉さまは、何を思案されているのでしょう。
「一度、お話しをされてみては?」
相手が王子という立場なら尚更、避け続けるわけにはいきません。
そもそもお姉さまだって、いつまでもこの屋敷に留まるわけにはいかないのです。
「…話しはしたわ」
それでもお姉さまは首を縦に振られませんでした。
こんなお姉さまを私は知りません。
いつも超然としていて自信に満ち溢れ、常に堂々と多くの決断を下していく。
それが私の知るスノウお姉さまの全てでした。
今私が掛けられる言葉は、何なのでしょう。
お姉さまを勇気づけるにはどうすれば良いのでしょう。
どんな決断を下されるにしろ、私は堂々と歩んで行かれるお姉さまが好きなのです。
「お姉さま……」
自然とこぼれた声に、お姉さまは苦しそうに笑われました。
「……あんな目で見つめられて、どうしろというの」
お姉さまが何に悩んでいらっしゃるのか。
どうしてそんな見たこともない顔で、無理矢理笑おうとなさるのか。
「お姉さま、いつまででもここにいてください」
「ルコットさま!」
アーノルドさまには申し訳ありませんが、今のお姉さまには時間が必要なのでしょう。
「…許してね、アーノルド」
いつになく気弱なお姉さまに、アーノルドさまも開きかけた口をつぐまれました。
「…はい、スノウ殿下の御心のままに」
こうして新居の最上客間に、新たな寝具が用意されました。
この部屋を使うことなんてあるのかしらと思っていたのですが、何ということはありません。
生活区を除いて真っ先に整えられることになりました。
* * *
簡易な食事を摂られ、お姉さまはすぐ客間に引き取られました。
アーノルドさまは廊下で番をされるとのことでしたので、温めたワインとチーズをお持ちすることにしました。
扉前の番は、冬を控えたこの時季、やはり少し冷えます。
廊下の絨毯が新品同様なことが唯一の救いでした。
ふかふかとした廊下を進んでいくと、アーノルドさまが扉前で腕を組まれていました。
目が合うと、私の運んでいるものに気づかれたのでしょう。
「ありがとうございます」と会釈してくださったので、私も小さく微笑み返しました。
「お姉さまは?」
「少し横になるとのことです。昨夜はあまりよく眠れていないようでしたから」
「そうですか」
どうぞ、とワインを差し出すと、「恐れ入ります」と受け取られ、そのまましばらく会話が途絶えました。
このまま立ち去っても良かったのです。
しかし私は見て見ぬ振りをするべきか、失礼を承知で踏み込むべきか逡巡してしまいました。
そんな私に気づかれたのでしょう。
アーノルドさまは優しく苦笑されました。
「ルコット殿下には気付かれているだろうと思っていました」
「…お姉さまはご存知なのですか?」
恐る恐る尋ねると、アーノルドさまは小さく首を振られました。
「知るわけないですよ、あの鈍感は」
ひどい言いようでしたが、その声色には確かな信頼と愛情が滲んでいました。
「ここへ逃げてきたのだってとんだ茶番なんですよ。誰が見たってスノウさまの心は一目瞭然じゃないですか」
私は答えるべき言葉を持ちませんでした。
しかしその沈黙が、何より私の同意を物語っていました。
「あの方は俺のために悩んだりしません。俺のために逃げ出すことはありません。それが答えだと分かっているんです」
アーノルドさまは、私が物心つくずっと前から、お姉さまを一人の女性として大切にされていました。
少なくとも、幼い私の目にはそう映っていました。
だからいつかお姉さまは、アーノルドさまと結婚するのだと、幼心に思っていたのです。
いえ、つい今しがたまで思っていました。
お姉さまのあの様子を見るまでは。
しかしアーノルドさまはずっと以前から、お姉さまへの想いを諦めていたのかもしれません。
そんな風に思えるほど、彼の表情は穏やかでした。
「ようやくこの気持ちを手放すときがきました」
それで良いのかと問いかけて、やめました。
そんな問いには何の意味もありません。
何より彼は後から後悔するような選択をされる方ではありませんでした。
迎えられたのは恋の終わりではなく、何かもっと大切な始まりなのかもしれません。
「それでも、俺は生涯あの方の騎士です」
もう二度と負けません。
あの方の危機に病室で寝ていなければならないなんて。
あんな惨めな思いはもう二度としたくない。
俺はもっと、もっと強くなります。
そして、必ずあの方をお守りいたします。
静かな暁の誓いでした。
聞き届ける者は私と、真新しいこの屋敷だけ。
本来ならこれを聞き届けるべきはお姉さまだったのかもしれません。
しかしアーノルドさまは、偽りのない真摯な瞳でこう仰いました。
「この想いを失くす前に、あなたが気付いてくださって良かった。この誓いを、あなたが聞いてくださって良かった」
私は彼の誓いを、その想いを、生涯大切に胸の奥にしまっておこうと思います。
この真新しい屋敷の、長い歴史の一幕として。




