第百三十話 地上へ
ホルガーは機体の上で再び横になっていた。
青い空に流れる雲をぼんやりと見送る。
嘘のように晴れ渡った空が目に眩しかった。
――どうか、私を、信じてください……!
先ほどのルコットの言葉が蘇る。
ホルガーは小さく唇を噛んだ。
(俺は、ルコットさんのことを、誰より信じている)
それは、強がりでもなければ、気を使ってのことでもない、絶対的な信頼だ。
彼女なら何でもできると本気で思っているし、それだけの強さを備えた人だということもわかっている。
しかし、あの一瞬、ホルガーの頭の中にあったのは、「ルコットを助けること」ただそれだけだったのだ。
「……怒っていらっしゃるだろうな」
ぼやいて、薄く目を閉じる。
眩しいほどの晴天が、瞳を閉じていても伝わってきた。疲労から、心地よいまどろみが全身を包む。
しかしふいに、顔に当たる光が遮られた。
「怒ってはいませんわ」
穏やかで優しい笑みを含んだ声だった。
ホルガーの瞳は驚きのあまり、反射のように開かれる。
果たして、そこにはルコットがいた。
微笑みを浮かべ、静かにホルガーの顔を覗き込んでいる。
流れる風が髪をそよがせる姿は、先ほどまでの奮闘が嘘のようにどこまでも平和だった。
停止していたホルガーの頭がようやく回り始める。
急いで体を起こそうとすると、ルコットが両手で押し留めた。
「地上に着くまでこのまま寝ていてください。ひどい怪我ですわ」
ホルガーが大人しく横になると、ルコットは静かに微笑み、視線を流れる雲へ向けた。
二人の間に沈黙が落ちた。
「ルコットさん……あの」
ホルガーが遠慮がちに口を開く。
しかし、その先が続かなかった。
傷つけたことを謝りたい。しかし、決して信じていなかったわけではない。そう伝えたいのに。
もどかしかったが、ルコットには正しくホルガーの気持ちが伝わっていた。
「……謝ることはありませんわ」
静かな声だった。
しかし、そこに卑屈さや意地はかけらもない。
傷ついている様子も見られなかった。
ホルガーが言葉を失っていると、ルコットはもう一度微笑んだ。
「私がホルガーの立場でもきっと同じことをしたでしょうから」
「……ルコットさんに投げられるのは、少し複雑ですが」
ルコットは今度は声を立てて笑った。
それから、「きっと私の力では難しいでしょうけど」とまた視線を空に戻した。
「感謝をしていますわ」
ホルガーは驚いてルコットを見上げる。
彼女の顔は逆光になっていてよく見えなかったが、その穏やかな声や雰囲気から、どんな表情をしているかが手に取るようにわかった。
「本当に、怒っていらっしゃらないのですか?」
おずおずと問いかけるホルガーに、ルコットは少しだけいたずらな笑みを送る。
「……正直に言えば、少しだけ、悔しかったです。でも、あの場ではあれが最善だったということもわかっていますわ。その結果、こうして二人とも助かったのですから」
ルコットは聡明だった。
自身の力が足りなかった悔しさはあれど、彼の判断を責めるつもりはなかった。実際、あの場であれ以上の策は取れなかっただろう。
自分も最善を尽くし、彼もまた、最善を尽くしたのだ。
「だから、いいのです。これからも、何度安全圏に投げ出されたって、何度でもあなたを助けに戻ってきますから」
明るい表情で、ルコットは言う。
「もっと、もっと、強くなります。もっと魔術を練習して、修業を積んで、そして、何度だって、あなたの隣に立ってみせます」
眩しい決意だった。
前へ、少しでも前へ。そんなルコットの姿が、ホルガーの瞳にどれほど眩しく映ってきたことか。
「……昔から、ルコットさんはよく、少しでも俺に追いつきたいと、そう仰っていましたが、俺はいつもそんなあなたの強さを心から尊敬していたのです」
思ってもみなかった言葉に、ルコットはぱちぱちと目を瞬く。
そんなルコットに、ホルガーは優しい笑顔を見せた。
「俺も、もっと強くなります。あなたに恥じない自分であるために。あなたと、皆を、この両手で守れるように」
このときルコットはようやく気づいた。
弱さを持たないものなど存在しないのだ。
木が炎に燃え、炎が水に消え、水が日で干上がるように。
しかし、同時に、弱さと強さは表裏一体でもある。
燃えた木片は土に還り、新たな命を育む。
水に消えた炎は周囲の気温を心地よく冷やし、干上がった水は恵みの雨を降らせる。
それならば、弱さに気づけたとき、それは同時に強さを知るということだ。
誰もが弱さを持つということは、誰もがその人だけの強さを持っているということ。
ホルガーにも弱さと強さがあり、ルコットにはルコットだけの弱さと強さがある。
ルコットは嬉しくなった。
自分は、自分だけの強さを磨いていける。そして、それはきっと彼の力になる。
これからも、道はどこまでも続いていくのだ。
「はい、一緒に強くなりましょう」
「えぇ、精進します」
笑い合う二人を横目に、隣機を操るターシャとリリアンヌは苦笑した。
「これ以上大陸最強夫婦になられて、どうなさるおつもりなのでしょう」
「さぁ? まぁいいじゃない。二人とも、とっても幸せそうだもの」
そのとき、眩しく美しい一条の光が、地上に向かって差した。
下方に迫っていた竜の背から人々の歓声が聞こえてくる。
「まるで嵐の後の朝日のようだ」
光の差した地面から、澄んだ泉が涌き出で、荒れ果て割れた地表に広がっていく。
薄緑色に輝くその水は、ただの水ではなかった。
泉に撫でられた地面はかつての美しい黄金色を取り戻し、枯れた草、焼け折れた木々はみずみずしく復活していく。
小さな若葉が次々芽吹いていくその様は、まさしく奇跡のようだった。
人々は、竜の背や砂漠の鳥の上からその奇跡を見下ろしていた。
上から見るとまるで澄んだ水底の世界に水草が揺れているかのようだった。
崩れた家々が柱から組み上がっていく。
壊れた家具も、ひしゃげた鍋も、全てがあるべき姿に戻り、元の場所へ帰っていく。
その度に人々は歓声を上げ、持ち主の肩を叩いたり、楽しげに肩を組んだりして、国が戻っていく様に見入った。
特に王宮が組み上がっていく様子は多くの国民の目を楽しませ、ダンラス王でさえ、近くにいた子どもを抱き上げたほどだった。
「ほら、よく見よ。こんなもの、この先数千年生きたとて見られるものではないぞ」
やがて人々は、薄れた光の先、湖の中央で、不思議な舞を踊るサーリの存在に気がついた。
しかし、もはや彼女を恐れる者はいなかった。
湖面にあぐらを組むリュクの隣で、サーリはただ一心に舞っていた。
言葉は無くとも、その舞に込められた想い、願い、後悔は人々の心に届いていた。
そもそも人々は彼女を恨んではいなかった。
むしろ、こうなるまで、争い続ける愚かしさに気づけなかった己を恥じていた。
争いの影で涙を流していた戦乙女に、全てを背負わせてしまっていたのだ。
人々は、感謝と後悔と憧憬の瞳で二神を見つめた。
中には、二神が力を使い果たそうとしているのではないかと勘違いして止めようとする者もいた。
それに気づくと、サーリはうっすらと瞳を開け、竜上の人々に穏やかな目配せをした。
その宝石のような瞳には人々を安心させる大らかさと、隠しきれない多幸感、そして、微かな茶目っ気がのぞいていた。
その視線一つで、人々は、二神が幸せな結末を迎えたことを知った。
拝む者、微笑む者、笑い泣く者。
様々だったが、皆想いは一つだった。
「未来は必ず明るくなりますわ」
ルコットの呟きに、ホルガーも力強く頷いた。
「はい、必ず」
銀色の竜は大きく旋回し、涌き出でる泉の周りを飛び回った。
人々の歓声がエメラルド国中に響きわたるその様を、二機の砂漠の鳥は静かに見守っていた。
「国に帰ったら」
ホルガーの声に、ルコットは隣を向く。
彼は遥か遠く空の向こうを見つめていた。
「俺の故郷に行ってみませんか」
「シュタドハイスへですか?」
ホルガーは頷く。
「田舎ですが、たくさんの教会と内海、それからりんごの花が美しい静かな町です」
ルコットもまた、彼の目線を追うように、空の彼方を見つめた。まるで、その先に待っている風景を思い描くかのように。
「嬉しいです。ずっと、この目で見てみたいと思っていました」
ホルガーは目を瞑ると、かすれた声で「それで……」と切り出した。
「……そこで、もう一度、式を挙げませんか? 今度は二人で教会を決めて、ドレスを選んで、身近な人を招待して……」
正式な婚礼は数年前のあの日、済んでしまっている。
それはそれで大切な思い出であるし、それをやり直したいというわけではない。
しかし、あの婚礼は儀礼的な意味合いが大きかったため、二人には装飾から招待客にいたるまで、ほとんど決定権がなかったのだ。
そして、何より、あの頃は全てのことが性急で、あまりにも気を取られることが多すぎた。
無事に式を済ませ、婚姻関係を結ぶこと。
いつの間にかそれが、式を挙げる目的になってしまっていた。
本来なら、特に女性にとっては、心踊る晴れの日であったはずなのに。
「きっとルコットさんは、本心から『気にしていない』と仰るでしょう。……しかし、どうか、もう一度だけ機会をいただけませんか? 俺たちはあの日、共にダンスさえ踊れていないのです」
ルコットは驚いたように目を見開くと「覚えていらっしゃったのですか」と呟いた。
もう何年も前になる、華厳の間での一幕を。
ホルガーは照れくさそうに頷いた。
「本当は、あの日のために練習していたのです」
ホルガーの笑顔につられ、ルコットも微笑む。
遠慮からためらわれた返事が、ようやく固まったようだった。
「……嬉しいです。願ってもないことです。今度は、ばあやも招待できるのですね。国境も、身分の差もなく、どなたでもお招きして良いのですよね」
ホルガーは微笑み、頷いた。
するとルコットは、まるで花がほころぶように笑った。
「私、お呼びしたい方がたくさんいるのです。あれから、大切な方がたくさんできたのです」
ホルガーはもう一度、嬉しげに頷いた。
彼女の喜びをともに噛みしめるかのようだった。
「もちろん、みんな、招待しましょう」
美しい世界へ、砂漠の鳥は降りていく。
まるで、渡り鳥が我が家へ帰っていくように。