第二十三話 忙しい日々
「殿下はいらっしゃいますか?」
昼下がり、ホルガーは焦った様子で、真新しい玄関に駆け込んだ。
慌てて出てきたばあやは、可笑しそうに笑う。
「姫さまでしたらいつものようにお手紙を書かれていますよ」
聞くや否や、背を翻し「ありがとう!」と駆けて行く。その背中は、まるで少年のようだった。
あれから、この一連の事件は全て軍の力不足という形で処理された。
そのため、軍の関係者は寝る間も無いほど忙殺されている。
宣言通りホルガーは、一週間を過ぎる今だに軍の仮眠室に世話になっていた。
破損物の修復。
怪我人への補償。
すべきことは膨大であったが、何より優先されたのは、軍への信頼回復に他ならない。
今回たった二人の刺客の前に、なすすべもなく倒れた近衛兵団。
翻弄された陸軍。
手酷い怪我を負った魔導師団員。
結果として王族を守りきることはできたが、被害は甚大であった。
ハル、サイラス、フュナ、シスが常人離れしていたことを加味しても、軍の驕りは否定できない。
ホルガーはこれから本部所属の大将として、その備えを見直さなければならない。
一方ルコットは、一足先に新居に移り、生活環境を整えていた。
王宮にほど近いこの屋敷は、陸軍大将と王家ゆかりの者が住むに相応しいものだった。
しかし、それ故に、広大な敷地と膨大な部屋数は、二人の頭を悩ませた。
軍人生活の長いホルガーは言うまでもなく、仮にも一国の姫君であったルコットでさえ、この大きな屋敷をどう管理すれば良いか、皆目見当がつかなかった。
家具や生活必需品は事前に手配されていたが、使用人は雇わなければならない。
とにかく優先されるのは、この屋敷を取り仕切る執事を探すことだった。
当初は王室の紹介で適切な人物を雇い入れる予定だったのだが、話を受ける人物がいまだ現れないのだ。
サファイアからの手紙には、
――冥府の悪魔を恐れる者、元王族の世話を面倒がる者ばかり。もっと骨のある人はいないのかしら。
と記されていた。
そうでなくとも、仕組みも何もない真新しい屋敷で、使用人を雇うところから始めなければならないのだ。
わざわざそんな苦労を買って出たい人物はそういないのだろう。
「広告でも撒くべきなのかしら…」
一階のテラスから見える庭は、秋花と紅葉が広がり、爽やかな風が吹き渡っている。
「こんなに美しいところなのに、誰も来たがらないなんて」と僅かな寂しさを感じた。
すると、その落ち葉を踏みしめて、外から回って来たホルガーが顔を覗かせた。
「すみません、今日も靴を履き替える時間がないもので…少しだけでも様子を伺えればと…」
ルコットはぱっと顔を輝かせると、ホルガーの側に走り寄った。
「ばあやが場所を知らせてくれたのですね。今はお昼休憩中ですか?」
「はい、なのでもうじきに行かねばなりません」
ホルガーはこうして新居へ寄っては、立ち話をしたり、困ったことはないか確認したりしていた。
ルコットとしてはきちんと休めているのか心配にもなったが、会えるのが嬉しいのもまた事実であった。
「執事のことでお悩みでしたか」
隠しても仕方がないので正直にうなずく。
「お姉さまからのお手紙にも、難しいと書いてありました。でも、撒き紙をするのはまずいでしょうか」
「そうですね…多くの人に知ってもらうという意味では良いのかもしれませんが」
そのとき、ばあやがバスケットを持って入室して来た。
ホルガーが来ると、こうして食べ物を用意し、持たせてくれるのだ。
「新聞の求人欄に出してはいかがですか?家庭教師の募集のように」
ホルガーにバスケットを手渡しながら、ばあやはそう、うそぶく。
その提案に、ルコットとホルガーは「それだ!」と顔を輝かせた。
「ばあや、すごく良いアイデアよ!そうしましょう!」
「えぇ、そうしましょう」
まさか真に受けられると思っていなかったばあやは目を白黒させる。
末とはいえ一国の王女であった人が、求人欄で執事を募集するなんて。
自分が言い出したことであるが故に、今更反対することもできない。
「…叱られなければ良いですがね」
そう言い残し、ばあやはすごすごと退室して行った。
「…大丈夫ですか?」
心配げにばあやを見送ったホルガーに、ルコットはにこにこと笑いかける。
「ばあやは少し心配性なんです」
ルコットは既に王族ではなく、ホルガーは、大将とはいえ一介の軍人に他ならない。
身分に縛られる必要などないのだ。
「では、やはりそうしましょう」
ホルガーの同意にルコットもうなずく。
「文面は大体考えてあるので、今日中にこれを送ってみますわ」
王宮中探し回って見つからなかった適任が、果たしてそんな方法で見つかるのか。
それは二人共通の疑問だったが、何もしないよりはましだろう。
ところで、とホルガーは机の上に視線を滑らせる。
「まだこんなに手紙が届いているんですか」
そこには返信待ちの手紙が山のように積まれていた。
「いえ、結婚祝いのお手紙にはもう返事を書き終えているので、これは…」
言い淀むルコットに、ホルガーは何かを察しため息をついた。
「……母ですね」
ルコットは曖昧に笑い返す。
そう、この手紙の山はホルガーの母によるものだった。
本来ならすぐにでも、ベルツ家とルコットの顔合わせが行われるはずだったのだが、状況が状況だけに、先送りされたのだ。
ホルガーの仕事が落ち着き、新居が整ったのちに、皆を招待することになっている。
それまでには、ホルガーの二人の兄も、仕事に区切りをつけ、駆けつけられるとのことだった。
シュタドハイス領主夫妻は王都の別邸に滞在し、久方ぶりの王都を満喫しているらしい。
その様子が、ルコットへの手紙に事細かに書かれていた。
「…俺の方にも昨日手紙が来ました。『早く殿下に会わせろ』とそればかりで……申し訳ありません」
「謝らないでください。私も早く皆さまにお会いしたいですわ」
ルコットの元には、ホルガーの二人の兄からも手紙が届いているのだが、これ以上彼の心労を増やしてはいけないと、話題を変えることにした。
「フュナさまからも、日に一度お手紙が届くのですよ」
あれからフュナは一日と欠かさず医療棟に足を運び、その様子をルコットへ報告していた。
しかし手紙の内容を見るに、その結果はあまり思わしくないようだ。
「あの日、皆さまはとても丁寧に私たちを迎えてくださいました。『これは私たちの鍛錬不足の結果。あなたが気に病む必要などない』と。それが逆にこたえてしまったようで」
薬草学の覚えがあるフュナが「処方箋を見せてもらえないか」と頼んでも、必要ないと慇懃無礼に断られる。
自身の行いの結果だと背筋を伸ばしていたが、消沈しているのは一目瞭然だった。
「…いつか、フュナ姫の思いが伝わるといいですね」
ルコットはうなずくと、強いて明るく、
「ハントさまからもお手紙が来たのですよ」
と一通の手紙を掲げた。
「フュナさまに『治療させて』と追い回されて、参っているそうですわ」
これにはホルガーも思わず笑ってしまった。
魅惑の魔術師が他国の皇女に追いかけ回され、たじろいでいる様は、王宮でも持ちきりの話題だった。
まさかその相談を、こんなところでしているとは。
「ところで、シスさまはどうされていますか?」
シスは陸軍の部隊とともに大聖堂の修復に当たっていた。
「上手くやっていますよ。無骨な男ですが、根の優しさが皆に伝わるようです」
ルコットはほっと胸を撫で下ろした。
「それに、驚くほど器用で身軽ですね。軽業師のように片付けていっていますよ」
俺にはとても真似できないと、ホルガーはその場で逆立ちをしてみせた。
ルコットは一瞬ぱちくりと目を見開いて、それから弾かれたように笑った。
ホルガーは気づいていた。
ルコットがフュナの件を気に病んでいることに。
(もしあのとき、「謝りに行こう」だなんて誘わなければ、フュナさまがこれほど苦しむことはなかった)
しかし、ホルガーはあえて何も言わずにいることを選んだ。
ルコット自身がその答えを出すために。
その夜、ルコットはいつものようにフュナからの手紙を開いた。いつも通りの内容だと疑わず。
しかし、幾ばくも読み進めないうちに、その目が大きく見開かれた。
そこにはこう記されていた。
――今日、一人の方が処方箋を見せてくださいました。私はきっと彼を治します。あなたさまが信じたこの道は、必ず未来に繋がっていると、私も心から信じています。
ルコットはその日、ベッドに入ると、安堵と温かな嬉しさのために、静かに涙を流した。




