第十三話 不穏な気配
「…やりすぎだろう」
夜の明けきらぬ薄暗闇の中、城壁に背を預けていた男が、無感情に呟く。
目線の先には、倒れた近衛兵と、今まさに白刃を振るわんとする人影。
「いえ…まだ、足りません。あのお方の苦しみを思えば。誰に何と言われようと、この国を滅ぼすまで、私の刃は止まりません」
「……好きにしろ」
月影が王宮の中庭を照らす。
婚礼に合わせ整えられた庭園は、無残に踏み荒らされていた。
* * *
「それでは、殿下、お気をつけて。今夜は窓はお開けにならないでください」
フレイローズの婚姻には古くからの習わしがある。
婚礼期間の七日間は契りを交わしてはならない。つまるところ、同衾してはならないというものだった。
よって期間中、ホルガーはルコットと同じ棟の、別階に部屋を用意されている。
有事の際すぐに駆けつけられる距離は、ホルガーたっての希望であった。
「はい、あの、今日はお疲れ様でした。ゆっくり休まれてください」
「お気遣いありがとうございます。では、俺はこれで」
何か言いたげなルコットに気づいていながら、ホルガーはそっと扉を閉めた。
何を言わんとしているか、分かっていたためである。
その瞳は、こう訴えていた。
――私にも、何かできることはありませんか。
恐らく彼女は、今何が起こっているか、薄々勘付いている。
何者かがフレイローズの転覆を目論んでいることも、この婚姻がその絶好の機会であることも。
おっとりしているようで、どこか鋭く、責任感の強い彼女は、きっとその解決を自身の義務だと思っているのだろう。
ホルガーはため息を吐くと、扉を背にしてずるずると座り込んだ。
「…殿下を巻き込んで、なるものか」
あの男たちが何者であったのか。
どんな処罰が与えられるのか。
それはスノウに全権が委ねられており、ホルガーの預かり知らぬところである。
この時刻になっても知らされぬということは、今後通達が来ることもないだろう。
不満はなかった。
例え何者であろうとも負けるわけにはいかない。
向かい来る敵は薙ぎ払うのみである。
そのまま目を閉じ、仮眠の体勢に入る。
元より部屋に戻るつもりはない。
どこで寝ようと疲れの取れる体にはなっている。
彼女の傍を離れ寝床に入る方が、よほど気が気でなかった。
「殿下、どうか良い夢を」
あの優しい花嫁に、どうか祝福を。
* * *
ホルガーの願いもむなしく、翌朝一番にルコットの耳に入ったのは、慌てふためくばあやの足音だった。
「おはよう、ばあや、どうしたの?そんなに慌てて」
ルコットの声に背中を震わせたばあやは、不自然に笑顔を作り、「何でもございませんよ」とカーテンを開けた。
「レインヴェール伯…いえ、ホルガー殿がいらしてますよ。早くお着替えになりませんと」
「まぁ」
ルコットはさっと起き上がると急いで顔を洗い、夜間着を脱ぎ捨て、椅子に掛けられていた簡易な衣を纏った。
「お通しして、ばあや」
ばあやは苦笑するとすぐにホルガーに声をかけた。
程なくして、廊下で一夜を明かしたホルガーが、何食わぬ顔で入室する。
「殿下、早くに申し訳ありません。お耳に入れなければならないことがありまして」
「何かあったのですか?」
先程のばあやの不自然な笑顔を思い出し、ルコットは悪い予感を確信に変えた。
「昨晩中庭で兵がやられました。陛下及びスノウ殿下の棟を守っていた近衛兵です。幸い扉にかけられた防護魔術のおかげで、内部へ侵入はできなかったようです。先程ご両名のご無事を確認しました」
ルコットはゆるゆると首を振った。
起き抜けで化粧も施されていないその顔は、哀れなほどに青ざめている。
「そうですか。それで、兵の方々は…」
ご無事ですか。
ただそう尋ねたいだけなのに、それ以上口が動かなかった。
答えを聞くのが、恐ろしくて仕方がなかった。
そんなルコットの心中を察していながら、ホルガーはなお、実直に答えることを選んだ。
「皆一命は取り留めました。しかし再び剣を握れるようになるかは、個々人の努力と運によるとのことです」
ルコットは、安心したのか泣き出したいのか分からなかった。
否、泣きたい気持ちの方が、一歩強い気がした。
それさえ見透かしたホルガーは真っ直ぐに、俯く王女を見つめる。
「殿下、彼らは実力が足りなかったために負けたのです。当人たちもそう悔しがっていました。哀れみは不要です」
「分かっています!」
ホルガーの声を遮り、ルコットは声を上げた。
同時に自らの声に驚いたかのように目を見開き、両手で口を覆う。
「……ごめんなさい、大声を出してしまって」
泣き出しそうな震える声に、茫然としていたホルガーもはっとする。
「いえ、出過ぎたことを申しました。お許しください」
ルコットは答えるべき言葉を持たず、ホルガーもまた、どう続ければ良いのか分からなかった。
「…では、また式典の時間に」
結局、そう言って深く礼をしたホルガー。
ルコットは何か言わねばと手を伸ばしかけたが、それもすんでのところで下ろされた。
「…はい、またバルコニーで」
* * *
その日、二人が再び言葉を交わすことはなかった。
並び立ちながら、互いに何か言葉をかけねばと思うのに、焦れば焦るほど冷静さを失い、沈黙へと逃げてしまう。
目も合わせられない二人の姿は、傍目には初々しい若夫婦と映った。
式典は恙無く行われ、この国に曲者が紛れ込んでいるというのに、それを恐れる者もいない。
中庭への急襲に関しても、誰一人逃げださなかったこと、命を失わなかったことが、むしろ国民の士気を高めていた。
バルコニーに並び立つ二人に、皆思い思いに祝福の声を上げる。
そんな中、いくつかの冷静な視線が、ぎこちない夫婦の僅かな違和感に注がれていた。




