第二話 ホルガー=ベルツ
「大将!大将!大変だ大将!!」
廊下から轟く部下たちの足音に、ホルガーは眉をひそめた。
いまだに慣れないその称号には思わずどきりとしてしまう。
そもそも、何故そのような地位を賜ったのか、一月を経た今になっても、いっこうに理解できないのだ。
元々、腕に自信はあった。
外敵に侵されやすい領地に、厳しい父の鍛錬、変わり者な長兄と奔放な次兄。
こうしてはいられないと励み続けること早数十年、いつしか東方の火龍と呼ばれるまでになっていた。
戦にも度々出陣した。
争うことを好むわけではなかったが、四方を四つの国に囲まれた祖国を守るためには致し方ないことだと思っていた。
この巨大な軍事力がなければ、国中が火の海に包まれるであろうことは明白だったからだ。
そして二月ほど前、これまでにないほど大きな迫り合いが南方国境付近で起きた。
それは、「凄惨であった」としか表しようのない戦いだった。
力を抜く余裕など、一切なかった。
ただ、目の前の敵兵を退けること。
それしか頭になかった。
そして、突然、視界がひらけた。
最後の一人を討ったのだということに、そのとき、ようやく気がついた。
周りには、文字通り、草木一本残ってはいなかった。
ホルガーは知らない。
自身が、今南国エメラルドで冥府の悪魔と恐れられていることも、部下の命を知らずしらずのうちに救っていたのだということも。
* * *
「あれにはもう伝えたか」
「はい」
スノウは白と青の混ざった宝石のような瞳で、眼前の父親を見つめた。
王と呼ぶにはあまりに器の小さな男だった。
善政を敷くこともできず、他国を討ち払うどころか、和平を結ぶことさえ満足にできず、ただ自身のプライドを守るためだけに生き、女に慰めを求め続けた、そんな父。
とうとう今、病に蝕まれ、その生涯さえ終えようとしている。
スノウの目には、父の姿はとても哀れに映った。
悪い男ではないのだ。
ただ、強さが足りなかった。
これだけ娘をもうけておきながら、一人も男子を授かることができなかった王は、とうとう、次期王にスノウを指名することに決めた。
正式に発表されたわけではなかったが、それはもはや国民の間でも暗黙の了解となっていた。
今、スノウが願うのは、強き王になること。
そして、この国を守ること。
それだけだった。
そのために、ホルガーに目を付けたのだ。
冥府の悪魔に恐れをなしたエメラルドは、フレイローズに半永久的な和平を申し入れてきた。
一つの国が、一人の男に屈したのである。
確かに報告を見る限り、彼は、戦略、力量、技術、どれを取っても同じ人間とは思えなかった。
そして、何より、かの男は人望が厚かった。
内部の人間で彼を悪く言う者が一人もいないというのは、信じがたいことだった。
そんな人間を、野放しにはしておけない。
葬り去るか、味方につけるか、どちらかを選ばなければならない。
否、もはや選ぶことはできなかった。
彼を害すれば、陸軍全体を敵に回すことになるからだ。
結局、スノウは彼を近くに置くことにした。
そして、妻として妹を授けることで、より王家との結びつきを強めようとしたのである。
「しかし、やはり私には納得できない。何故末の姫なのだ。王家に忠誠を誓わせるためだと言うなら、美しく洗練された娘を取らせるべきではないか」
スノウは、表情一つ変えず、扇で口元を隠しながら、氷のような視線を向けた。
「簡単なことです、陛下。一つ、彼は雅なことを好みません。美しい銀細工より、煉瓦を重宝がるはずです。二つ、私は政敵を作るつもりはありません。力を持った姫を陸軍大将に嫁がせれば、それだけで一大勢力になります。それは王家にとって脅威でしかありません。ルコットは後ろ盾もなければ、野心もありません」
「…何故、野心がないと分かるのだ」
「……姉妹ですから」
そう言うと、スノウは軽く頭を下げ、颯爽と退室してしまった。
「……スノウ、すまない。哀れな娘よ」
誰もいない部屋に一人、白髪の王はぽつりと呟いた。
* * *
「は?」
「だから!二十人のお姫さまのうち一人があんたに嫁いでくるんですよ!王命で!!」
ホルガーは一瞬書類処理の手を止め、部下たちの顔をまじまじと見つめた。
皆一様に嘘をついているようには見えない。
しかし、それを受け入れるのは、長らく田舎の辺境領で生きてきたホルガーにはあまりに難しかった。
(何かの間違いだろう)
そう結論づけ、再びペンと印章を持つ。
一月にも及ぶこの引き継ぎ書類の処理が、彼の判断を鈍らせた最も大きな要因だろう。
ペンを走らせ、印章をつきながら、心ここに在らずといった風情で「そうか」と返事をする。
焦れた部下は、思いおもいに騒ぎ始めた。
「大将!冗談ではないんですよ!」
「そうですよ!こいつが使者から言付かってちゃんと手紙まで受け取ってるんですから!」
書類とにらめっこしていたホルガーの眼前に、一通の手紙が差し入れられた。
見間違えようのない王家の蝋封に、思わずペンを取り落す。
「俺は、ちゃんと聞きましたよ。『陸軍大将ホルガー=ベルツ殿に渡すように。一人の王女をその者の妻に取らせる。必ず目の前で開封していただくように』と」
ホルガーは、とりあえず、その手紙を受け取った。
そんなことあるはずがない。
しかし先のレインヴェール伯に養子縁組を持ちかけられたのも、大将の任を命ぜられたのも、ちょうど今このときのように突然だった。
「大将、何て書いてあるんですか?」
部下に促されるままに、その文言を一字一句違わず読み上げた。
「陸軍大将、レインヴェール伯、ホルガー=ベルツ殿。貴殿に我が国第二十姫ルコットを妻として授ける」
途端に、狭い部屋の中でひしめき合う部下たちは一斉に口を閉じた。
「…本当だったのか」
ただ一人、ホルガーだけがぽつりと呟く。
何かの間違いだとはもはや思えなかった。
しかし、何故。
黙り込んだホルガーの代わりに、部下の一人が口を開いた。
「二十番目の末姫って言うとあの…」
「何故あの姫なんだ…?」
ざわつく室内に、首をかしげる。
「有名な方なのか?」
「有名というか…」
「…まぁ、端的に言うと、美しくはない方です」
妙齢の女性に対して、酷い言いようだと眉をひそめる。
しかしそれはどうやら民の間でも周知の事実となっているらしい。
「上姫四人衆は別格にしても、あとの十五人の姫さまは皆美人なのに。どうしてあの末姫が指名されたんでしょう」
「陸軍の内情を探らせるためとか?」
「それなら美人の方が上手くいくだろう」
首をひねる部下たちに、ホルガーはため息をついた。
「お前たち、不敬罪でお縄になるぞ」
「お縄にかけるのは俺たちの仕事ですからね」
「それに、ルコット姫に関することで罪に問われた者はこれまで一人もいないんですよ。御母堂も亡くなられていて後ろ盾も全くないもんですから」
「…気の毒な方だな」
「お、情が湧きましたか?」
「恋と憐れは種一つって言いますからね」
からかう部下たちを睨むも、全く効果は見られず、むしろ面白そうに肩を叩かれる。
「これから大将が幸せにして差し上げればいいんですよ」
「……そうだな」
正直なところ、そんな自信は全くと言っていいほどなかった。
他国の王子や高官の息子に嫁ぐことが約束された地位にいながら、こんな田舎者にあてがわれるなんて、本当に気の毒だとしか言いようがない。
それほど立場の弱い姫なら、王やスノウ殿下に取り下げを進言することも不可能だろう。
何とかしてやりたいとは思うものの、それは、ホルガーとて同じだった。
「…とりあえず、新居の用意か?」
先のレインヴェール伯夫妻と同居では、やはり居心地が悪いだろう。
ホルガーにとっては、第二の両親とも言える尊敬すべき二人だが、姫にとっては負担になるに違いない。
「どうでしょう?」
「それは陛下や殿下が整えてくださるのでは?」
圧倒的に既婚者の少ない陸軍内で、それらの議論は堂々巡りを極めた。