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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第一章 婚礼編
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第十五話 魔導師団長 ハント=ジュエルローゼ


「馬鹿にしているのか!」


 客用寝室のサイドテーブルが、がしゃんと音を立てる。

 乗せられていたベッドライトがちらちらと明滅した。


「近衛兵を蹂躙してやったというのに、警備の一人も増えていない!」

「差し向けた刺客からも毎度間一髪のところで逃れられている…悪運の強い夫婦だ」


 日中の巡行を思い出し歯嚙みをする。

 婚礼期間も大詰めを迎えたレインヴェール伯夫妻は、城下への顔見せを行なっていた。


「路地へ入ったところで刺客を向かわせれば、すぐに民衆との歓談が始まり、人集りができる。本来巡行とは、通り去る王族を、民は遠巻きに眺めるものでしょう。何故あの様なことが起こるのだ」

「…人望だろう」

「そんなもの、奴らにあるはずがない!」


 きんと響いた声に部屋の空気が揺れた。


「奴らはそんなものに値する人間ではない!そうだろう!」

「…そうだな」


 しばしの沈黙ののち、再び口が開かれた。


「…いずれにせよ、このお祭り騒ぎも明日で終わりだ。馬鹿にしているのか、泳がせているのか、そもそも気づいていないのか、焦らずとも明日にはわかるだろう」



* * *



「このまま泳がせなさい」

「はっ」


 アスラの冷えた声にルコットは肩を揺らした。

 実弟のホルガーでさえ、姉の軍人としての声色に驚いたほどだ。


「二人に怖がられるよ、アスラ」


 隣に座っていた魔導師団長ハントの窘めに、アスラは眉をひそめる。


「それならあんたが指揮をとってくれ。優雅に紅茶なんか飲んでないで」


 不敬とも言える物言いに、しかしハントは気を悪くした風もなく笑った。


「私は私で動いているよ。それより君は、こんな所にいて大丈夫なのかい?マシュー君の許しは?」


 首をかしげると金色の髪がしゃらりと揺れ、エメラルドのような瞳に光が差す。

 アスラの眉間のしわはますます深くなった。


「あいつも別で動いているらしい。まだ王都には来ていない」

「ということは君のご両親も彼と一緒か。心強いね」

「…あんたと話していると調子が狂う」


 ため息をつく姉の姿に、ホルガーは内心慄く。

 あの姉に嘆息させるとは。

 どんな魔獣でさえ、彼女の前では赤子同然だというのに。

 そんな不躾な視線を感じたのか、ハントはホルガーへにこやかに話しかけた。


「こんにちは、ホルガー君。こうして話をするのは初めてだね。今回は陸軍と魔導師団の共同戦線だ。張り切っていこう」


 まるで危機感を感じさせない物言いに、ホルガーは一瞬惚けたが、すぐに姿勢を正し「はい」と返した。


「さて、では君の新妻を紹介しておくれ」


 そう言うと、今度はルコットに視線を合わせ、にこりと笑う。

 その微笑みは、男であっても思わずどきりとするものだったが、ルコットはこの場の雰囲気に緊張しているのか、ただただ固くなるばかりだった。


「妻のルコットです」

「初めまして。ルコット=ベルツと申します。お会いできて嬉しいですわ」


 何とか型通りの挨拶を行うルコットに、ハントは花ひらくような笑みを向けた。


「美しい方だ。少なくともここ三千年の間、あなたほど美しいご婦人に出会うことはなかった」


 ルコットは冗談に笑い返そうとしたが、その声があまりに真摯で、反応に迷ってしまった。

 そんな彼女の内心を読んでいるかの様に、ハントは言葉を続ける。


「冗談ではないよ。そうだね…強いて言うなら三十二代前の女王はとても美しかったけれど、短気なのが玉に瑕だった。心映えは面差しに表れるからね」

「三十二代前…」


 真実味を帯びた話にルコットはますます表情を曇らせる。

 確かに偉大な魔術師は長命だというが、三千年以上も生きた者など聞いたことがない。


「それでは、この国の始まりも…」

「もちろん見てきたよ。故郷はもう少し東の方だったけれどね。この国が生まれたのはちょうど、私があちこちを渡り歩いている時期だった」

「ハント、喋り過ぎだ」


 それまで黙って上座に座していたスノウが咎めるも、彼はどこ吹く風とばかりに笑い返す。


「彼女があまりにルイーザに似ているものだから、ついね」

「母をご存知なのですか?」


 ルイーザ。

 その名が出た瞬間、ルコットは礼儀さえ忘れて声を上げた。

 だがハントは気を悪くするどころかむしろ、心底嬉しそうにうなずいた。


「あぁ、彼女は私の女神だった」

「陛下の、だ。誤解を招く発言は慎め」


 スノウの鋭い指摘に一瞬、場が固まる。

 しかしハントに反省の色は全く見られなかった。


「そうだね、誤解のないように言っておくと、彼女が愛したのは陛下ただ一人だ。私はそんな彼女に横恋慕していたのさ。尤も、私には二人の邪魔をする気なんてさらさらなかったのだけどね」


 ルコットは、信じられないといった面持ちで、ほとんど反射的に尋ねた。


「どういうことですか?」

「私はルイーザのことも、陛下のことも好いていたのさ」


 ルコットにとって、母は遠い記憶の中にある朧げな光であったが、それ以上に、父親である国王は遠い存在であった。

 会話をしたこともない。

 それどころか、正面から顔を合わせたことさえほとんどなかった。

 父を思い浮かべるときは、王宮の肖像画が脳裏に浮かぶほどだ。

 だからだろうか。

 両親と面識のある彼に出会えたことが、どこか嬉しかった。


「そうですか…両親は睦まじかったのですね」


 穏やかな中にも隠しきれない喜びの滲んだ声。

 ハントもまた自身の胸が熱く満たされるのを感じた。


「あぁ、とても。陛下は王としても夫としても誠実だった。全ての妃に等しく愛を分け、情を伝えていた。だが、私には分かる。陛下にとっての唯一は、確かにルイーザだった」


 ルコットは静かに微笑んだ。

 愛情に順位付けなどなくてもいい。

 ただ、両親が想い合っていたという事実が嬉しかったのだ。

 生まれも知らない母と、声も知らない父を、初めてとても身近なものに感じた。


「しかし、彼は変わってしまった。彼女が市場で馬車にひかれてからというもの、彼は生来の用心深さを臆病に変えた。『余の民でさえ我等を殺すのだ』と。あれは不幸な事故だった。それなのに、王には最早その分別がつけられない。自国の民が滅びの道へ向かおうが、まるで関心がないらしい」

「…ハント」


 たった一言だった。

 だが、その一言は真冬の氷柱のように鋭く、底冷えのするものだった。

 流石のハントも口をつぐみ、「悪かったよ」と謝った。


「…まぁ、つまりはこれが、私がスノウ殿下の元にいる理由だよ。私はこの国の滅びを見たくはない。軍に入ったのは今代の陛下の勧誘に負けたからだけれど、それまでも、この国は私の止まり木だった。長らく見守ってきたこの国が失われてしまうのは、あまりに惜しい」

「ハントさまのような魔術師の方は、現世へ介入なさらないのだと思っていました」


 なるべく言葉を選び、ルコットは問うた。

 超常的な魔術師は、自身の力を隠し、人の営みに手を加えることはない。

 それが、この世界の共通認識だった。


「あぁ、それは正しい。私もかつてはそうだった。調子が狂い始めたのは君の両親と出会ってからさ。想いは人を動かすと言うだろう。私にもまだ人の心というものが残っていたみたいだね」


 とっくに失くしたと思っていたけれど。

 そう笑う魔術師を、ルコットは複雑な瞳で見つめた。


 心を失くしてしまう程の長い時を生きるだなんて、想像さえできなかった。

 誰かと交わることがあろうとも、残るのはいつも自分ただ一人。

 日々蓄えられていく知識。

 目に焼き付いていく風景の重さ。

 何という孤独だろう。

 きっと心なんて持ったままでは、とても耐えられない。


 しかし、彼はどうしようもなく、優しい心を持った人だ。

 孤独も悲しみも虚しさも、やるせなさも、全て抱えて笑う人だ。


「…私たちもいつか、あなたを置いてこの地を去ります。ですが、母が私を残したように、命は繋がっていきますわ。そう思えば、少しは寂しくないと思いませんか…?」


 室内が静まり返った。

 誰も言葉を発そうとはしない。

 しかしそれは、冷たい沈黙ではなく、どこか温かなものだった。


「……君は、母君と同じことを言うんだね」


 魔力を半分受け取ってほしい。

 自分と共に生きてほしい。

 そんな身勝手な願いに、優しく首を振った彼女。

 今ようやく、その真意が掴めた気がした。


 あなたは独りじゃない。

 独りになんてならない。

 拙い言葉で、そう必死に訴え続けた彼女に、自分の浴びせた言葉は酷く身勝手なものばかりだった。


 まさかあのまま、彼女が帰らぬ人となるなんて。

 どれほど後悔したことか。

 あのときかけてあげたかった言葉は、ただ一つだったのに。


「……ありがとう。ルコット、『どうか幸せに』」


 ようやくあのときの自分を許すことができる。

 想い人に寄り添うルコットを見て、ハントはしばしゆっくりと瞳を閉じた。



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