第百三十二話 逃げる姫君と追う執事
それから、毎朝ホルガーとルコットは早朝から、家の周囲の丘を何往復もし、ときには森のあぜ道を練り歩いた。
あくまでヒシャーリャ山脈を登るための鍛錬なので、甘い雰囲気になることは一切なかったが、双方ともにこの朝のひとときを楽しみにしていることは事実だった。
夏の爽やかな日差しのもと、澄んだ静かな空気の中をともに歩く。隣から相手の足音が聞こえ、美しい丘をともに見、時折微かな会話が交わされる。
それはありふれた、けれど忘れがたい夏の思い出となった。
そうして二人で過ごすはじめての夏が過ぎ、いよいよシュタドハイスへの出発が近づいてきたある夜。
ホルガーの書斎に夜食を運んできた執事が、神妙な面持ちでこう言った。
「旦那さま、シュタドハイスの件ですが――私とヘレン嬢、それからアサト殿はリリアンヌ嬢とターシャ姫、それからテディ殿をお迎えに上がってから、遅れて参りますので」
ホルガーは驚いて顔を上げた。
「一緒には来ないのか?」
「馬に蹴られたくはありませんから。それに、個人的な事情を申し上げると、なかなか手紙の返事をお寄越しにならないターシャ姫をせっついて来ようかと」
ホルガーは呆れたとため息をついた。
「本当に自由だな、お前は」
「恐れ入ります」
「褒めていない」
ホルガーは眉根を寄せて不機嫌をアピールしたが、不本意ながらその表情はどこか嬉しそうでもあった。
エメラルドで別れてから、エドワードはターシャに何度か手紙を送っていた。
現在彼女は機械技師を目指し、全国の転移塔や鉄道駅舎を飛び回っている。
実際に機器や回路を見ながら、仕組みを学んでいるのだ。
いずれは鉄道を始め大陸のライフラインを支えたい。そんな手紙がルコットの元にも届いていた。
「ターシャ姫はお忙しいんだろう? 手紙を返す暇もないのかもしれない」
一応慰めの言葉をかけるも、エドワードは珍しく俯きがちに言った。
「確かにお忙しいのでしょうが……奥さまには手紙を書かれるのです。困らせるような内容にはしていないはずなのですが」
まさかこの執事の口からこんな弱った言葉が出てくるとは。
ホルガーは持っていたペンを置き、しっかりと執事に目を合わせた。
「大丈夫だ」
根拠はない。
しかしホルガーには確信があった。
ターシャ姫はきっと、気のない相手を中途半端に蔑ろにするような方ではない。
ルコットとともに夢を追い、この執事の胸を打ったひたむきさをホルガーは信じていた。
「絶対大丈夫だから、心配せずに会ってこい」
かつてエドワードがルコットに抱いた感情は確かに恋だった。
その感情はただただ穏やかで温かく、それはまるで憧憬にも似た崇拝だった。
しかし、今エドワードがターシャを脳裏に描くとき、そこにあるのは美しい感情ばかりではない。
もっと話してみたい、声が聞きたい。そんな欲と、他に想う人がいるのだろうかという不安。
胸が焦がれるようなこんな感情を、エドワードは知らない。
氷のろうそくに、決して消えない炎が灯ったようだった。
出発の日、ヘレン、アサトとともに旅立つエドワードの背中を見つめながら、ルコットは言った。
「ターシャさまに縁談が来ているそうですわ」
驚くホルガーに、ルコットはいたずらに微笑みかける。
「でも、断わったそうです。『好きな人がいるから』って」
――その人は、とても冷静で完璧な人なの。だからきっと、私に本気になることなんてないと思う。……でも、やっぱり当たって砕けてくるわ。フラれても、シュタドハイスではなるべく明るく振る舞うから、そのときはリリアンヌやヘレンと一緒にそっと慰めてね。
ユーモアを交えた手紙を思い出しながら、ルコットは静かに微笑んだ。
「お二人の想いが、通じ合うといいですね」
ホルガーは小さくなった三人の背を見つめながら、苦笑した。
「ダヴェニスでは一悶着ありそうですが、何とかなるでしょう。ヘレン嬢とリリアンヌ嬢、それにアサトもいることですし」
このホルガーの予言通り、以後ダヴェニスには一つの物語が生まれることになる。
「逃げる姫君と追う執事」
嘘よ!と叫びながら逃げ惑う姫君の後を、愛を叫びながら追いかける執事。
街中を巻き込んだこの追いかけっこは、人々の笑顔と歓声を巻き起こし、その日のうちに寝物語となった。
――とうとう、二人は街中の人たちに囲まれた。執事は言った。
「そろそろお分かりでしょう。私は本気だと。本気であなたを尊敬し、愛しく想い、生涯見守りたいと思っているのです。どうか、私と結婚してください」
――どこまでも直接的な執事の言葉に、姫君は恥ずかしそうに押し黙り、微かに頷いた。そしてすぐに、顔を隠すように彼の腕へ飛び込んだ。
「……信じます。でも、どうかもう少し、場所を考えてください」
――かくして幸せな二人を、街中の人々の拍手が包んだ。愛の前では、紫群青の天才さえ、あらゆる謀略を失うのだと笑いながら。しかし、それで良かったのだ。混じり気のない純粋な愛の言葉だったからこそ、美しい姫君の心を、こうして射止めることができたのだから。