第二十二話 思いがけないプロポーズ
この胸に生まれた淡い想いを、君は愚かだと笑うだろうか。
君にも心があるはずだと問えば、君は笑い飛ばしてしまうだろうか。
* * *
「僕と結婚してほしい」
スノウはまるで親の仇を見るかのような目で、眼前の男を睨みつけた。
「…何ですって?」
地を這うような声に、客間に配置されていた近衛兵の背を冷たいものが伝う。
それでも眼前の男、ハルはその言葉を撤回しようとはせず、ただもう一度言葉を重ねた。
「結婚しようと言ったんだ」
スノウはもう少しでポットに入った熱い紅茶を浴びせかけるところだった。
実際、右手はほとんど動きかけていた。
それをすんでのところで思い留まったのは、ひとえに相手が正装していたからだった。
他国の王子が正装をして正当な手続きの元面会に来た。
そして至極真っ当に客間で話をしているのだ。
無礼に対し、紅茶をお見舞いするわけにはいかない。
「……あなたの滞在を許可しているのは、仮にも命の恩人であるからです。そこに特別な心はありません」
沸騰しかけた頭を冷まし、氷のような言葉をかける。
誰の目にも、スノウにその気がないことは一目瞭然だった。
きっとハルにも、それは伝わっていただろう。
しかし、彼はそれを静かに受け止めた。
「…僕たちは王族なのだから、自分の気持ちなんて関係ないだろう」
スノウは目を細める。
確かにそれは否定し得なかった。
「東国カタルが屈した今、フレイローズ周辺四カ国のうち、残るは北国シルヴァだけのはずだ」
「…耳が早いのね」
マシューとシュタドハイス領主夫妻がカタル国から持ち帰ったものは、ランに関する情報だけではなかった。
リー=ランへの手厚い処遇、そして次期女王の話を聞いたカタル国帝は、とうとうフレイローズへの協力を申し込んだのである。
そして同時に、フュナとシスの滞在許可まで下された。
それは、フレイローズへの信頼を言葉より如実に表すものだった。
「父に相談した。フレイローズと手を取り合おうと。ここで見たこと、感じたことを全て書いた。町や民や兵の様子、城の雰囲気、あなたの父君のこと、そして、あなたのこと」
スノウの瞳が僅かに動いた。
「昨晩父から返答が着た。『是』と。この地に残ることを許可すると」
スノウは嘆息した。
言いたいことがようやく見えてきた。
「…進んで人質になろうというわけね」
人質として身を差し出す、つまり配下へ下る代わりに、民の生活を守ってほしいということだった。
シルヴァ国民は厳格で残酷だと言われている。
しかしそれは適切な表現ではなかった。
彼らはただただ厳格なのだ。自分にも他人にも。
情が薄いわけではない。
誰より情が厚いからこそ、裏切りが許されない。
曲がったことが許されないのだ。
王が許可したという言葉に嘘はないだろう。
そして王の決定が覆されることは永遠にない。
例えこの先何十代世代が移ろうと。
それが、シルヴァの誇りだった。
「…でもそれが我が国の利益になるとは思えない。私たちはあなたの国を守る為に予算を割く。見返りは何もない。そんなことがまかり通ると思う?」
スノウの反論に、ハルも反駁した。
「確かにシルヴァは不毛の地だよ。だけどそれはシルヴァに余力がないからだ。フレイローズほどの財力があれば、あの広大な土地はいかようにもなる。海には多くの魚がいる。高山地帯には薬草も自生しているし、俊足の馬も棲息している。何より地を掘れば大抵どこからでも宝石がごろごろ出てくる。僕たちには穴を掘り続けるだけの力はないけれどね」
皮肉なものだとスノウは思った。
もし、彼らがほんの少しでも温暖な国土を持っていたならば、シルヴァ国の産業は世界一活性化していたかもしれない。
開発を進められるだけの食物と財源さえあれば。
彼らにとって宝石など何の価値もないのだろう。
出るところに出せば、食べ物など有り余るほど買えるというのに。それを行うだけの体力も経路もないとは。
つくづく自国と正反対だとスノウは自嘲した。
それをどう受け取ったのか、ハルは訝しげに眉を寄せた。
「スノウ殿下、まだ何か問題があると言うのかい?」
スノウはハルの銀色の目を見透かすように覗き込んだ。
「婚約者は?」
何を問われたのか分からなかったのか、ハルは返答に詰まる。
しかしスノウは追撃を止めなかった。
「婚約者がいるはずでしょう」
ハルの顔色がさっと白くなる。
「婚約破棄するつもりなの?」
それでもスノウは問いを重ねていく。
黙っていればこのまま際限なく問い続けるのだろう。
それに耐えきれなくなったのか、ハルは懸命に震える唇を動かした。
囁くような乾いた声が出た。
「……彼女は別の男と結婚したよ。婚約破棄されたのは僕の方だ」
蒼白なまま、手元へ視線を落としたハル。
対照的にスノウは眉一つ動かさなかった。
「なるほど、そういうことね」
一体何を納得したのかとハルは目線を上げる。
そこには至極冷静な顔をしたスノウが、淑女の模範とも言える姿勢で座っていた。
「だから、そんなに遠くを見ながら求婚するのね」
ハルは、息を飲むと同時に、自分の頬が涙で濡れていることに気づいた。
スノウはそんな彼にハンカチを差し出すことさえせず、話は終わったとばかりに席を立つ。
「生憎だけど、私はその子の代わりにはなれないわ」
ハルがその言葉の意味を理解するより先に、スノウは扉の向こうへ消えようとしていた。
「…私はその彼女と、髪の色でも似ていたりするのかしら」
去り際、残された皮肉は、おそらく独り言だったのだろう。
その言いように、怒りが湧いてくることはなかった。
ただただ虚しかった。
勝手に納得して席を立ってしまうなんて。
弁解の余地さえ与えられなかったのだ。
ハルは、思わず唇を動かした。
例え聞く人がいなくとも、これだけは言っておきたかった。
「……君の髪の色は彼女と全く違っているよ」
言えば楽になると思ったのに、余計に苦しくなるばかりだった。
* * *
記憶の中の婚約者は、いつも笑顔だった。
シルヴァ国では珍しい濃茶色の髪と、両頬のえくぼ、そして太陽のような笑い声が印象的な少女だった。
恋というにはあまりに幼く、控えめな好意。
男女の愛には程遠かっただろう。
それでも、ともに庭を散歩し、ともに食事をする彼女は、ハルにとって家族も同然の存在だった。
ハルが悲しんでいるといつも、花を摘んで渡してくれた。
心ない言葉には、一緒に憤ってくれた。
「私が傍にいる」
そう言って手を握ってくれた。
ある日、王宮の廊下を歩いていると、一室から婚約者のささやき声が聞こえてきた。
「ねぇ、そこにいるのかい?」
何故彼女がこんな部屋に?
不思議に思わなかったわけではない。
しかし、当時のハルの辞書に「婚約者を疑う」という文字はなかった。
ためらいなく、その扉を開いてしまった。
そして、ハルの体は氷のように固まる。
瞳さえ動かすことができなかった。
そこには、確かに彼女がいた。
一人の見知らぬ男と抱き合って。
彼女は一瞬「しまった」と顔を歪めたが、眼前の男を視界に入れると、何かを決意したように口を開いた。
「私が本当に愛してるのは彼だけなの」
「……それなら、何故僕の婚約者に?」
頭は真っ白なのに、口だけが勝手に動いた。
「……あなたが王子だから」
それ以上、聞く気にはなれなかった。
これまでの言葉は全て嘘だったのか。
笑顔も、思い出も、何もかも。
涙さえ出なかった。
自然と乾いた笑顔が浮かんだ。
「そっか、お幸せに」
それ以来、ハルは「女」というものを避けるようになった。
夜会で群がってくる令嬢も、どこか冷めた目で見てしまう。
(見てくれや地位、財産しか見てないくせに。なんて愚かなんだろう)
女など信用できない。
一生独身でいよう。
そう決めて生きてきたのに。
ハルは苦笑すると、愛想笑いさえしない氷の姫君を想った。
彼女は他のどんな女性とも決定的に違う。
他者のために自らの心を殺し、凛と背筋を伸ばした気高い王女。
「……どうすれば信じてもらえるんだろう」
はじめて抱いたこの心を。
温かく、優しく、切ない、この気持ちを。




