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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第五章 南国 エメラルド
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第百二十七話 空へ


「ホルガーさま……!」


 何が起こったのか。

 彼がどんどん遠ざかっていく。


「ホルガーさま!!」


 声の限りに叫んでも、もう、彼には届かない。

 ホルガーは宙に崩れ落ちていく足場の向こうへ消えてしまった。

 そしてルコットはようやく、ホルガーの心づもりを察した。


 ルコットの瞳からあふれ出した大粒の涙が、次々と宙に浮かび上がっていく。

 泣いている場合ではない。しかし、涙が止まらなかった。


「……私一人で生きろと仰るのですか、ホルガーさま……嫌です、そんなのは、嫌です……」


 地上へ落ちていく。

 髪とスカートが、ばたばたとはためく。

 全身に風を受け、全てを重力に任せるしかないこの状況でもなお、ルコットは、ホルガーの消えた先を見つめ続けていた。


 お元気で、なんて勝手なことを言って。

 自分一人を犠牲にしようだなんて。


「……そんなの、許しませんから」

 

 ルコットの瞳に、強い力が宿った。


「……私は、絶対に、諦めません」


 そのとき、遥か下方から、激しいエンジン音が聞こえてきた。

 途切れ途切れに、何かを叫ぶ声も聞こえる。


「……いたわ……よ!」

「……を真下へ……もう少し前……」


 ルコットは風に逆らいそちらに顔を向け、両目を見開いた。

 そこには、二機の砂漠の鳥(シュード)が並んで飛んでいた。


「ルコット……! 聞こえる!?」

「奥さま! もう少し落下速度を減速してください!」


 もう、機体は目の前だった。

 ルコットは急いで魔力に集中し、着地の一瞬、僅かばかり勢いを削いだ。

 エドワードとテディの張った布の上に、背中から落ちる。

 エンジン音をかき消すほどの音とともに、布がたわんだ。

 しかし、布は驚くほどの強度を見せ、適度に衝撃を吸収すると、しっかりとルコットを受け止めた。


「ご無事ですか、奥さま」


 エドワードから手を差し出される。

 その手を取り、呆然とルコットは身を起こした。


「はい……不思議なことに」


 エドワードはくすくすと笑った。


「こんなこともあろうかと、ハップルニヒ侯爵さまの布地を持ってきておいて正解でしたね」

「……お前、本当に何者だよ」


 テディは呆れ顔でエドワードを見ていたが、ふとルコットに視線を向け首を傾げた。


「あれ、そういや、ホルガーさんは?」


 途端に、ルコットの表情がこわばる。


「ホルガーさまは……」


 そう、彼を助けなければ。

 しかし、どうやって? 彼は今どこにいる?


 そのとき、エドワードがそっとルコットの手を取った。

 その瞳を覗き込んで、はっきりとした口調で言う。


「落ち着いてください。……奥さまなら、おわかりになるはずです」


 その声は確信に満ちていた。

 リリアンヌ、ターシャ、侍女長、テディも、静かに頷いている。

 ルコットは目の前の霧が晴れるような気がした。

 魔力ではなくもっと意識の奥の方、深く澄んだ心の内に集中する。


「……北……いえ、東北東に、進んでください。その上空に、ホルガーさまがいます」


 針の穴に糸を通すような正確さで、ホルガーの落下地点を割り出す。

 彼にかかる重力、空気抵抗、風向き、落下速度――あらゆる計算を行い、それらの結果を組み合わせていく。

 紙もペンもない。全てはルコットの頭の中で、緻密な計算式が組み立てられていった。


「もう数歩分ほど南方、半身分西……行き過ぎです、もう少し東へ」


 細かなルコットの指示に、エドワードと侍女長も全力で応える。飛行可能空域を遥かに超えた上空で行われるそれは、もはや人間業ではなかった。


「もう少しだけ東……ここです! ここで待機してください!」


 シュードの操縦において停止飛行ホバリングほど難しいものはない。

 しかし、エドワードと侍女長は危なげなく「かしこまりました」と頷いた。

 リリアンヌとターシャ、テディがすかさず布を張る。

 ルコットは五人を振り返り言った。


「タイミングに合わせて、私が上空でホルガーさまを受け止めます。残った魔力で勢いを削げば大丈夫なはずです。ですが、恐らく私の魔力はそこで尽きます」


 高度からではないとはいえ、この機体に二人分の衝撃が直撃するということだった。

 計算上は耐えられるはずだった。

 しかし万が一ということもある。ルコットは皆を巻き込むことを一番恐れていた。


 しかし一同はそんなことは構わなかった。むしろ全く別の心配をしていた。

 もし、ホルガーを受け止める前にルコットの魔力が尽きてしまったら。今度はルコットの身が危険に晒されるのだ。

 ルコットもそれは承知の上だった。


 ここで皆と一緒に待機し、彼の姿が見えたらシュードの上から勢いを削ぐ。

 それがルコットにとって最も安全な策だった。

 しかし、もし万が一、この機体の位置が少しでもずれていれば、ルコットの魔力を飛ばすタイミングが合わなければ――ホルガーは助からない。

 それでは嫌だった。

 助かるなら二人で。

 他に選択肢はなかった。


 ルコットの眼差しを受け、皆は一様に押し黙る。その揺るぎない瞳から、皆にも思いが伝わったのだろう。

 もはや、止める者はいなかった。


「……ルコットなら、大丈夫、絶対」


 リリアンヌの力強い言葉に、ターシャも頷く。


「着地は任せて。必ず受け止めるから」


 彼女たちの言葉が、ルコットの背中を押した。

 上空を見上げると、雲間に針の先ほどの小さな影が見える。

 ルコットは指輪に触れ、目を閉じた。いつも自分を見守ってくれたその指輪を今、ことさら頼もしく感じた。

 

(……どうか、力を貸してください)


 内心祈ると、指輪が一瞬淡く光った気がした。

 

(贈り主のことを覚えているのかしら)


 気のせいかもしれない。しかし、ホルガーから贈られた指輪の存在は、ルコットに確かな勇気を与えていた。

 ルコットは気負いのない表情で「待っていてください」と呟くと、空の彼方を見据え、「飛行フロン」と唱えた。

 





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