第百二十四話 暗闇の世界
そこは、一切の光が絶たれた世界だった。
冥界のように周囲の様子を見ることさえできない。
何も見えない。
あるのは、温度の感じられない闇ばかりだ。
リュクが杖の先に炎を灯して、ようやく互いの顔が見えるようになった。
「急ぎましょう」
ホルガーに促され、リュクが先頭に立った。
炎をかざし、奥に向かって歩き始める。
刺すような冷気が底の見えない闇の中から流れ出ていた。
「こんなところにいては、良くないですわ」
ルコットの物憂げな呟きに、リュクも頷く。
「あぁ、彼女にこんな暗闇は似合わないよ」
何も見たくない。
何も聞きたくない。
そんな彼女の寂しい拒絶を表しているかのようだった。
自然と三人の歩調が速まる。
殊にリュクは、わき目もふらずに歩みを進めた。
しかし、どちらを見ても闇ばかり。
進んでいるのか戻っているのかもわからない。
リュクが先頭でなければ、どちらに向かえば良いのかもわからなかったに違いない。
彼はしきりに何か呪文のようなものを口の中で唱えていた。
「リュク殿は何を唱えているのですか」
ホルガーが囁くようにルコットに問いかける。
その声はまるで闇に吸い込まれるように消えてしまったが、ルコットの耳には届いた。
「闇はらいのまじないです」
「闇はらい? 人探しや後追いではなく?」
ルコットは耳を澄ませたが、リュクが唱えるのは、三人が無事に暗闇を進めるよう闇を薄めるまじないばかりだった。
「きっと、道順は探すまでもないのだと思います」
もしホルガーがこの奥にいるとしたら、ルコットとて迷いなくそこまでたどり着くことができるだろう。
まして幾星霜もの間彼女のことを想い続けた彼ならなおさらだ。
ふとリュクが二人の方へ振り向いた。
「そろそろ着くよ。準備はいいかい?」
ホルガーとルコットは静かに頷いた。
* * *
不思議な空間に出た。
ぽっかりとあいた闇ばかりの洞穴に、まるで繭のような光が浮かんでいる。
その光に太陽のようなまばゆさはなく、うすぼんやりとした明かりは周囲一円を雪日の月のように冷たく照らしていた。
「あれは……?」
「あの中に、サーリがいるんだよ」
リュクはよどみなく答えたが、その場から一歩も動かなかった。
「リュクさま?」
不思議そうなルコットの問いかけに、リュクは苦笑を返す。
「……情けないね。この期に及んで、怖気づいてしまうなんて」
悲しい思いをさせるとわかっていながら、一人この世界に遺していってしまった。
今になって、どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。
早く会いたい。助けたい。
そう思うのに、足がどうしても動いてくれない。
傍らに立つルコットには、その気持ちが痛いほどわかった。
「リュクさま……」
茫然と繭を見上げる二人。
そのとき、動いたのはホルガーだった。
立ち尽くす二人を追い越し、繭の方へ近づいていく。
「ホルガー君……?」
リュクの戸惑いの声にも振り返らず、ホルガーは繭の間近に立った。
「女神サーリ、聞こえますか」
それは平時の声だった。
哀れみも、戸惑いさえ感じられない。
恐れも迷いもなく、ホルガーは女神へ語りかけた。
「失う悲しみは、誰もが持つものです。全てのものに終わりがある限り。そしてその悲しみはきっと、当人にしかわからない。同情はできても、肩代わりをすることはできません。ですから、あなたの悲しみは俺にはわかりません」
繭からは何の反応もない。
聞いているのかいないのかもわからない。
しかしホルガーは、静かに言葉を続けた。
「この世に生きて数十年の俺でも、これまで様々な感情を抱いてきました。戦場でも、その外でも。もうこれ以上耐えられないと、思う日もありました」
このときルコットは、ホルガーの苦悩を初めて聞いた。
それは彼が初めて見せた弱さだった。
しかし、同時に、その弱さが、彼の揺るぎない強さと勇気を作り上げている。そんな気がした。
そしてその強さは、眩しいほどの明るさで、これまで何度もルコットを勇気付けてくれていた。
いや、ルコットだけではない。
数え切れないほどの人々が、彼の戦う姿に、不器用な言葉に、無言の背中に救われていた。
多くは、彼の気づいていないところで。
ルコットは駆け寄りたい気持ちをぐっとこらえ、彼の言葉の続きを待った。
何故ならその表情はなお、穏やかだったからだ。
ホルガーはかつてを思い返すように口を閉ざした後、ふと顔を上げて言った。
「……ですが、どんなにひどい日でも、否が応でも、また次の朝日が昇るんです」
朝日が登れば、また新たな一日が始まる。
問題が解決しないうちに。気持ちの整理がつかないうちに。
顔を洗い、物を食べ、また、歩き出さなければならない。
「俺は、それでいいのだと思います」
歩いているうちに、たくさんの人に出会った。
いろんな話をした。
くだらない雑談も、故郷を懐かしむ話も。
そうしているうちに次の街に着き、様々なもの、風景が目に入ってくる。新たな人に出会う。
出会いと別れが繰り返されていく。
そしていつのまにか、また一歩前に踏み出す力がついている。理解できること、受け入れられることが増えていく。
そして少しずつ、楽しいこと、好きなことが増えていった。
「大切なのは、きっと、そのとき後悔しない道を選ぶことなのだと思います。未来のためでも、過去のためでもなく」
そのとき、繭が一瞬淡く明滅した。
「過去のため」その言葉に反応したようだった。
自身が過去に囚われていることは、サーリ自身一番よくわかっていた。
それだけに、ホルガーの言葉に答えずにはいられなかったのだ。
――過去を忘れろというのか。受けた仕打ちも、憎しみも……!
「サーリ……」
リュクは悲痛な面持ちで呟く。
彼女の口から「憎しみ」という言葉が出たことに、驚き、悲しんでいるようだった。
対して、ホルガーは冷静に彼女の言葉を受け止め、そして、はっきりと首を振った。
「いいえ、憎しみを忘れる必要はありません」
「ホルガーさま……?」
これにはルコットも戸惑いの声を上げた。
だが、ホルガーの考えは変わらなかった。
「無理に、憎しみを捨てることはありません。……ですが、憎しみのために、今のあなたの幸せを捨てる必要もないはずです」
その瞬間、嘲るような笑いが辺りに響いた。
――アッハッハハハ……私の幸せだと……!
腹の底から凍っていくような声だった。
対神や精霊の訓練を受けているルコットでさえ、足の竦む思いがした。
――そんなもの、あやつが……リュクが消えたその日に、全て失った! あやつのいない世界に何の意味がある! 私は……私は……!
洞窟が轟々と揺れる。
風が吹き荒れる。
しかしホルガーは、ただ静かにその様子を見守っていた。
とうとうサーリは、ただ一言、こう言った。
――私は……ただ、彼と静かに暮らしていければ、それで幸せだったんだ。




