第十八話 鐘楼の鐘
「何をしているんだ君は!」
突如怒号が響く。
スノウでさえあまりの声色に肩を揺らした。
その首に微かに当たった刃が、凄まじい音を立てて跳ね飛ばされる。
声の主、ハルは、スノウの首に僅かに伝った血を見て、さらに苛立ちを露わにした。
「民を想う王族ほど得難いものはないと、あなたが言ったんだ!」
スノウには、彼の怒りの理由が分からない。
(私が消えればむしろ、彼にとっては好都合なはずなのに)
訳の分からぬままただ一言、「助かったわ」と呟いた。
その隙に、サクラスは周囲の王族の避難を促す。
長剣を飛ばされ茫然としていた者は、その段になって初めて、自身の計画が失敗したことを悟った。
そのとき、大聖堂の鐘の音が、辺りに響き渡った。
それはまるで大海の波のように空気を揺らし、街全体を包み込む。
犬の散歩をしていた少年も、洗濯物を干していた女も、煙草をふかしていた男も皆、天を仰ぎ、聳え立つ大聖堂の鐘楼を見つめた。
同時に、壇上のルコットの法衣が、光る粉を纏ったかのように輝き始める。
それらは徐々に舞い上がり、割れた窓から天へと昇っていった。
ホルガーは、舞い落ちた金の粉をそっと受け止めた。
それから、その粉を額にいただき、誇らしげに笑う。
(彼女はやり遂げたのだ…!)
金色が青空に溶けていく。
祝福の声が、街のあちこちから上がっていた。
* * *
ルコットの法衣が白に変わると同時に、アスラは「走れ!」と叫んだ。
最後に司祭が、ティアラを贈呈すると、彼もまた「行きなさい」とルコットの背を押す。
「彼が待っているのでしょう」
傍らには、もはや満足に言葉を発することもできないハント。
そして、傷を負いながらなお奮戦するアスラ。
彼らを置いて、走らなくてはならない。
それが今、自分にできる唯一のこと。
ルコットは深く頷くと、全力で駆けた。
それを目にした黒衣の者は、二人揃って「逃すものか」と後を追う。
その追撃を、アスラとハルが懸命に弾き落とした。
長い長い道を駆ける。
扉はすぐ近くにも、とても遠くにも見えた。
息が上がって体は熱く、今にも倒れてしまいそうだ。
追手はどこにいるのだろう。
すぐ背後だったら。
今にも背を斬られたらどうしよう。
そんな不安に押し潰されそうになる。
そうなったら、全てが無駄になってしまう。
皆の想いも、全て。
そのとき、体がまるで、飛んでいるかのようにふわりと軽くなった。
一瞬驚いてつんのめりそうになるも、何とか持ち直し、先程より軽快に走れるようになる。
追い風が吹いているのだということに、そのとき初めて気がついた。
* * *
「さすが腐っても国王だね、レオ」
がらがらの乾いた声でからかうハントに、王は歩み寄ると、その肩を貸した。
「…久しいな」
「そうだね、ルイーザの葬儀以来だ。この臆病者め」
王は走り行く娘を見送りながら、ようやく開いた扉に目を細めた。
「もし彼女がお前を選びこの地を去っていたら、あんな死に方をすることもなく、もっと幸せに暮らせていたかもしれない。あの日から、そんな後悔が消えなかった」
ハントはもう一度、「臆病者め」と呟いた。
しかし、そこには責めるような響きは全く含まれていなかった。
「彼女が一度も君を名で呼ばなかったのは、王としての君を重んじたからだ。側妃としての役割に誇りを持っていたからだ。私を選んだ時点で、それは彼女ではないだろう」
王はしばしの間沈黙したが、それから一言、「…知らなかった」とこぼした。
それはまるで、朝露のような声だった。
ハントは淡く笑うと、「臆病者め」と繰り返した。
王もまた静かに笑った。
「…臆病者でも、こうして娘を助けることができたのだ。国王として生まれたのも悪くはなかったのかもしれぬ」
いっぱいに開かれた扉から、太陽の光がさし込む。
その中へ、ルコットは真っ直ぐに駆けて行った。
「何故過去形なんだ。まだまだ引退はさせないよ。私の目が黒いうちはね」
王は僅かに息を呑むと、まじまじとハントを見つめる。
対するハントは、照れたようにはにかみ、王を小突いた。
何と懐かしい顔をするのだ。
自然と頬が緩んでいく。
とうとう白髪の王は、少年のように吹き出した。
「永久に隠居させないつもりか。タチの悪い魔術師め」
その笑顔は、ルイーザが存命だった頃、三人でともに過ごしたあの日々を思い起こさせた。
時が戻ることはない。
喪った者が帰ることもない。
それでも、思い出に意味がなくなるわけではない。
あの幸せな日々は本物だった。
彼女が王に与えたものも、王が彼女に捧げたものも。
それを見守り続けたハントの、陽だまりのような心も。
「…また側に付いてくれるか、ハント」
「あぁ、御心のままに。彼女が愛した王よ」
街中に金の粉が降る中、塔の窓辺で、ばあやは無邪気に駆け回るかつての主を想い、両の目を閉じた。
* * *
聖堂から、眩い青空の下へ飛び出す。
勢い余ってよろけた体を、彼はしっかりと受け止めた。
「…ホルガーさま」
息が切れて、上手く話すことができない。
言いたいことも、言わなければならないことも、たくさんあるのに。
どうしようもない安堵に飲まれ、もはや足に力が入らなかった。
「殿下、お待ちしていました」
その一言に、救われてしまう。嬉しくなってしまう。
こんな自分を信じて、彼はここで待っていてくれたのだ。
「…信じてくださって、ありがとうございます」
伝えたかったこの言葉は正しく伝わるだろうか。
信じてもらえる。
ただそれだけのことが、どれほど得難いものであったか。
ホルガーは僅かに頬を染めると、視線を泳がせ、眉を下げて笑った。
「俺だけじゃありません。この作戦を知る者も知らぬ者も皆、殿下を信じていたのです。だから誰も途中で式を止めようとはしなかった」
言いながら、ホルガーは背の大剣を掴んだ。丁度中辺りの鞘の部分を。
そしてそれを抜くことなく、飛びかかって来た二人組を力で押し、路面へ叩きつけた。
凄まじい音に、行方を見守っていた堂内の人々はおろか、行き交う通行人までもが一斉に振り向く。
ルコットでさえ、ホルガーの腕の中で肩を跳ねさせた。
「…言え、どこの国のものだ。何故殿下を狙った」
張り詰めた空気の中、誰もが固唾を飲んで成り行きを見守る。
すると、拍子抜けするほど能天気な声が辺りに響いた。
「こらこらホルガー君、女性にあまり手荒な真似をするものじゃないよ」
王とアスラに担がれた血濡れのハントが、飄々と近づいて来る。
ホルガーは一瞬眉を寄せたが、すぐにまた二人に視線を戻した。
「女性?」
「そうさ、一人はね。もう一人は男だが、動きや気配はとても近い。きょうだいかな?因みに武具は東国のものだね」
「…カタルの者か」
アスラがこつこつと歩み寄り、頭巾を奪う。
白日の下に晒されたその顔に、誰もが信じられないとばかりに目を見開いた。
そこにいたのは、カタル国嫡女、ハン=フュナと、その弟である嫡男、ハン=シスであった。
「…何故、あなたたちは反戦派だったはず」
驚きと失望を隠し切れないサファイアを、彼らは嘲笑った。
「そんなの演技に決まっているでしょう。人殺し共め」
それは、底冷えのする憎しみのこもった声だった。
「お前たちの王は、私たちの乳母を一方的に見初め、奪い、帰らぬ人とした!」
ハントに肩を貸していた王は、眉一つ動かさず、彼らを見つめる。
そんな彼に焦れたのか、シスは声を荒げた。
「何とか言ったらどうだ!」
それでもなお、王は無表情のまま、感情の読めない声で告げた。
「その通りだ」
誰もが耳を疑ったが、あまりにはっきりとした返答に是非を唱えられるはずもない。
「だが、お前たちの負けだ。どれだけ立派な大義名分があろうとも、正義は常に勝者の下にある」
ルコットは、先程までの父と、今この瞬間、這いつくばる二人を見下す父と、どちらが本当の姿なのか、わからなくなってしまった。
彼らの復讐に納得するわけではない。
大切な人を失ったからといって、誰かを傷つけてしまっては、また新たな憎しみを生むだけだ。
しかし、彼らの憎しみを軽んじることも、跳ね除けることもできなかった。
失うことの痛みを、知っていたためである。
瞳を燃やし、王を睨みつけるフュナ、そして嘲るように口を歪めたシスが吼えた。
「俺たちはここで終わりかもしれない。だが、裏手の山で待機している兵に合図を出した。少なくともこの辺り一帯は、すぐ火の海になるはずだ。王よ、無様に逃げるか。戦うか。いずれにせよこの無念、必ず晴らしてみせよう…!」
低く響いたその声に、周囲の民が青褪めた。
他国にこの国を侵略するだけの力があるとは思えない。
しかし、あの口振り、あの自信。とてもはったりとは思えない。
だとしたら、この街はどうなってしまうのだろう。
俄かに混乱が広がり始めた。
そのとき、森のような静謐な声が人々の耳にするりと入り込んだ。
「彼らは来ませんよ。きちんと説得してお帰りいただきましたから」
清浄、温柔、そして神秘。
その声の主に誰もが注目した。
それは、緑の髪に大き過ぎる眼鏡をかけた、痩せぎすの男だった。
背後には、熊の如き大男と線の細い女性が並び立っている。
ホルガーは思わず眉間を抑え、アスラは目を丸くした。
「……あなたは?」
「僕はマシュー=モア。そこにいるアスラ=モアの夫で、しがない魔術師です」
状況の飲み込めないフュナとシスに、彼は穏やかに言葉を続ける。
「ちなみに、後ろのお二人は、東方辺境シュタドハイス領主ハイドル=ベルツ殿とロゼ=ベルツ夫人。僕の義両親です」
勿論、フュナもシスも、二人の顔は知っていた。
何せ国境を挟んだ隣人だ。
「僕は彼らと共に、カタル国皇帝陛下に話を伺いに行きました。かつて、あの国で何があったのかを」
嘘でしょう。
思わずフュナはそう呟いたが、二人ともそれが真実であると直感していた。
「結論から言えば、君たちの乳母はご存命です。そして、今ここへ向かっています」
もはや言葉もなかった。
黙り込む二人に、マシューは気の毒そうに目を伏せる。
「そこにいらっしゃる陛下は、あなたたちの乳母をこの国に匿っていたのですよ」
「……何故、そんなことを」
ひどく混乱した頭で発せた言葉は、ただそれだけだった。




