第百二十五話 おかえり
その言葉に、ホルガーは静かに目を伏せた。
ありふれた幸せを奪われる悲しみ。
それは、かけがえのない人を得たホルガーにも、はっきりと想像することができた。
だが、それでもここで口をつぐむわけにはいかなかった。
「……それでも、まだ、諦めるには早すぎます」
――……何?
世界に見切りをつけるには早すぎる。
目を閉ざし、幸せを否定するには早すぎる。
「何故なら、あなたはまだ、手遅れにはなっていないのですから」
その言葉が響いた瞬間、辺りに沈黙が落ちた。
意味が飲み込めないのだろう。
サーリの戸惑いの気配が伝わってくる。
――それは、どういう……?
「気づけるはずです。本来のあなたなら。……どうか、目を開いてください」
それは力強い声だった。
ルコットの強さが海のようなおおらかさにあるとするなら、ホルガーはまるで、全てを照らし出す太陽のようだった。
一音一音が励ましと祈りの光に満ちている。
真っ暗で何も見えなかった世界。
そこに一条の光が差し込んできたかのようだった。
サーリの中で、何かが弾けた。
幾重ものガラスが砕けるような、澄んだ音が響きわたる。
瞬間、光る繭の殻が、まるで花弁のように、ぶわりと舞い上がった。
「……わぁ!」
思わずルコットの口から歓声が溢れる。
暗い洞窟の中に、幾千幾万もの光の花弁が舞い踊った。
きらきらと水晶のように瞬きながら。
光の繭が徐々に小さくなっていく。
同時に、繭の中から、強く優しい光が溢れ出してきた。
「……本当は、気づいていた」
先ほどまでの鈍くこもった声ではない。
澄んだ声が繭の間をすり抜け、三人の鼓膜を打った。
「……私は、本当は、孤独ではなかったのだ」
本当は、知っていた。
心配した村人たちがサーリを探していたことも。
息子の成長を細かく日記につけてくれていたことも。
そしてその息子が、フレイローズを離れ神々の国へ帰った後も、ずっと自分を見守ってくれていたことも。
「……知っていたのに、私は、気づかぬふりをしていたのだ。もう、あやつはどこにもいない。その事実から目を背けているために。……全ては、私の弱さのためだった」
光が和らいでいく。
繭の奥にうっすらと人影が浮かび上がってきた。
「……そこにいるのか、リュク?」
光の粉を浴び、立ち竦んでいたリュクは、繭の方へ一歩踏み出した。
「あぁ、ここに。ここにいるよ」
震えた声だった。
涙の滲む瞳で、しかしまっすぐに、リュクはサーリを見つめていた。
それは二人が出会ったときから、ずっと変わらない眼差しだった。
「ごめん……ごめんよ、サーリ。僕はあのとき、君を守るだけで精一杯で、君の孤独まで考えることができなかった」
唇を噛みしめながら、リュクはまた進む。
弱々しくも確かな足取りで。
その歩みに、もう迷いはなかった。
繭の奥で身じろぎする影に、リュクはそっと手を伸ばした。
「……サーリ、僕を、許してくれるかい」
サーリは、答えなかった。手もとらなかった。
それどころか、縮こまるように繭の奥の方へ体を丸めてしまった。
それでも、リュクは待った。
じっとその姿勢のまま。まるで石のように、彼女の言葉を待った。
どのくらいの間そうしていたのか。
ルコットにもホルガーにもわからなかった。
しかし、ひどく長い間二人は沈黙の中にいた。永遠に続くかと思われる長い長い沈黙だった。
ふいに、そこへ、囁くような声が落ちた。
「……私は、お前に合わせる顔がない。お前の愛していた世界を、人々を、滅ぼそうとしてしまった」
リュクは小さく首を振ると、「違うよ」と言った。
「それは、君の罪じゃない。一緒に、謝りに行こう。……それで、もし許してもらえなかったら、そのときは、二人で一緒に償おう」
リュクの声は真剣そのものだった。
本気で、世界を滅ぼしかけた罪を、二人で背負おうとしていた。
それは、心底彼らしい言葉だった。
そうだ、彼は決して「一緒に逃げよう」とは言わない人だった。
どんなことからも決して目を逸らさず、逃げださない。
サーリは顔を上げた。
光の中に彼の影が見える。
じっと待ってくれている。
その姿が、サーリの背中を押した。
大きく深呼吸をし、立ち上がる。
これからのことを思うと、足が竦みそうになる。
幾星霜振りに彼に会うこと、世界に謝ること、どう転ぶかわからない未来。
それでも、サーリは、立ち止まるわけにはいかなかった。
それは、気の遠くなるような年月、彼女のことを想い続けた最愛の夫のため。
そして――サーリは脳裏に思い浮かべる。
どんな絶望の淵にも決して諦めず、まっすぐにサーリを見つめ、活路を探し続けた、あの優しい夫婦を。
彼女の眼差しが、彼の言葉が、サーリに確かな勇気を与えた。
伸ばされた指先にそっと触れる。
目線を上げると、眼前の彼はじわじわと目を見開き、こちらを凝視していた。
サーリは迷った。
数千数万年振りに、何と声をかけようかと。
言いたいこと、伝えたいことは、山のようにあった。
しかし、口を突いて出たのは、たったの一言だった。
「……おかえり、リュク」
会いたかった。
寂しかった。
ずっと、ずっと、恋しくて、仕方がなかった。
全ての想いが、その一言に詰まっていた。
リュクは噛みしめるように頷き、触れた指先を握り返した。
それから、戸惑う彼女を優しく抱きしめた。
「……ただいま、サーリ」
最後の繭の欠片が高い音を立てて弾け散った。
同時に、暗闇の世界に亀裂が入り、外から眩しい光が差し込んできた。




