第十六話 婚礼期間 最終日 暇乞いの儀
――明日の暇乞いの儀、それが奴さんの最後のチャンスだ。
「ルコットさま、そろそろお時間でございます」
ルコットは、はっと顔を上げると急いで立ち上がった。
どこか嬉しそうなばあやの顔も、目に入らない。
頭に浮かぶのは、昨日のアスラの言葉ばかりだった。
* * *
「儀式の間は、新郎である愚弟は聖堂内に入れない。これが最も大きな痛手だ」
暇乞いの儀とは、王家の者が降嫁する際、最後に行われる決別の儀。
この儀式を以て、王女は正式に王家を離れ、世の者と夫婦になることができる。
その間夫となる者は、妻と顔を合わせてはならない。
つまり、ホルガーは一歩も聖堂内に踏み入ることができないのだ。
「さらに悪い知らせだ。我々魔術師は、聖堂内で魔力を使うことができない」
「…どういうことだ?」
それまで黙って床を睨んでいたホルガーが訝しげに眉を寄せた。
「倫理的にとか、そういうことじゃない。物理的に魔力が使えないんだ。どういうわけかね。時と場合にもよるし、多少の個人差もあるが。ね、団長?」
視線を向けられたハントは、眉間を抑えた。
「君という人は…この国のトップシークレットをペラペラと…」
ホルガーは、戦の際、寺院が焼き討ちされる理由にようやく得心がいった。
魔術師が魔術を使えないとなると、戦況が大きく変わってくる。
ちょうど今このときのように。
「つまり、我々はほとんど丸腰の状態で、相当の手練れを迎え撃たねばならない。さて、可愛い義妹よ、ここで主役である君に質問だ。そのとき、君の取るべき行動は?」
ルコットは、アスラの黒い瞳をじっと見つめ、迷いなく答えた。
「儀式を、なるべく早く終えることです」
「その通り!」
アスラはルコットの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「恐ろしいかもしれないが、それしかない。この儀式は簡略化することも、延ばすことも、飛ばすこともできない。君は、なるべく早く儀式を終えて、堂外へ出るんだ」
ルコットの瞳は不安げに揺れたが、それでも頭は自然に頷いていた。
「君が一歩でも外に出れば我々の勝ちだ。式後、来賓は国へ引き上げなければならない。つまり奴らは、この国に滞在する大義名分を失う。君が逃げ切れば、奴らは目的を果たせぬまま、国に帰るしかなくなるんだ」
ルコットは、もう一度頷いた。
取るべき策はとてもシンプルだ。
儀式を滞りなく済ませ、扉外に待つ、ホルガーの元へ。
振り返ると、彼は静かな眼差しでルコットを見つめていた。
「…殿下なら、大丈夫です」
それから、しっかりと手が握られた。
思えば彼に触れるのはこれが初めてだった。
その手は大きく、無骨で、温かかった。
この手の元へ帰りたい。
そんな考えが自然と浮かび、ルコットはようやく自身の心を悟った。
気づかぬうちに、彼はとても大切な存在になっていた。
同志以上の感情を、既に抱えてしまっていた。
しかし、それでも良いと思った。
伝えない心は、有って無いようなものだから。
帰ったら、ただこれだけ伝えよう。
信じてくれて、ありがとう、と。
* * *
金の衣を纏ったルコットが、祭壇へと進む。
金は、この国の王族を象徴する色だった。
儀式を終えると、この衣はたちまち雪のような白へと色を変える。
これは王だけが為せる奇跡だった。
壇上には、見届け人である司祭、そして国王。
主賓席には王妃王女がずらりと並び、最前列にはスノウ、サファイア、メノウ、フィーユが座している。
ルコットは、その前を通り過ぎると、不自然でない程度の速度で階段を上がった。
結婚式の際は、あれ程周りの目が気になっていたのに、今はただ、使命感と穏やかな感慨があるばかりだった。
壇上へ立つ。
眼前の父の目に、いつになく真剣な自分の顔が映っていた。
この瞬間、ルコットはしばし使命のことさえ忘れ、父親の姿に釘付けになった。
「汝、女神サーリの子、ルコット=ハイ=フレイローズ……」
司祭の声がどこか遠くに聞こえる。
思っていたよりずっと若い男だ。
少なくとも、退位を考えるような歳では決して無い。
しかし、かつては眩い輝きを放っていたであろう髪は、艶のない白髪となっており、その下に、意思のない疲れ切った瞳が覗いている。
この人が、自分の父親なのか。
妙な気持ちだった。
絶対的な力を持っているのだと信じて疑わなかった王は、出会ってみれば病に侵されたただの一人の人間だった。
(…お父さま、あなたが私と同じ人間だって、もっと早くに知りたかった。そうすれば、私は一人の娘として、あなたを案じることができたかもしれない)
そのとき、王の背後のステンドグラスが、鋭い音を立て、爆ぜた。
数多の破片が飛び散り、司祭と王に降りかかる。
王は一瞬目を見開いたが、すぐに自身の法衣を掴むと、司祭をその下へ隠した。
その際、露出した左腕から鮮血が滴る。
式典用の重厚な法衣は、大抵の破片を弾いたが、いくつか大きな破片が刺さっていた。
ルコットの頬を、小さなガラスが掠める。
それを見た王は、今度はルコットの法衣を掴むと、彼女を包んだ。
ようやく我に帰ったルコットは、すぐに法衣を手繰り合わせ、破片の嵐から身を守り、叫んだ。
「構いません!続けてください!」
その声を皮切りに、スノウが右手を上げると、アスラとハントが躍り出て、三人を守るように囲んだ。
主賓席に座していたサファイア、メノウ、フィーユも一斉に声を上げる。
「落ち着きなさい!」
「陸軍第一部隊配置につけ!構え!」
「式は続行する!」
続行。その言葉にルコットは奮い立った。
震える足を叱咤し、司祭にもう一度告げる。
「司祭、続けてください」
老年の司祭は、臆することなく頷くと、不安も怯えも滲ませぬ堂々たる声色で聖読を続けた。
王もまた、破片が全て落ちきると、法衣を正し、常と変わらぬ姿勢に戻った。
その様子に、取り乱しかけていた人々も、俄かに落ち着きを取り戻し、各々の席にそろそろと座る。
非常時であるのに、色とりどりのステンドグラスに囲まれた壇上は、まるで天上のようだった。
「ルコット」
聖読の最中、微かに王の唇が動いた。
名を呼ばれるのは、これが初めてだった。
「頬の血を拭きなさい」
白地に金の刺繍が入ったハンカチが差し出される。
ルコットは、反射的にそれを受け取ると、両頬を拭った。
「ありがとうございます……お父さま」
父と呼ぶのもこれが初めて。
咎められるだろうか、それとも。
不安と僅かな期待を胸に様子を伺った。
しかし、王の表情が変わることはなかった。
それでも、ルコットは嬉しかった。
頬の血に気がついたということは、自分の顔を見ていてくれたということだから。
そして、一枚のハンカチを持たせてくれた。
最後に、言葉を交わすことができた。
ルコットは剣戟飛び交う中で、光さす空を見上げた。
彼が、待っている。
あの青空の下で。
帰ったら、話そう。
父が私の名を呼んでくれたのだ、と。
彼はきっと優しく笑って、ともに喜んでくれるに違いない。




