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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第五章 南国 エメラルド
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第百二十三話 灯台を目指して


 ハントの声が響いた瞬間、天空の国に一陣の風が吹いた。

 青い空に浮かぶ雲が、勢いよく流れていく。

 まるで、止まっていた時間が動き始めたかのように。


「さて、わしらもそろそろお別れだの、ルコットさん」


 雲を見送りながらアランテスラが言った。

 ルコットが振り返ると、彼もまた、ルコットに向き直った。

 はためく髪を押さえ、ルコットはこの人の良い老人の佇まいをじっと見つめた。


「もう、会えないのでしょうか」


 自然と出てきたのはそんな言葉だった。

 それを聞くと、アランテスラはくしゃりと笑った。


「会えるとも。いつか、必ず会える」


 何の根拠もなかったが、ルコットも、いつかまた会えるような、そんな気がした。


「それまで、ずっと、見守っていよう。そなたたちの未来を楽しみにしておるよ」


 その言葉を聞くと、寂しげだったルコットの表情に自然と微笑みが広がった。


「ありがとうございます。私も、未来が楽しみですわ」


 二人は歩み寄ると、静かに握手を交わした。

 ルコットの瞳に映るアランテスラは、かつてないほどの光をたたえていた。


「息災でな」

「アランテスラさまも、お元気で」


 二人を中心に風が起こり、足元の雲が周囲に舞い上がっていく。

 真っ白な雲が二人を包み込み、やがて、ルコットの体がふわりと浮かび上がった。

 舞いおどる雲の切れ端の向こうに、アランテスラが遠のいていく。

 ルコットが手を振ると、白髪の老人もまた、微かに微笑んだ気がした。

 最後のとき、大空に老人の優しい声が響いた。


「世界中すべてのものに幸あれ」


 天空神アランテスラの祝福を受け、大地、木々、川、海、空――あらゆるものが一瞬、まばゆく光った。

 竜の背にいる人々、そして世界中の人々が、世界の息吹を感じ息をのむ。

 その光は強く瞬いた後、光の粒になって天に昇っていった。



* * *



 白い雲がどんどん後ろへ飛びすさっていく。

 しかし不思議と寒さは感じず、とても穏やかな気持ちだった。

 心の内でホルガーの姿を思い浮かべる。

 それから、口の中で名前を呼んだ。

 地上を離れていたのはわずかな時間のはずなのに、とても懐かしく思えた。


「……ホルガーさま」


 視界がぱっと輝き、眩むような光に包まれた。

 はためいていた髪と服がふわりと落ち着く。

 歩みを進めると、軽快な靴の音がした。

 帰ってきた。そう思った。


「ホルガーさま」


 もう一度そう呼んで目線を上げると、遠くに彼の声が聞こえた。


「……ルコットさん!」


 その声は、まるで嵐の夜の灯台のようだった。

 その声に呼ばれれば、どこまでも駆けて行ける。そんな気がした。

 魔力はもうほとんど残っていない。

 気力や集中力も、もう限界のはずだった。

 それなのに、全く苦しさを感じない。それどころか、まだまだ体の奥から力が湧いてくる。

 ルコットは目を細め、そして、地上へふわりと舞い降りた。



* * *



 目の前に、懐かしい彼がいた。

 両手を広げ、少し焦った表情で、こちらを見上げて。

 ルコットは嬉しさに頬がほころぶのを感じた。

 それを見た彼は、一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐにはっとして、舞い降りたルコットを両腕に収めた。


「……無茶をなさる」


 心底ほっとしたような声と、安堵の小さなため息。

 ルコットは胸にうずめていた顔をぱっと上げた。

 紅潮した頬と、輝く瞳で、ホルガーを見つめる。


「ただいま帰りました」


 ホルガーは驚いたように両目を見開き、それから優しく微笑んだ。


「……お待ちしていました、ルコットさん」


 心配はしても、帰りを疑うことはない。

 ルコットなら大丈夫。ホルガーはずっとそう信じている。

 それは、出会ったときに生まれ、婚礼のあの日から変わらない、確かな信頼だった。


「信じてくださって、ありがとうございます」

「……懐かしいですね」


 ホルガーは少し照れたように笑った。

 それから、少しだけ名残惜しそうに、そっと彼女を降ろす。

 そこは、真っ黒な積乱雲の眼前だった。

 びりびりと肌を刺すような緊張感が辺りに立ち込めている。


 ルコットははっとしてあたりを見回した。

 ここはどこだろう。

 召喚は成功したのだろうか。

 ルコットの心中を察したホルガーは安心させるように頷いた。


「女神サーリはあの黒雲内で力を溜めています。それから、リュク殿なら、そちらに」


 視線の先、二人から少し離れたところに、彼は背を向けて立っていた。

 そこから、黒く渦巻く雲を見つめている。


「……リュクさま、ですか」


 ルコットが呟くと、彼はそっと振り返った。

 同時に、その目が微かに見開かれる。


「これは驚いた」


 まじまじと見つめられ、ルコットはたじろぐ。

 すると男は、慌てたように「これは失礼」と謝った。


「あまりにも彼女に似てるものだから」


 それを聞くと、ルコットは小さく笑った。


「サーリさまには、リュクさまに似ていると言われましたわ」


 リュクは「本当かい?」と目を瞬いた後、何かに気づいたように「そうか」と苦笑した。


「僕たちはきっとお互いの面影を探しているんだね」


 ルコットとホルガーは頷く。


「いきましょう」

「サーリさんが待っていますわ」


 リュクはこの二人を、心底変わった人の子だと思った。

 世界を滅ぼさんとしている女神を本気で心配し、救おうとしているのだ。

 倒そうという方が幾分安易なはずなのに。

 きっと初めから、そんな選択肢はないのだろう。


「……そんな君たちだからこそ、多くの人が心を動かされたんだろうね」


 リュクは呟くと、「僕もその一人か」とどこか嬉しげに微笑んだ。


「……待っていて、サーリ。今度は必ず、君を助けてみせる」


 リュクが白い手を黒雲に置くと、そこに銀色の文様が浮かび上がった。






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