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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第一章 婚礼編
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第十二話 ハル=アルト=セイラン


 北の大国、シルヴァ。

 大陸の最北に位置し、東西に大きく伸びる高山地帯、通称スメラギ山脈が、他国との国境となっている。

 世界一の人口を有し、大陸の三分の一を占める、絶壁に守られた真白の美しい国土。

 しかしその内実は、そう華やかなものではなかった。


 作物の育たない永久凍土。

 餌を与えられず痩せた家畜。

 突如吹き荒れる猛吹雪は、多くの民をその手にかける。

 日々食卓に上るものは、痩せた何かの肉と細切れの野菜。

 王族であっても、そこにパンの欠片が付くか付かないか程度の差であった。

 もっとも、食べられれば良い方だった。


 ハルには優秀な兄が二人と、妹が二人、弟が二人いた。

 兄は王族であるが故の冷酷さを備えてはいたが、何より民の命を最も重んじていた。

 それは幼い妹弟も同様で、偵察と称し各所を巡り、申し訳程度の食料を配り歩くことも珍しくなかった。


 しかし、どれだけ偵察を増やしたところで、変わらず民は苦しんだ。

 どれだけ勇気付けたところで、他国へ亡命し、その美しい白い容姿で色を売る民は、減らなかった。


「お兄ちゃん、私もう、誰かが泣いてるところ、見たくない」


 透明な涙を流す妹の頭を撫でながら、歯をくいしばる。

 ハルとて、そんなもの見たくはなかった。

 しかしどうすればいいのだ。

 食料も物資も、配れるだけ配っている。

 他国から仕入れるだけの財源もない。

 雪も止まない。

 もう、ハルの心は限界だったのかもしれない。


 だから、父王からフレイローズへ行けと命じられたとき、彼は一二もなく頷いた。

 あの国の次期女王を討ち取れば、あの国の未来を断てば、この国は救われる。

 もう民が飢えに苦しむことはなくなる。

 民が体を売ることもなくなる。

 この手を、血に染めれば。



* * *



 スノウは、ただ静かに彼の独白に耳を傾けていた。


「……ばかね」


 一言、そう唇から零れ落ちる。


「…っ、殿下には成し遂げられぬと申すか!」


 吠えるサクラスに視線を合わせ、スノウは「いいえ」と自嘲した。


「私の命に、そんな価値など、ありはしないのよ」


 は、と疑問にもならぬ吐息を吐く二人に、言葉を続ける。


「私の命では、あなたの国は救えない。私を倒しても、他の優秀な王女が王座につくだけのこと。私はたまたま、一番初めに生まれ、他の者よりほんの少し魔力を多く持っているだけ。この国には二十もの王女がいる。頭は、いくらでも挿げ替えられる。替えの頭が無くなるまで、続けてみる?でも、最後の王女は、あの冥府の悪魔の妻よ?勝てるかしら?」


 あまりに合理的だった。

 例え王族であっても、自らの命をここまで割り切っている人物を、ハルは他に知らなかった。


 世が世なら、この美しい王女はこんな血に塗れた世界など知らなかっただろう。

 煌びやかな生活の中、優しい男と結ばれ子を為し、穏やかで幸せな生涯を送っていたに違いない。


 不幸なのは自分の国だけだと思っていた。

 何と恵みのない土地だと思っていた。

 しかし、一等豊かな国に生まれ、全ての栄誉を手にしている彼女の方が、余程悲しく見えた。

 その凛と伸ばされた背筋に、一体どれほどのものを背負っているのか。

 同じ王族でありながら、想像することさえできなかった。


「さぁ、そろそろ出なさい」


 そう言って、スノウは格子の鍵を開け、張り巡らされていた結界を解除した。

 意味が分からなかった。

 呆然とした二人は、その場を動くこともできず、ただただ彼女を見つめ続ける。


「僕たちを逃すのかい?」

「ええ」

「君を狙った僕たちを?」

「そうよ」

「また狙いに来るかもしれないよ?」

「そうね」

「それなら、」


 どうして。

 それは言葉にならなかったが、スノウはその疑問を正しく受け取った。


「あなたが、あの国にとって必要な人間だからよ」


 ハルは、その目を溢れんばかりに見開いた。

 そんなことを言われたのは、初めてのことだった。



* * *



 彼の血の半分は踊り子のものだった。

 堅物な王が初めて犯した一夜の過ち。

 それほどまでに、ハルの母は美しかった。


 身篭った彼女は、王に何を要求することもなく、隠れるように城下で生活を始めた。

 彼女は身の丈というものを重んじていた。

 そして、どうしようもないほどに無欲であった。


 煙のように王の前から姿を消し、彼との間に授かった子を慈しむ。

 時折後ろめたさが脳裏をかすめたが、何より幸福さが優った。

 しかしそれも、自身の死期を悟るまでのことだった。


 ある冬の日、彼女は肺病にかかった。

 シルヴァでは珍しくもない、流行性の死に至る病だった。

 そのとき真っ先に考えたのは、まだ幼い息子の未来だった。

 自分がいなくなれば、この子はどうなるのか。

 暖炉の火が消えれば、ここで凍え死んでしまう。

 一晩だって保ちはしない。

 自分はどうなっても良い。

 ただ、どうしても、息子を守りたかった。


 彼女は燃えるように熱い体にその子を抱き、城門を叩いた。

 訝しむ守衛に告げる。

 この子は、王の子だと。

 初雪の如く白く輝く髪と瞳。それは、正しくシルヴァ国王家の色だった。

 否、王家の誰よりもその血が濃く現れていた。

 疑いようもなかった。

 同時に、彼女こそが、王の捜し求めている女であることを悟った。


「王が待っている」


 そう言って手を引こうとする守衛の腕に、彼女はただしっかりと息子を抱かせた。


「おい!待て!どこへ行く!」

「…どうか、王にお伝えを。その子を頼みますと」


 そして、深く深く頭を下げると、彼女は吹雪の中へと消えていった。


 誰もが彼女の死を悼んだ。

 ことに王妃は、彼女が城内に入らなかったのは自分に遠慮してのことだと思い込んでいた。

 情の厚い彼女は、せめて、と遺されたその子を可愛がった。

 ハルは新たな家族のもとで、十分な愛情のもと、健やかに成長していった。


 それでも、そこは王宮であった。

 生まれのために、在らぬ嫌疑をかけられることは一度や二度ではなかった。

 その度に、王や王妃をはじめ、家族皆が庇ってくれた。

 迷惑をかけている。

 その自覚は確かにあったが、いつしか守られることに慣れてしまっていたのかもしれない。


 ある夜、ハルが廊下を歩いていると、国王夫婦の寝室から、王妃のすすり泣きが聞こえてきた。


「私があの子を愛すれば愛するほど、あの子への風当たりは強くなる…私はどうすればいいのでしょう…」


 その問いに対する王の答えは、聞こえてこなかった。

 ハルはきつく目を閉じた。


(そうか、もう、潮時だったのか)


 何の役にも立たず、隠れるように暮らす王族など、穀潰し以外の何者でもない。


「その美しい容姿でかの王女を惑わせ、命を奪って来い。さすれば、かの国は滅び、この国は救われる」


 王からのその命令は、遠回しな口減らしに他ならなかった。

 救国の英雄として名誉の死を遂げさせる。

 それが、父王なりの優しさだったに違いない。


 容姿を利用しなかったのは、恐らく最初で最後のわがままだった。

 母に似たこの容姿を、汚い騙し討ちに使いたくはなかった。

 白い姿は、シルヴァ国の者としての誇りだ。

 それは決して、そんな風に汚していいものではない。


「身を滅ぼす覚悟はできても、そこまで堕ちるつもりはないよ」


 どうしても付き従うと言う奇特な従者にそう告げると、彼は心底誇らしげに笑った。


 もう二度と、故郷の地を踏むことはできないと思っていた。

 それなのに、この旅路が、まさかこんな結末を迎えるとは。


「生きなさい」


 眼前の王女が凛と告げる。


「あなたには、為すべきことがある」


 自分とそう歳も変わらぬ若い王女は、ただ未来だけを見据えていた。


「民を想う王族ほど得難いものはないわ。民はきっと、あなたの帰りを待っている」


 遠い遠い故郷。

 雪に閉ざされた冷たい土地。

 母を失った悲しみの国。


 しかし、朝日に映える雪道の美しさ。

 夜空に輝く降るような星々。

 七色に瞬く凍った湖面。

 冷たくも爽やかな風。

 失いたくなかった。

 何を以っても守りたかった。

 そこに住まう優しい人々も、温かな家族も。


 まだ遅くはないのだろうか。

 もっと他に方法があるのだろうか。

 分からないけれど、全てを諦めていた心に、灯台の光が灯った気がした。

 ハルは、そっと立ち上がると、サイラスの手を引きスノウの隣を過ぎった。

 

「…君はもっと、警戒心を持つべきだよ。後悔しても知らないからね」

 

 地上への階段を登り始めても、彼女は追っては来なかった。




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