第百二十八話 キャッチ・ユー
雲を突き抜け、ホルガーの影を目指す。
地上へ落ちて行く彼は、まるで流星のようだった。
二人の距離はぐんぐん縮まっていく。
ホルガーは目を閉じ重力に身を任せていたが、ふと何かを感じたのか瞳を開いた。
そして、両目を見開いた。
見間違いかと思った。
しかし、どんなに遠くに離れていても、ルコットの姿を見間違えるはずもない。
ルコットは一直線にホルガーの元を目指していた。
「いけない……! いけません! ルコットさん!!」
届かないことは承知の上で、それでもホルガーは叫ばずにはいられなかった。
自分の落下に巻き込まれれば、彼女はきっと無事では済まない。
ホルガーは祈るような気持ちで、叫び続けた。
「戻ってください! あなたさえ無事なら、俺はどうなったって……!」
そのとき、ホルガーの脳内に、愛しいルコットの声が流れ込んできた。
なけなしの魔力を削り、語りかけたのだ。
――戻りません! 一人では、決して! 私は……!
震える声で、それでも力強く、ルコットは訴えかける。
――私は! この国最強の軍人、ホルガー=ベルツの妻です! あなたを助けるためなら、どんなことだってできるのです!
ぼんやりと互いの姿が見え始めた。
驚きに息をのむホルガーに向かって、ルコットは叫んだ。
「どうか、私を、信じてください……!」
気がつくとホルガーはまっすぐにルコットに向かって手を伸ばしていた。
それを合図に、ホルガーの落下速度が削がれていく。
なるべく彼の体に負担がかからないよう、ルコットは細心の注意を払った。
しかし減速が急であることに変わりはない。
空気抵抗との摩擦で、ホルガーの体の周りに赤い火花が散った。
魔力がホルガーを包み守っていたが、それでも彼の体は燃えるように熱かった。それを見て取ると、ルコットは魔力の膜をさらに厚くした。もっと厚くしたかったが、もう、魔力はとっくに底をついていた。
何故今魔法が使えているのか自分でもわからなかった。
ぼんやりとした頭でふと見ると、花水晶の指輪が虹色の輝きを放っていた。
ルコットは淡く微笑んだ。
魔力の尽きた主人を何とか助けようと、奮闘してくれていたらしい。
(ありがとう)
ルコットは胸の内でささやいた。
二人の距離がみるみる縮まっていく。
それは時間にして一瞬の出来事だったが、二人の目には互いの姿がスローモーションのように映った。
そして、指と指が触れた瞬間――指輪の光が蝋燭の火のように消えた。
とうとう、指輪の魔力が切れたのだ。
途端に二人の体に重力が戻る。
ホルガーは歯を食いしばり、腕を伸ばし、風に逆らって、ようやくルコットを捕まえた。
魔力を使い果たし力の入らない彼女を、きつく胸に抱く。
全てのものから彼女を守るように。
そして、痛む体を無視して、何とか自分の背が下になるように体勢を変えた。
(こうなったら、何が何でも着地してみせる)
風を切る音だけが耳に聞こえる中、ホルガーはそう決意し、ルコットをいっそう強く抱きしめた。
しかし、彼のその決意は杞憂に終わった。
下方から聞こえてきたのは、聞き覚えのあるエンジン音だった。
「旦那さま! もう少し左へ!」
エンジン音に混じって聞こえてきた執事の声。
(無茶を言うな……!)
内心そう叫びながらも何とか彼の指示通り体をずらす。
それから、なるべく体を丸め、しっかりとルコットを守った。
布が爆発音を立て、機体が大きく傾いた。
* * *
「ご無事ですか! 旦那さま!」
初めて聞く切迫した声に呼び起こされ、薄れていた意識が徐々に戻ってくる。
うっすらと目を開けると、ひどく焦った様子のエドワードが不安げにこちらを覗き込んでいた。
あの飄々とした執事もこんな顔をするのかと驚きながら、必死で目をこじ開ける。
それから、何とかこう言った。
「……無事だ」
瞬間、執事の顔が歪む。
涙をこらえているかのような表情だった。
「……あなたという人は。いつも人のことばかりで、ご自身のことは全く顧みられない。この数年間一体どれだけ心配したと思っているんですか」
本当はエドワードもわかっていた。
それがホルガーの長所であることを。
自分とてそんなホルガーだからこそ、心底仕えたいと思ったのだ。初恋を穏やかに諦めることができたのだ。
しかし、エドワードにとってホルガーは唯一無二の主人だった。
ルコットの幸せを願うのと同じように、ホルガーにも幸せになってほしかった。
エドワードの表情を見てとったホルガーは、困ったように微笑み、真剣な眼差しで言った。
「エドワード、ありがとう」
この場で、言い訳でもなく謝罪でもなく、こんなにもまっすぐな感謝を伝えるとは。
悔しいが、いかにも主人らしい言葉だと思った。
意識が覚醒してきたホルガーは、ぎしぎしと痛む体に顔をしかめながら、ゆっくりと上体を起こす。
それから、腕の中に眠るルコットをエドワードへ差し出した。
「……ルコットさんを診てくれ」
「かしこまりました」
エドワードは呆れたように眉を下げたが、大人しくルコットを抱え、操縦席の後ろへ陣取った。テディが操縦中の侍女長から手当ての道具を受け取り、エドワードへ渡していく。
一方、もう一機のシュードを操縦していたリリアンヌは振り返ると、「さすがね!」とウインクをよこした。
隣立つターシャも微笑とともに会釈する。
いかにもほっとした様子の二人を見て、ホルガーはようやく肩の力が抜けるのを感じた。




