第百二十三話 灯台を目指して
ハントの声が響いた瞬間、天空の国に一陣の風が吹いた。
青い空に浮かぶ雲が、勢いよく流れていく。
まるで、止まっていた時間が動き始めたかのように。
「さて、わしらもそろそろお別れだの、ルコットさん」
雲を見送りながらアランテスラが言った。
ルコットが振り返ると、彼もまた、ルコットに向き直った。
はためく髪を押さえ、ルコットはこの人の良い老人の佇まいをじっと見つめた。
「もう、会えないのでしょうか」
自然と出てきたのはそんな言葉だった。
それを聞くと、アランテスラはくしゃりと笑った。
「会えるとも。いつか、必ず会える」
何の根拠もなかったが、ルコットも、いつかまた会えるような、そんな気がした。
「それまで、ずっと、見守っていよう。そなたたちの未来を楽しみにしておるよ」
その言葉を聞くと、寂しげだったルコットの表情に自然と微笑みが広がった。
「ありがとうございます。私も、未来が楽しみですわ」
二人は歩み寄ると、静かに握手を交わした。
ルコットの瞳に映るアランテスラは、かつてないほどの光をたたえていた。
「息災でな」
「アランテスラさまも、お元気で」
二人を中心に風が起こり、足元の雲が周囲に舞い上がっていく。
真っ白な雲が二人を包み込み、やがて、ルコットの体がふわりと浮かび上がった。
舞いおどる雲の切れ端の向こうに、アランテスラが遠のいていく。
ルコットが手を振ると、白髪の老人もまた、微かに微笑んだ気がした。
最後のとき、大空に老人の優しい声が響いた。
「世界中すべてのものに幸あれ」
天空神アランテスラの祝福を受け、大地、木々、川、海、空――あらゆるものが一瞬、まばゆく光った。
竜の背にいる人々、そして世界中の人々が、世界の息吹を感じ息をのむ。
その光は強く瞬いた後、光の粒になって天に昇っていった。
* * *
白い雲がどんどん後ろへ飛びすさっていく。
しかし不思議と寒さは感じず、とても穏やかな気持ちだった。
心の内でホルガーの姿を思い浮かべる。
それから、口の中で名前を呼んだ。
地上を離れていたのはわずかな時間のはずなのに、とても懐かしく思えた。
「……ホルガーさま」
視界がぱっと輝き、眩むような光に包まれた。
はためいていた髪と服がふわりと落ち着く。
歩みを進めると、軽快な靴の音がした。
帰ってきた。そう思った。
「ホルガーさま」
もう一度そう呼んで目線を上げると、遠くに彼の声が聞こえた。
「……ルコットさん!」
その声は、まるで嵐の夜の灯台のようだった。
その声に呼ばれれば、どこまでも駆けて行ける。そんな気がした。
魔力はもうほとんど残っていない。
気力や集中力も、もう限界のはずだった。
それなのに、全く苦しさを感じない。それどころか、まだまだ体の奥から力が湧いてくる。
ルコットは目を細め、そして、地上へふわりと舞い降りた。
* * *
目の前に、懐かしい彼がいた。
両手を広げ、少し焦った表情で、こちらを見上げて。
ルコットは嬉しさに頬がほころぶのを感じた。
それを見た彼は、一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐにはっとして、舞い降りたルコットを両腕に収めた。
「……無茶をなさる」
心底ほっとしたような声と、安堵の小さなため息。
ルコットは胸にうずめていた顔をぱっと上げた。
紅潮した頬と、輝く瞳で、ホルガーを見つめる。
「ただいま帰りました」
ホルガーは驚いたように両目を見開き、それから優しく微笑んだ。
「……お待ちしていました、ルコットさん」
心配はしても、帰りを疑うことはない。
ルコットなら大丈夫。ホルガーはずっとそう信じている。
それは、出会ったときに生まれ、婚礼のあの日から変わらない、確かな信頼だった。
「信じてくださって、ありがとうございます」
「……懐かしいですね」
ホルガーは少し照れたように笑った。
それから、少しだけ名残惜しそうに、そっと彼女を降ろす。
そこは、真っ黒な積乱雲の眼前だった。
びりびりと肌を刺すような緊張感が辺りに立ち込めている。
ルコットははっとしてあたりを見回した。
ここはどこだろう。
召喚は成功したのだろうか。
ルコットの心中を察したホルガーは安心させるように頷いた。
「女神サーリはあの黒雲内で力を溜めています。それから、リュク殿なら、そちらに」
視線の先、二人から少し離れたところに、彼は背を向けて立っていた。
そこから、黒く渦巻く雲を見つめている。
「……リュクさま、ですか」
ルコットが呟くと、彼はそっと振り返った。
同時に、その目が微かに見開かれる。
「これは驚いた」
まじまじと見つめられ、ルコットはたじろぐ。
すると男は、慌てたように「これは失礼」と謝った。
「あまりにも彼女に似てるものだから」
それを聞くと、ルコットは小さく笑った。
「サーリさまには、リュクさまに似ていると言われましたわ」
リュクは「本当かい?」と目を瞬いた後、何かに気づいたように「そうか」と苦笑した。
「僕たちはきっとお互いの面影を探しているんだね」
ルコットとホルガーは頷く。
「いきましょう」
「サーリさんが待っていますわ」
リュクはこの二人を、心底変わった人の子だと思った。
世界を滅ぼさんとしている女神を本気で心配し、救おうとしているのだ。
倒そうという方が幾分安易なはずなのに。
きっと初めから、そんな選択肢はないのだろう。
「……そんな君たちだからこそ、多くの人が心を動かされたんだろうね」
リュクは呟くと、「僕もその一人か」とどこか嬉しげに微笑んだ。
「……待っていて、サーリ。今度は必ず、君を助けてみせる」
リュクが白い手を黒雲に置くと、そこに銀色の文様が浮かび上がった。




