第百三十四話 シュタドハイスの秋
りんご並木の中を、ルコットとホルガーは歩いていた。
まだほんのり青みがかったりんごが、二人の頭上で微かに甘く香っている。
ルコットは頭上を見上げ、弾んだ声で言った。
「シュタドハイスは本当に実りの多い土地ですね」
ホルガーは「そうですね」と頷き、同じように並木を見上げる。
「秋というのもあるのでしょうが……」
そうして、特別日当たりの良い枝に赤く熟れたりんごを見つけ、ひょいともぎ取った。
丁寧に拭うと赤くつやつやと光っている。
「食べてみますか?」
「いいのですか?」
「はい。ここは自生している並木ですから」
ルコットはそっとりんごを受け取ると、勢いよくかぶりついた。
みずみずしい音が響き、口の中いっぱいに甘酸っぱさが広がる。
「おいしいです。食感も食べ応えがありますね」
ルコットが差し出すと、ホルガーも残りの実をかじり、頷く。
「毎日海風に吹かれているからかもしれませんね。ほら、もうすぐ見えます」
二人は小高い丘の上に出た。
眼下にはなだらかな坂が続き、途中から真っ白な砂浜が広がっている。
そして、その先では、秋の穏やかな日差しを受けたラムル海が、澄んだエメラルドグリーンの光を放っていた。
それは、内海とは思えないほど、どこまでも雄大で果てしなかった。
ルコットは思わずその場に立ちすくんだ。
「……ルコットさん?」
控えめなホルガーの呼びかけに、ルコットは「はい」と返事をした。しかし、どうしても目線を外すことはできなかった。
「……すみません、私、びっくりしてしまって」
その果てしなさが少しだけこわくて、しかし同時に、その雄大さに安心して、その美しさが嬉しかった。
吹き上げる風は暖かく、体を包み込むような感触がする。潮の香りははじめて感じるはずなのに、どこか懐かしい匂いだった。
「今の時期は少し水が冷たいですが、足先だけでもひたしてみますか?」
ホルガーの申し出に、ルコットは顔を輝かせると、目の前の坂道を駆け出した。
近頃――特にシュタドハイスへ来てからのルコットは、自由にはしゃぐことが増えたように思う。
様々な船が出入りするこの土地の、どこかのびのびとした風土がそうさせるのか。はたまた奔放なロゼの影響か。
いずれにせよ、ホルガーは、ルコットのそんな様子を見るたびに嬉しくなった。
もっと色々な表情が見てみたいと思う。
これから先も、こうして自由な世界で日々を楽しんでほしいと、そう思った。
「ホルガーさま!」
浜辺でルコットが嬉しそうに両手を振っている。
ホルガーは手を振り返すと、急いで坂道を駆け下りた。
* * *
浜辺は未知の世界だった。
足の裏に感じる温かい砂。
宝石のような貝殻に、丸くカラフルなガラスのかけら。
初めて聞く波の音は、まるで子守唄のよう。
本で読んで想像していたよりも、ずっと優しく、ゆっくりと穏やかだった。
ホルガーが冷たいと言っていた海の水も、十分温かく感じ、まるで足先から太陽のエネルギーを送り込んでくれているかのようだった。
二人は、波打ち際でしぶきを立てて遊び、岩場に溜まった水たまりを覗き込み、小さな魚とイソギンチャクの世界に魅入った。
そこから少し歩くと、塩を作っている男が作業をしているところに行き当たった。
ルコットは興味津々の様子で近づいていき、仕事の邪魔にならないよう気をつけながら話を聞かせてもらっていた。
男に見送られ、さらにそこから十五分ほど歩くと、活気のある港にたどり着いた。
様々な船が出入りし、積み下ろしの声や、陽気な挨拶が潮風に乗って響いている。
さらに巨大な桟橋には市が立ち並び、新鮮な魚や簡単な魚料理、さらには舶来の雑貨、陶磁器などが所狭しと並んでいた。
ルコットは瞳を輝かせた。
「ホルガーさま、寄って行きましょう!」
すっかり珍しい物好きなルコットだ。
舶来の品をしげしげと見つめ、小魚のかき揚げに舌鼓をうち、深海魚を見ては驚きの声を上げていた。
ホルガーは、彼女が桟橋に落ちたウロコと塩水で滑らないよう、ハラハラしながら後を追っていたが、それも数分の間のことだった。
二人はすぐに市場でのひとときに夢中になった。
気がつくと、照りつけていた太陽が西に傾き、薄茜色の光が波の上に落ち始めていた。
「そろそろ行きますか」
ホルガーの問いかけにルコットも笑顔で頷き、二人はまた来た道を戻っていった。
* * *
秋の夕刻は日の沈みが早い。
みるみる移り変わっていく空のグラデーションを眺めながら、静かな浜辺を歩いた。
二人はしばらく無言で、その景色を楽しんでいたが、ふいにホルガーが口を開いた。
「今日のドレス、とてもよく似合っていました」
今日は、式用のドレスを選んだ帰りにこうして内海に寄ったのだった。
二人の二度目の結婚式はもう目前に迫っていた。
式場は、ラウル海を見渡せる丘の上の小さな教会に決めていた。
気持ちの良い風の吹く、風見鶏のついた少し変わった教会だ。
老神父の温和で大らかな人柄が表れているかのようだった。
飾り付けはその教会の子どもたちがしてくれるのだという。
ぜひ当日は、彼らにも出席してもらいたいと言うと、神父は少し驚いた後、「それは子どもたちも喜ぶでしょう」と笑顔で了承してくれた。
料理は、ルコットの希望で、シュタドハイスの郷土料理を中心に用意されることになった。
そのため、皆で毎日のように森へ入り、ベリーを摘み、きのこを採り、自然の恵みを大いに享受している。
ルコットは森の散策がとても好きだった。
毎日誰かを誘っては、両手いっぱいに食料を抱えて帰り、そのままキッチンで調理法まで習っている。
ルコットがそんな調子なため、ロゼも大はりきりで、ベルツ家のキッチンは常にフル稼働。
おかげで式の料理に困ることはなさそうだった。
そして今日、とうとう仕立物店へ赴き、ドレスの相談をしてきたのだ。
ルコットはてっきりロゼも一緒だと思っていたのだが、予想に反し彼女は微笑とともに遠慮した。
「二人でゆっくり選んできなさい。私たちは当日の楽しみにとっておくわ」
そういうわけで、ルコットとホルガーはわからないもの同士、とりあえず数件の店を見て回った。
そして、その中で最も店構えに惹かれた店に入って行ったのだった。
そこは、父母娘家族三人で営む小さな仕立物屋だった。
店主のかけるミシンの音が心地よく店内を満たし、数点の夜会用ドレスと訪問着がセンス良く並べられている。
それらのドレスは、派手な華やかさこそなかったが、体のラインにしっかり沿う確かな裁断と、素材の良さを活かすデザインが見る者の目を惹きつけた。
「いらっしゃいませ。何かお探しで?」
娘に話しかけられ、二人は少し照れながら「ウエディングドレスを」と答える。
すると奥方が、「まぁ、結婚かい?」と嬉しそうに近寄ってきた。
二人は迷ったが、結局どういう式かをかいつまんで説明した。その方がよりふさわしいドレスを相談できると思ったからだ。
いつのまにか、店主もミシンの手を止めて二人の話に耳を傾けていた。
「まぁ、なるほど、そういうわけかい」
「それなら、とびきりのドレスでなくちゃね」
じっと考え込んでいた店主が、奥方に話しかける。
「お前、あれだ、あの、奥の衣装部屋に、来季用にデザインしてたものがあるだろう」
「あぁ! あれならどれも自信作だ!」
奥方はぽんと手を打つと、二人を奥の部屋へ案内した。
「すみませんね、ちょいと狭いですけど」
衣装部屋はデザイン部屋も兼ねているようで、確かにあちこちに方眼紙が舞い、雑然としていた。
しかし、その奥に一際目を引く五着のドレスだけは、まるで宝物のように丁寧に飾られていた。
「あれはまだ、デザインが途中なのですよ」
ふと気がつくと、真後ろに店主が立っていた。
寡黙な店主は表情の読めない瞳でじっとルコットを見つめている。
「着てみてくだされ。その中で最もお気に召したものを、あなたにぴったりのデザインに仕上げてみせます」
どのドレスも文句のつけようのない美しさだった。
少し古風で、しかし古めかしくはなく。
無駄な装飾はないのに一輪の花のように華やかだった。
こだわり抜かれた布地は、朝の光を受けて淡く光っている。
一つとして手を抜かれたところのない五着。
しかしルコットはその中で、ただ一着のドレスに瞳を奪われていた。
「あの……あちらのドレスを着てみてもいいですか?」
ルコットが選んだのは、アンティークレースとシルクのロングドレスだった。
裾の広がりはあまりなく、腕や首元は落ち着いたレースで覆われている。
全体に白い絹糸で刺繍がなされ、光の当たり具合で様々な模様が浮かび上がって見える。
そして、絶妙なバランスで縫い付けられた大小様々な真珠が、虹のような輝きを放っていた。
「はいよ、どうぞこちらへ」
店主とホルガーは顔を見合わせ、同時に満足げに頷いた。
* * *
「皆さんも来てくださるそうですし、楽しみですね」
ルコットはなびく髪にも構わず、大きく両手を広げ、ホルガーに向き直った。
海風に吹かれ、夕暮れの海を背にしたルコット。
その幸せそうな微笑に、ホルガーは釘付けになった。
まるで天高く舞う鳥を眺めているような。
どこまでも自由で限りのない笑顔だった。
延々と広がる薄紫色の海を見つめ、ルコットは言う。
「……楽しみですね、本当に」
この先も、スノウの命を受けた旅は続いていく。
否、続けさせてほしいと、二人が願い出たのだ。
知らない人、知らない言葉、知らない国、知らない文化――二人を待っている世界は果てしない。
「未知って素晴らしいものですね。わからないことって少しだけこわいですけど、それ以上に楽しみです。未来が見えないことが、私、とても嬉しいですわ」
ホルガーにはルコットの言うことがよくわかった。
わからないということは、無限の可能性を秘めているということだ。
そんな神秘に満ちた世界を旅することができるのだから、こんなに嬉しいことはない。
隣に、心強いパートナーがいればなおさらだ。
「ルコットさんと一緒に見る景色は、何故か何倍も、何十倍も鮮明で、美しいのです。全く別の景色に見えるほど」
一人では見ることのできない景色がこんなにもあるのですね。
そう呟くと、ルコットもまた照れたようにはにかんで頷いた。
「私もです」
どちらからともなく手を繋ぎ、果てしない海を見つめる。
並び立つ二人の頭上に、祝福の一番星が輝いた。