表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第一章 婚礼編
18/137

第十八話 鐘楼の鐘


「何をしているんだ君は!」


 突如怒号が響く。

 スノウでさえあまりの声色に肩を揺らした。


 その首に微かに当たった刃が、凄まじい音を立てて跳ね飛ばされる。

 声の主、ハルは、スノウの首に僅かに伝った血を見て、さらに苛立ちを露わにした。


「民を想う王族ほど得難いものはないと、あなたが言ったんだ!」


 スノウには、彼の怒りの理由が分からない。


(私が消えればむしろ、彼にとっては好都合なはずなのに)


 訳の分からぬままただ一言、「助かったわ」と呟いた。

 その隙に、サクラスは周囲の王族の避難を促す。


 長剣を飛ばされ茫然としていた者は、その段になって初めて、自身の計画が失敗したことを悟った。


 そのとき、大聖堂の鐘の音が、辺りに響き渡った。

 それはまるで大海の波のように空気を揺らし、街全体を包み込む。

 犬の散歩をしていた少年も、洗濯物を干していた女も、煙草をふかしていた男も皆、天を仰ぎ、聳え立つ大聖堂の鐘楼を見つめた。


 同時に、壇上のルコットの法衣が、光る粉を纏ったかのように輝き始める。

 それらは徐々に舞い上がり、割れた窓から天へと昇っていった。


 ホルガーは、舞い落ちた金の粉をそっと受け止めた。

 それから、その粉を額にいただき、誇らしげに笑う。


(彼女はやり遂げたのだ…!)


 金色が青空に溶けていく。

 祝福の声が、街のあちこちから上がっていた。



* * *



 ルコットの法衣が白に変わると同時に、アスラは「走れ!」と叫んだ。

 最後に司祭が、ティアラを贈呈すると、彼もまた「行きなさい」とルコットの背を押す。


「彼が待っているのでしょう」


 傍らには、もはや満足に言葉を発することもできないハント。

 そして、傷を負いながらなお奮戦するアスラ。

 彼らを置いて、走らなくてはならない。

 それが今、自分にできる唯一のこと。


 ルコットは深く頷くと、全力で駆けた。

 それを目にした黒衣の者は、二人揃って「逃すものか」と後を追う。

 その追撃を、アスラとハルが懸命に弾き落とした。


 長い長い道を駆ける。

 扉はすぐ近くにも、とても遠くにも見えた。

 息が上がって体は熱く、今にも倒れてしまいそうだ。

 追手はどこにいるのだろう。

 すぐ背後だったら。

 今にも背を斬られたらどうしよう。

 そんな不安に押し潰されそうになる。

 そうなったら、全てが無駄になってしまう。

 皆の想いも、全て。


 そのとき、体がまるで、飛んでいるかのようにふわりと軽くなった。

 一瞬驚いてつんのめりそうになるも、何とか持ち直し、先程より軽快に走れるようになる。

 追い風が吹いているのだということに、そのとき初めて気がついた。



* * *



「さすが腐っても国王だね、レオ」


 がらがらの乾いた声でからかうハントに、王は歩み寄ると、その肩を貸した。


「…久しいな」

「そうだね、ルイーザの葬儀以来だ。この臆病者め」


 王は走り行く娘を見送りながら、ようやく開いた扉に目を細めた。


「もし彼女がお前を選びこの地を去っていたら、あんな死に方をすることもなく、もっと幸せに暮らせていたかもしれない。あの日から、そんな後悔が消えなかった」


 ハントはもう一度、「臆病者め」と呟いた。

 しかし、そこには責めるような響きは全く含まれていなかった。


「彼女が一度も君を名で呼ばなかったのは、王としての君を重んじたからだ。側妃としての役割に誇りを持っていたからだ。私を選んだ時点で、それは彼女ではないだろう」


 王はしばしの間沈黙したが、それから一言、「…知らなかった」とこぼした。

 それはまるで、朝露のような声だった。

 ハントは淡く笑うと、「臆病者め」と繰り返した。

 王もまた静かに笑った。


「…臆病者でも、こうして娘を助けることができたのだ。国王として生まれたのも悪くはなかったのかもしれぬ」


 いっぱいに開かれた扉から、太陽の光がさし込む。

 その中へ、ルコットは真っ直ぐに駆けて行った。


「何故過去形なんだ。まだまだ引退はさせないよ。私の目が黒いうちはね」


 王は僅かに息を呑むと、まじまじとハントを見つめる。

 対するハントは、照れたようにはにかみ、王を小突いた。

 何と懐かしい顔をするのだ。

 自然と頬が緩んでいく。

 とうとう白髪の王は、少年のように吹き出した。


「永久に隠居させないつもりか。タチの悪い魔術師め」


 その笑顔は、ルイーザが存命だった頃、三人でともに過ごしたあの日々を思い起こさせた。

 時が戻ることはない。

 喪った者が帰ることもない。

 それでも、思い出に意味がなくなるわけではない。

 あの幸せな日々は本物だった。

 彼女が王に与えたものも、王が彼女に捧げたものも。

 それを見守り続けたハントの、陽だまりのような心も。

 

「…また側に付いてくれるか、ハント」

「あぁ、御心のままに。彼女が愛した王よ」


 街中に金の粉が降る中、塔の窓辺で、ばあやは無邪気に駆け回るかつての主を想い、両の目を閉じた。



* * *



 聖堂から、眩い青空の下へ飛び出す。

 勢い余ってよろけた体を、彼はしっかりと受け止めた。


「…ホルガーさま」


 息が切れて、上手く話すことができない。

 言いたいことも、言わなければならないことも、たくさんあるのに。

 どうしようもない安堵に飲まれ、もはや足に力が入らなかった。


「殿下、お待ちしていました」


 その一言に、救われてしまう。嬉しくなってしまう。

 こんな自分を信じて、彼はここで待っていてくれたのだ。


「…信じてくださって、ありがとうございます」


 伝えたかったこの言葉は正しく伝わるだろうか。

 信じてもらえる。

 ただそれだけのことが、どれほど得難いものであったか。

 ホルガーは僅かに頬を染めると、視線を泳がせ、眉を下げて笑った。


「俺だけじゃありません。この作戦を知る者も知らぬ者も皆、殿下を信じていたのです。だから誰も途中で式を止めようとはしなかった」

 

 言いながら、ホルガーは背の大剣を掴んだ。丁度中辺りの鞘の部分を。

 そしてそれを抜くことなく、飛びかかって来た二人組を力で押し、路面へ叩きつけた。


 凄まじい音に、行方を見守っていた堂内の人々はおろか、行き交う通行人までもが一斉に振り向く。

 ルコットでさえ、ホルガーの腕の中で肩を跳ねさせた。


「…言え、どこの国のものだ。何故殿下を狙った」


 張り詰めた空気の中、誰もが固唾を飲んで成り行きを見守る。

 すると、拍子抜けするほど能天気な声が辺りに響いた。


「こらこらホルガー君、女性にあまり手荒な真似をするものじゃないよ」


 王とアスラに担がれた血濡れのハントが、飄々と近づいて来る。

 ホルガーは一瞬眉を寄せたが、すぐにまた二人に視線を戻した。


「女性?」

「そうさ、一人はね。もう一人は男だが、動きや気配はとても近い。きょうだいかな?因みに武具は東国のものだね」

「…カタルの者か」


 アスラがこつこつと歩み寄り、頭巾を奪う。

 白日の下に晒されたその顔に、誰もが信じられないとばかりに目を見開いた。

 そこにいたのは、カタル国嫡女、ハン=フュナと、その弟である嫡男、ハン=シスであった。


「…何故、あなたたちは反戦派だったはず」


 驚きと失望を隠し切れないサファイアを、彼らは嘲笑った。


「そんなの演技に決まっているでしょう。人殺し共め」


 それは、底冷えのする憎しみのこもった声だった。


「お前たちの王は、私たちの乳母を一方的に見初め、奪い、帰らぬ人とした!」


 ハントに肩を貸していた王は、眉一つ動かさず、彼らを見つめる。

 そんな彼に焦れたのか、シスは声を荒げた。


「何とか言ったらどうだ!」


 それでもなお、王は無表情のまま、感情の読めない声で告げた。


「その通りだ」


 誰もが耳を疑ったが、あまりにはっきりとした返答に是非を唱えられるはずもない。

 

「だが、お前たちの負けだ。どれだけ立派な大義名分があろうとも、正義は常に勝者の下にある」


 ルコットは、先程までの父と、今この瞬間、這いつくばる二人を見下す父と、どちらが本当の姿なのか、わからなくなってしまった。


 彼らの復讐に納得するわけではない。

 大切な人を失ったからといって、誰かを傷つけてしまっては、また新たな憎しみを生むだけだ。

 しかし、彼らの憎しみを軽んじることも、跳ね除けることもできなかった。

 失うことの痛みを、知っていたためである。


 瞳を燃やし、王を睨みつけるフュナ、そして嘲るように口を歪めたシスが吼えた。


「俺たちはここで終わりかもしれない。だが、裏手の山で待機している兵に合図を出した。少なくともこの辺り一帯は、すぐ火の海になるはずだ。王よ、無様に逃げるか。戦うか。いずれにせよこの無念、必ず晴らしてみせよう…!」


 低く響いたその声に、周囲の民が青褪めた。

 他国にこの国を侵略するだけの力があるとは思えない。

 しかし、あの口振り、あの自信。とてもはったりとは思えない。

 だとしたら、この街はどうなってしまうのだろう。


 俄かに混乱が広がり始めた。

 そのとき、森のような静謐な声が人々の耳にするりと入り込んだ。


「彼らは来ませんよ。きちんと説得してお帰りいただきましたから」

 

 清浄、温柔、そして神秘。

 その声の主に誰もが注目した。

 それは、緑の髪に大き過ぎる眼鏡をかけた、痩せぎすの男だった。

 背後には、熊の如き大男と線の細い女性が並び立っている。

 ホルガーは思わず眉間を抑え、アスラは目を丸くした。


「……あなたは?」

「僕はマシュー=モア。そこにいるアスラ=モアの夫で、しがない魔術師です」


 状況の飲み込めないフュナとシスに、彼は穏やかに言葉を続ける。


「ちなみに、後ろのお二人は、東方辺境シュタドハイス領主ハイドル=ベルツ殿とロゼ=ベルツ夫人。僕の義両親です」


 勿論、フュナもシスも、二人の顔は知っていた。

 何せ国境を挟んだ隣人だ。


「僕は彼らと共に、カタル国皇帝陛下に話を伺いに行きました。かつて、あの国で何があったのかを」


 嘘でしょう。

 思わずフュナはそう呟いたが、二人ともそれが真実であると直感していた。


「結論から言えば、君たちの乳母はご存命です。そして、今ここへ向かっています」


 もはや言葉もなかった。

 黙り込む二人に、マシューは気の毒そうに目を伏せる。


「そこにいらっしゃる陛下は、あなたたちの乳母をこの国に匿っていたのですよ」

「……何故、そんなことを」


 ひどく混乱した頭で発せた言葉は、ただそれだけだった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ