第百二十七話 空へ
「ホルガーさま……!」
何が起こったのか。
彼がどんどん遠ざかっていく。
「ホルガーさま!!」
声の限りに叫んでも、もう、彼には届かない。
ホルガーは宙に崩れ落ちていく足場の向こうへ消えてしまった。
そしてルコットはようやく、ホルガーの心づもりを察した。
ルコットの瞳からあふれ出した大粒の涙が、次々と宙に浮かび上がっていく。
泣いている場合ではない。しかし、涙が止まらなかった。
「……私一人で生きろと仰るのですか、ホルガーさま……嫌です、そんなのは、嫌です……」
地上へ落ちていく。
髪とスカートが、ばたばたとはためく。
全身に風を受け、全てを重力に任せるしかないこの状況でもなお、ルコットは、ホルガーの消えた先を見つめ続けていた。
お元気で、なんて勝手なことを言って。
自分一人を犠牲にしようだなんて。
「……そんなの、許しませんから」
ルコットの瞳に、強い力が宿った。
「……私は、絶対に、諦めません」
そのとき、遥か下方から、激しいエンジン音が聞こえてきた。
途切れ途切れに、何かを叫ぶ声も聞こえる。
「……いたわ……よ!」
「……を真下へ……もう少し前……」
ルコットは風に逆らいそちらに顔を向け、両目を見開いた。
そこには、二機の砂漠の鳥が並んで飛んでいた。
「ルコット……! 聞こえる!?」
「奥さま! もう少し落下速度を減速してください!」
もう、機体は目の前だった。
ルコットは急いで魔力に集中し、着地の一瞬、僅かばかり勢いを削いだ。
エドワードとテディの張った布の上に、背中から落ちる。
エンジン音をかき消すほどの音とともに、布がたわんだ。
しかし、布は驚くほどの強度を見せ、適度に衝撃を吸収すると、しっかりとルコットを受け止めた。
「ご無事ですか、奥さま」
エドワードから手を差し出される。
その手を取り、呆然とルコットは身を起こした。
「はい……不思議なことに」
エドワードはくすくすと笑った。
「こんなこともあろうかと、ハップルニヒ侯爵さまの布地を持ってきておいて正解でしたね」
「……お前、本当に何者だよ」
テディは呆れ顔でエドワードを見ていたが、ふとルコットに視線を向け首を傾げた。
「あれ、そういや、ホルガーさんは?」
途端に、ルコットの表情がこわばる。
「ホルガーさまは……」
そう、彼を助けなければ。
しかし、どうやって? 彼は今どこにいる?
そのとき、エドワードがそっとルコットの手を取った。
その瞳を覗き込んで、はっきりとした口調で言う。
「落ち着いてください。……奥さまなら、おわかりになるはずです」
その声は確信に満ちていた。
リリアンヌ、ターシャ、侍女長、テディも、静かに頷いている。
ルコットは目の前の霧が晴れるような気がした。
魔力ではなくもっと意識の奥の方、深く澄んだ心の内に集中する。
「……北……いえ、東北東に、進んでください。その上空に、ホルガーさまがいます」
針の穴に糸を通すような正確さで、ホルガーの落下地点を割り出す。
彼にかかる重力、空気抵抗、風向き、落下速度――あらゆる計算を行い、それらの結果を組み合わせていく。
紙もペンもない。全てはルコットの頭の中で、緻密な計算式が組み立てられていった。
「もう数歩分ほど南方、半身分西……行き過ぎです、もう少し東へ」
細かなルコットの指示に、エドワードと侍女長も全力で応える。飛行可能空域を遥かに超えた上空で行われるそれは、もはや人間業ではなかった。
「もう少しだけ東……ここです! ここで待機してください!」
シュードの操縦において停止飛行ほど難しいものはない。
しかし、エドワードと侍女長は危なげなく「かしこまりました」と頷いた。
リリアンヌとターシャ、テディがすかさず布を張る。
ルコットは五人を振り返り言った。
「タイミングに合わせて、私が上空でホルガーさまを受け止めます。残った魔力で勢いを削げば大丈夫なはずです。ですが、恐らく私の魔力はそこで尽きます」
高度からではないとはいえ、この機体に二人分の衝撃が直撃するということだった。
計算上は耐えられるはずだった。
しかし万が一ということもある。ルコットは皆を巻き込むことを一番恐れていた。
しかし一同はそんなことは構わなかった。むしろ全く別の心配をしていた。
もし、ホルガーを受け止める前にルコットの魔力が尽きてしまったら。今度はルコットの身が危険に晒されるのだ。
ルコットもそれは承知の上だった。
ここで皆と一緒に待機し、彼の姿が見えたらシュードの上から勢いを削ぐ。
それがルコットにとって最も安全な策だった。
しかし、もし万が一、この機体の位置が少しでもずれていれば、ルコットの魔力を飛ばすタイミングが合わなければ――ホルガーは助からない。
それでは嫌だった。
助かるなら二人で。
他に選択肢はなかった。
ルコットの眼差しを受け、皆は一様に押し黙る。その揺るぎない瞳から、皆にも思いが伝わったのだろう。
もはや、止める者はいなかった。
「……ルコットなら、大丈夫、絶対」
リリアンヌの力強い言葉に、ターシャも頷く。
「着地は任せて。必ず受け止めるから」
彼女たちの言葉が、ルコットの背中を押した。
上空を見上げると、雲間に針の先ほどの小さな影が見える。
ルコットは指輪に触れ、目を閉じた。いつも自分を見守ってくれたその指輪を今、ことさら頼もしく感じた。
(……どうか、力を貸してください)
内心祈ると、指輪が一瞬淡く光った気がした。
(贈り主のことを覚えているのかしら)
気のせいかもしれない。しかし、ホルガーから贈られた指輪の存在は、ルコットに確かな勇気を与えていた。
ルコットは気負いのない表情で「待っていてください」と呟くと、空の彼方を見据え、「飛行」と唱えた。




