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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第五章 南国 エメラルド
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第百二十話 対価


「本来なら」


 アランテスラは一口紅茶を含んで目を閉じた。


「そなたらは別々の道を行くはずだった。そして、王はほどなく退位し、スノウ姫が王位につき、各国との戦争が始まるはずだった」


 ルコットは息を飲んだ。

 本来なら、スノウの危惧していた未来はすぐそこに待ち受けていたのだ。


「……しかし、そうはならなかった」


 老人は口元で微笑み、カップに揺れる水面を見つめた。


「そなたらが、世界の運命を物ともせず、……恐らくは無意識のうちにはねのけ、結婚してしまったからの」


 そんなことが、可能なのだろうか。

 世界には、動かしがたい不文律がある。

 運命を変えることもそうだ。

 あの大魔術師ハントも、人の運命を変えることはできない。


「信じられないという顔をしておるな」


 図星を突かれ、ルコットは固まった。


「だが、事実なのだ。あの婚姻は、必然ではなかった。否、それどころか、運命に抗ってまで、そなたら自身が選びとったものなのだ」


 誰もが予想しない展開だった。

 アランテスラさえ大いに驚いたものだった。

 確かに驚いた。しかし、はじめのうちはそれほど重くは考えていなかった。

 世界には流れを軌道修正する力がある。

 たとえ枝葉末節が変わっても、大筋が変わらないのはそのためだ。

 二人の婚姻は予想外だったが、これは何かの間違いで、いずれ軌道修正されるに違いない。

 戦争が起こるのは、確定事項なのだから。


 貞淑な末姫らしく、会話少なに屋敷で一生を終えるのか。

 仮面夫婦となり、別居状態になるのか。

 はたまた、離縁することになるのか。

 いずれにせよ、結末は変わらない。

 そのはずだった。


「しかし、婚姻後もそなたは、『世界の想定していたルコット姫』が選ぶはずのない道ばかりを歩き続けた。その結果、そなたを中心に、周囲の人々の運命までもが大きく変わり始めたのだ」


 それは何故なのか。

 アランテスラはずっと考え続けてきた。

 そしてようやくある一つの結論に至ったのである。


「それは、何だったのですか?」


 不安げなルコットに、アランテスラは優しく微笑みかけた。


「それは、そなたの愛と優しさだ」


 ルコットは、呆気にとられた。

 聞き間違いかと思った。とても、信じられなかった。

 そんなありふれたものが、世界の進む方向を変えたなんて。


「驚くことはなかろう。そなたは母ルイーザのごとく優しくなりたいと願っておったではないか」


 そうだ。確かにずっと願っていた。

 あの優しかった母のようになりたいと。

 でもそれは、ただの漠然とした目標で、世界を救おうとしてのことではない。

 それに、自分はまだまだとても未熟で、とても母に追いつけているとは思えない。

 そう言うと、老人は「何を言うか」と可笑しそうに笑った。


「そなたは何かを決断するとき『母ならどうするか』と考えたことはなかっただろう。全て自分で悩み、考え、選んできた」


 迷いながらも、決してその歩みを止めることはなかった。

 まっすぐに自分の道を見据え、危なっかしくも力強く、一歩一歩を踏み出してきた。


「世界の向かう方向を変えたのは母の模倣をしたそなたではない。そなた自身だ。そなたの愛も優しさも、そなたの下してきた無数の決断の結果」


 胸を張りなさい。

 そう、アランテスラは言った。


 ルコットの顔に自然と微笑みが広がった。

 目を閉じると、思い返されるのはこれまでのこと。

 たくさんの人に出会った。

 様々なところへ飛び回り、色々なものを見た。

 その全てが美しかったわけではない。

 悔しい思いもしたし、悲しいこともたくさんあった。あまりの忙しさに目が回りそうだったこと、恐ろしさに足がすくむこともあった。


 それでも、今にして思えば、後悔するような道は一度として選ばなかった。

 何故ならば、ルコットの想いはあの日から一度も変わらなかったからだ。


「……私が、歩みを止めずにいられたのは、強くありたいと願えたのは――あの方に恥じない自分でありたいと、そうどこかで願っていたからですわ」


 ですから、それは私の手柄ではありません。

 そう言って、ルコットは小さく笑った。とても幸せそうな笑みだった。


「これからも、私は歩き続けますわ」


 たどたどしくも、ゆっくりと、自分が信じる道を探しながら。

 

 その言葉には、そして、その瞳には、これまでアランテスラが見守ってきた、人の子の強さがあった。

 未来さえ変える無限の可能性を秘めた、人の子の強さが。

 アランテスラは微笑んだ。


「信じておるよ」


 今視えている未来。

 それは、想いでどこまでも変わり、広がっていくものなのだと。

 アランテスラはそれが、とても嬉しかった。


 そのとき、雲の下から遠い爆発音が聞こえてきた。


「……さて、そろそろ頃合いかの」


 アランテスラは「最後に」と先ほどより幾分真剣な面持ちとなった。


「対価の話をせねばならんの。先ほどの召喚の対価に、そなたは何を差し出す?」


 ルコットはじっと考えた。

 全てを知り、全てを持つ彼に自分が差し出せるもの。それはひどく限られていた。


「私の魔力を差し上げますわ」

 

 ルコットの言葉に、アランテスラはぽかんと口を開いた。それはあまりに予想外の答えだった。


「そんなことをすれば、そなたは二度と魔法を使えぬのだぞ。血の滲むような努力が全て無駄になってしまう」


 アランテスラが珍しくそうまくし立てるも、ルコットは拍子抜けするほど落ち着いていた。


「無駄になんて、なりませんわ」


 力強い、確信に満ちた声だった。


「努力した日々が消えて無くなるわけではありませんもの」

「それは、確かにそうかも知れんが……」


 受け取る側のアランテスラがためらっていた、そのとき、どこか遠い空の彼方から、のんびりとした声が聞こえてきた。


「ルコットちゃん、その必要はないよ」


 聞き慣れた声に、ルコットは刮目する。

 

「ハントさま!?」


 きょろきょろと辺りを見回すもその姿は見えない。

 どこか遠くからこちらを遠視し、語りかけているようだった。

 驚くルコットとは対照的に、アランテスラは呆れたように苦笑した。


「久しいの、最古の魔術師よ」


 どうやら二人には面識があるらしい。

 ハントの側も「お久しぶりです」と打ち解けた返事を返した。


「さて、時間がないから本題に入ろう。ルコットちゃんの代わりに私が対価を払うよ。ご老人、構わないだろう?」

「魔術師の師が弟子の対価を払うなら、道理に外れてはおらんが……」


 アランテスラは納得しているようだったが、ルコットは慌てた。


「いけませんわ、だって、これは私の対価で……」


 なおも言葉を続けようとするルコットを、ハントは「まぁまぁ」と制した。

 

「そう堅いことを言わないで。アランテスラ殿が仰っていたように、魔術師の対価は師が払っても良いことになっているんだよ」

「でも、だからといって……」


 ルコットの気持ちはハントにも痛いほどにわかった。

 自分の行動の結果、誰かが傷つくことに耐えられないのだ。

 心底優しい彼女らしいとハントはこっそり笑った。


「君の気持ちはよくわかっているよ。だからね、これは私のわがままなんだ。私は、君の魔力が失われてしまうのがあまりにも惜しい。君に魔法を教えた師としてね」


 そう言われると、ルコットはどう返せば良いかわからなかった。

 言葉が詰まったその隙に、ハントはアランテスラに告げた。


「天空神アランテスラ殿、私はリュク殿の召喚の代償に、私の残りの寿命全てを差し出す。『是』と言っておくれ」


 驚いたルコットが何かを叫ぶ前に、アランテスラの低い笑い声があたりに響いた。

 まるで大海のさざ波のような声だった。


「確かに、不死たるそなたの時間であれば召喚の代償には足るだろう。まったく不遜なやつめ。だが、まぁ、待ちなさい」


 その様子は、まるで幼い少年をたしなめているかのようだった。

 

「そなたから代償を貰うのは良い。だが何を貰うかはわしが決めよう」


 思ってもみなかった言葉に、ハントでさえ一瞬返答が遅れた。

 しかしすぐに、いつもの飄々とした声色で「お願いするよ」と言った。

 とはいうものの、声のどこかにどこか不安げな様子がうかがえる、

 天空神の要求に自分一人で応えられるのか。周囲に危害が及ばないか。ハントの憂慮はその一点だった。


「それで、私は何を差し出せば良い?」


 心持ち緊張したハントの問いに、アランテスラは「そうだな」と考える素振りを見せた。

 しかしそれは振りだけで、あくまで要求は決定しているようだった。

 ルコットは、固唾をのんで老人を見守った。彼女にとっても、生きた心地がしない数瞬が過ぎ去った。

 とうとう老人は、「ふむ」と呟くと、ゆっくりと口を開いた。


「……では、不死の魔術師よ。そなたの呪いを貰い受けよう」


 ルコットはぽかんと口を開いた。

 呪いとは、何のことなのか。

 驚いたのはハントも同様だった。しかし彼は呪いの意味がわかるようだった。


「それは……」


 躊躇いと戸惑い。

 彼にはおよそ似合わないそんな感情が読み取れた。


「ハントさま、呪いとは、何のことなのですか?」


 ルコットは硬い声で問いかけた。

 尋ねるべきではないのかも知れない。しかし、聞かずにはいられなかった。

 師であり、そして何より大切な友人である彼が呪いで苦しんでいたなんて。


 ハントは「参ったな」と呟いた。

 できることならルコットには生涯知らせたくないと言わんばかりだった。

 しかしこうなってしまっては、もはや隠し立てすることはできない。

 竜の背の上から、天空に向けて、ハントは囁くように語り始めた。


「これは、名もない魔術師が、不死となった……もう、随分昔の話だよ」







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