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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第一章 婚礼編
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第十九話 逃げた花嫁


 カタル国のリー=ラン。

 彼女は宮中を取り仕切る旧家の一人娘だった。


 花のようなかんばせ。

 豊かな教養。

 少々高慢なところはあったが、それさえ大した欠点にはならなかった。


「お前はどこへ出しても恥ずかしくない娘に成長してくれた。私はとても誇りに思うよ」

「当然ですわ、お父さま。私、宮中でもうまくやってみせます」


 かくしてリー=ランは、フュナ、シスの乳母として皇宮入りした。

 齢十四のときだった。



* * *



 カタル国では、女子も皇位継承資格を有しているため、皆が皇太女であるフュナを贔屓していた。

 それは、ランも例外ではなかった。


 ある日、ランがお茶を淹れていると、フュナが悲しげな表情で問いかけた。


「何故ランは、シスには声をかけないのですか?」


 痛いところを突かれ、どうしたものかと逡巡する。


「かけていますよ?」

「いいえ、嘘です。あれではシスが可哀想です」


 眉を下げた皇女に、罪悪感が募る。


「……本当はお二人とも、可愛いのですよ」


 思わず漏らした本音に、フュナの大きな目がさらに大きくなった。


「それならどうして?あの子は、『皆俺と関わらない方がいい』と言っていますが、とても寂しそうです」


 ランは瞬きを忘れるほどに驚いた。


「シスさまがそう仰ったのですか?」


 フュナは泣き出しそうな顔で、こくりとうなずいた。



* * *



 夜半、二人を寝かしつけながら、ランはそっと問いかけた。


「シスさま、起きてらっしゃいますか?」


 円窓から月を見つめていたシスには、その声がたしかに届いていた。しかし、そっと目を閉じ寝たふりを決め込む。

 ランは、構わず話し続けた。


「私は、自分のことしか考えられない卑怯者でした。とてもあなた方に相応しい乳母ではありません。明日帝に申し上げて、お暇をいただこうと思っています」


 その瞬間、シスはがばりと振り返った。

 月光に照らされた瞳から、ぽろぽろと涙が流れ落ちる。

 その姿は、日頃凛と伸ばされた背中からは想像もできないほどに弱々しかった。


 ランは忘れていた。

 シスがまだ四つの子どもだということを。

 初めて目にした涙に、胸がきつく締め付けられる。

 いくら頭が切れても、この子はまだほんの子どもだったのに。

 どれだけ傷つけたことだろう。

 どれほど寂しい思いをさせてしまったのだろう。


「ごめんなさい……ごめんなさい、シスさま」


 ランはぼろぼろ泣きながら、謝り続けた。

 これまで取ってきた素気無い態度は、きっと鋭い刃だった。

 取り返せない日々に、涙が止まらなかった。



* * *



 月日は、風のように軽やかに過ぎて行った。

 フュナは素直な優しさはそのままに、芯の強さを備えた娘へと成長していった。

 一方、シスの深い思いやりは、徐々に周囲の者の心を捉えていった。

 この国は安泰だと、誰もがそう確信していた。


 そうなると、次に民が望むのは晴れやかな報せ――幸せな婚姻である。


「ラン、俺と結婚してほしい」


 白い肌を真っ赤にしたシスのプロポーズ。

 黒髪の美しい青年は、積年の想いを口にした。


 ランは笑い出しそうな嬉しさを噛み締め、はっきりとうなずくと、その腕に飛び込んだ。

 自分のことのように喜ぶフュナ、照れ笑うシス。

 密やかな祝福の空気が王宮に満ちていった。


 しかし、それもそう長くは続かなかった。

 ある日突然、ランがフレイローズ国へ旅立ったのである。



* * *



 皇宮は上を下への大騒ぎだった。

 何かの間違いだと涙ぐむ者、途方にくれる者、様々だったが、誰より嘘だと信じたかったのは、フュナとシスだった。


 何故結婚を控えたこのときに、彼女は消えてしまったのか。

 消えた花嫁はフレイローズ国内のどこにいるのか。

 何度も国王に手紙を書いた。

 秘密裏にスパイを送りもした。

 しかし結局、彼女の居所を掴むことはできなかった。


 一年、二年、三年が過ぎた。

 しかし、彼女直筆の「心配しないでほしい」という手紙が届くばかりで、帰国を匂わせるものは一向に届かない。

 とうとう八年が過ぎ、誰もがしびれを切らしかけていたとき、フレイローズから、一通の手紙が届いた。


――フレイローズ国側妃リー=ラン殿は、王の怒りに触れ、この地で亡くなりました。彼女の遺言に従い、フレイローズ国内に埋葬いたします。


「そんな……」

「側妃だと…!?」


 戸惑いと怒りと悲しみ。

 こんな感情を、二人は知らなかった。


「父上!母上!フレイローズへ行かせてください!」

「ランの仇を取ってまいります!」


 何度もそう嘆願したが、両親の答えはいつも同じだった。


「……ならぬ」

「何故ですか!」

「大国に屈するのですか!」

「……今のお前たちには言えぬ」


 釈然としない思いを抱えて食い下がったが、結局許可が下りることはなかった。

 

 そんなある日、フレイローズ国から通達があった。


――第二十王女ルコット=ハイ=フレイローズと、陸軍大将レインヴェール伯ホルガー=ベルツの成婚式を執り行う。願わくば参列されたし。


 これを狙うしかない。そう思った。

 

「ランの無念を晴らせば、この胸の重りは軽くなるでしょう?」

「……あぁ、きっと」


 フュナとシスは固い決意を交わし、両親にも隠れてフレイローズへと向かった。

 本当にこれで良いのだろうかという迷いに、必死で蓋をしながら。



* * *



「……私は、シスさまとの結婚が決まったあのとき、急に怖くなったのです。世間も知らない、特別な長所があるわけでもない私が、本当にシスさまの妻になって良いのかと」


 ランの独白に、ルコットは息を飲んだ。

 その思いは、今ルコットの抱えているものと全く同じだったからだ。


「そうして数カ国かに手紙を出しました。どうか留学させてほしいと。他国で学び、狭い皇宮の外を知れば、シスさまに相応しい妻になれると思ったのです。どの国にも断られましたが、フレイローズだけは私を受け入れてくれました」

「それでは何故、帰ってこなかったんだ」


 シスの茫然とした呟きに、ランは目を伏せた。


「この地で学んでいるうちに、気づいたのです。自分の見識の浅さと、大したことのない容姿に。シスさまには必ず、もっと相応しい方がいる。私が選ばれたのはきっと、ひな鳥の刷り込みのようなものだったのだと」

「愚かな……!俺は、今でもあなただけを愛しているのに!」


 無口なシスの口からそんな言葉が出るとは思っていなかったのか、ランは瞳を大きく見開いた。


「あれから八年ですよ……?八年間も……」

「何年経とうが変わるはずがない!見識や容姿などどうでもいい!俺にはあなただけだった!」


 大粒の涙を流すラン。

 熱烈な告白に口笛を吹きかけた陸軍も、今回ばかりは自粛した。

 何という行き違いだったのか。


「……人騒がせな」


 国王は天を仰いで嘆息した。





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