第百三十六話 星の祝福
すっかり太陽の傾きかけた会場には、星のような灯りがともり始め、人々は愉快な夜を迎えようとしている。
その明るいざわめきとダンスのステップから少し離れたテーブルに、一組の男女が腰掛けていた。
二人は会場に背を向け、遠くに広がる海を見つめている。
彼らは朝からずっとこの場所に腰掛けていた。言葉はない。
時折後ろを振り返っては、招待客と楽しげに過ごす新郎新婦をそっと見守っていた。
ふいに、マントを目深にかぶった男が口を開いた。
「……そなたには、ずっと礼を言いたいと思っていた」
隣の小さな女が無言のまま隣へ視線を向ける。戸惑っているようだった。
「あの子が、あの楽しみのない王宮で健やかに成長することができたのは、そなたのおかげだ。刺繍、散歩、語らい、そして、料理――そなたはあの子にできうる限り日々の楽しさを与えてくれた」
女はようやく消え入りそうな声で言った。
「滅相もございません。私はただ、姫さまのことを心から愛していただけでございます」
男は小さく笑って、星の出始めた空を見上げた。
「ルイーザも喜んでいるな。星があんなに輝いている。……無理もない。こんなに素晴らしい結婚式なのだから」
男はまた後ろを振り返り、純白のレースに身を包む花嫁に優しい視線を送った。
愛しい娘は、世界一幸せな笑顔を浮かべていた。
「……さぁ、我々も飲もうか、ばあや。ルイーザの分も、ほら、ここに用意してある」
ばあやは杯を受け取り、その澄んだグラス越しに、夜空を見上げた。星々がちらちらと瞬いている。
確かにルイーザも喜んでいるようだった。
「ほどほどに、陛下。ばあやはもう、若くはありませんよ」
そんな彼女の優しい声が聞こえたような気がした。
そのとき、会場の中心から、大きな歓声と拍手がわき上がった。
* * *
「どうか、俺と踊ってください」
差し出されたのは見慣れた大きな手だった。
ごつごつと皮が厚く、太陽のように温かい。
ルコットは、そこに迷いなく自分の手を重ねた。
「こちらこそ、私と踊ってください」
ホルガーは小さく笑うと、そっとその手を引いた。
会場は夢のような光であふれていた。
今やしがない魔術師として、フュナとともに王都で薬草店を営んでいるハントあたりが、餞別に魔法の灯りを降らせているのかもしれない。
実際、踊りの最中目の合ったハントは、二人にいたずらな目配せをした。隣のフュナ姫も明るく微笑んでいる。
その隣では、シスとランが寄り添い合って手を振っていた。
またくるりと体が回る。
色とりどりの花々がふわりと舞い、魔法の灯りが空中で踊りに合わせて揺れる。
夜空には、大きな月と宝石を散らしたような星々が瞬いていた。
「ルコットー! ホルガーさーん!」
呼ばれて振り向くと、そこにいたのは、リリアンヌ、ターシャ、エドワード、テディ。
それから、アサトとヘレンが、ヘレンの祖父を二人で支えている。
後ろにはハームズワース公爵夫妻と、ハップルニヒ侯爵夫妻まで。
皆楽しげに手を振っていた。
踊りながら回っているうちに、様々な人の笑顔が瞳に飛び込んできた。
スノウ、ハル、アーノルド、サクラスに、サファイア、メノウ、フィーユ。
それから、十六人の姉姫たち。
ダンラス王やウォルドをはじめとするエメラルドの人々もいた。
それからセントライン国、シルヴァ国の国王夫妻まで。
ターシャの姉姫と思われる九人の姫君たちや、ハルのきょうだいも来ているようだった。
それだけではない。
ルコットの教え子や、各地を回る中で知り合った人々。アルシラで知り合った夫婦の姿もあった。
もちろん、サイラス=クリスティ夫妻、ベータ、ブランドンを筆頭に、軍の面々も会場を賑わせている。
さらには、ティルナノーグ号製作に携わった、外務大臣や財務長官、宰相……ありとあらゆる分野の人々が、一斉にクラッカーを鳴らした。
皆心からの祝福で、二人に拍手を贈る。
その隣では、ハイドル、ロゼ、アスラ、マシュー、それからルイとオルトが両手を目一杯に振っていた。
二人はそんな人々に、幸せな笑顔で応えた。
ルコットはさらに視線を巡らす。
ばあやはどこへ行ったのだろう。
そのとき、夜空の大きな星が、ひときわ眩く瞬き、大きな月の浮かぶ海面へと流れていった。
ルコットは思わずその星を見送り、そして、海の見える樹の下に佇む二人の姿に気がついた。
「……お父さま、ばあや」
その囁きが合図になったのか。
瞬間、澄んだ夜空に次々と星が流れ始めた。
それは、流星群だった。
赤い星も緑の星も青い星も、大小様々な星々が、二人の頭上を照らしていく。
空全体が輝いて見えるほど、それは荘厳な景色だった。
さらに、気がつくと、オーロラのような白い輝きが、海の向こうからこちらに向かってきていた。
ルコットとホルガーは息を飲む。
それは、女神の散歩道だった。
雪の粉を散らしたような道が、こちらへ絹の布を広げるようにするすると伸びてくる。
そして、その道を星座のように眩い一行が渡ってきていた。
それは、女神ノヴィレアとサフラ湖の住人たちだった。きらきらとした結晶が会場に降り注ぐ。
彼らはまるで湖を泳ぐように夜空を自由に飛び回り、人々の歓声に応えた。
ルコットが手を振ると、ノヴィレアは可憐に、そして親しげに、そっと手を振り返した。
「……母君が祝福してくださっているのでしょうか?」
ホルガーの問いに、ルコットは迷わず頷いた。
彼女にはわかっていた。
この流星はきっと、母と、サーリとリュク、それから、アランテスラからの贈り物だ。
ノヴィレアにはきっと、彼らが知らせてくれたのだろう。
「私は、そんな気がするのです」
そう言うと、ホルガーもまたはっきりと頷いた。
「はい、きっと、そうです」
二人は手を繋ぎ、降り注ぐ星々を見守った。
この先どれだけの年月を重ねても、今日この日を忘れることはないだろう。
きっと何度も、炉端でこの日を語らい、鮮明な情景をともに思い出すに違いない。
「綺麗ですね」
「はい、とても」
二人は星明かりの下で微笑みを交わし、この先の、まだ見ぬ未来に想いを馳せた。