第百十九話 白紙の物語
扉の向こうは、一面の青空だった。
うららかな春の日差しが暖かく、足元の雲は、真珠のような輝きを放っている。
「おじゃまします」
ひかえめにそう声をかけて、後ろ手に扉を閉めると、扉は徐々に透けていき、ついには跡形もなく消えてしまった。
そして、すぐ傍から、穏やかな声が聞こえてきた。
「いらっしゃい」
驚いてそちらを振り向くと、先ほどまで一面の雲原だったところに、ぽつんとかわいらしいティーテーブルが置かれていた。
そして、向かい合わせに置かれた布張りの椅子には、一人の老人が腰かけていた。
彼は微笑むと、「待っていたよ」とルコットに椅子をすすめた。
ルコットは少々驚いたものの、逆らうことなく彼の正面に座った。
目の前には既にカップとソーサーが準備され、宝石のようなお菓子が並んでいた。
「さて、お嬢さん、コーヒーと紅茶とどちらにするかね」
戸惑いながら「紅茶を」と返答すると、老人は手ずから赤い紅茶をなみなみと注ぎ、砂糖とミルクを添えてくれた。
それから、スコーンとクロテッドクリームをたっぷりすすめてくれる。
しかし、ルコットは柄にもなく焦っていた。
「ありがとうございます。でも、私、早く戻らないと……」
召喚は上手くいったのだろうが、まだ全てが解決したわけではない。
こうしている間にも、ホルガーは一人で女神サーリの猛攻を防いでいるかもしれない。
しかし、老人はのんびりと「心配することはない」と言った。
「地上の時は止めてある。そなたと話しがしたいと思っての」
そうしてほけほけと彼は笑った。
ルコットは迷いを見せたが、結局おずおずとカップをとった。
美味しい紅茶は、少しだけ気持ちを落ち着けてくれた。
「さてと、どこから話そう。わしが何者か、わかるかの?」
「天空神アランテスラさま、でしょうか」
ルコットが答えると、老人は「ばれておったか」とおどけた表情を見せた。
「驚かせようと思ったのだが」
ルコットは「十分驚きましたわ」と苦笑した。
「まさかアランテスラさまが助けてくださるなんて」
すると老人は、「よせよせ」と手を振った。
「わしはただの傍観者じゃ。もはや未来を変える力は備えておらぬ。それは人の子だけに与えられた特権じゃからの」
そう言うと、アランテスラは、ルコットに微笑みかけた。
彼のブルーグレーの瞳は、まるで旧友と対話するかのように親しげだった。
思わずルコットは問いかけた。
「私をご存知なのですか?」
するとアランテスラは満面の笑みで「もちろん」と頷いた。
まるでなにか、胸のすくような愉快なものを思い返しているようだった。
「そなたの行く路は、全てを見通すわしの目にも、まったく予想がつかぬ」
アランテスラの瞳は、過去、現在、そして未来、全てを映すといわれている。それ故に「全てを知る者」と呼ばれているのだ。
その彼に、「予想がつかない」ものなど、本来あるはずがない。何せ、全てを知っているのだから。
しかし彼は、「そうではないのだ」と首を振った。
「確かに、わしは世界の流れを知っておる。人の一生から、木の葉の落ちる瞬間まで、全て。……しかし、その流れは一瞬ごとに変化しておるのだ」
まぁ、少しずつだがの、と彼は言い足した。
「大きな流れの中ではそのような変化など些細なものだ。どれほど枝葉末節が変わろうと大筋は変わらぬ。……そのはずだった。そなたが現れるまではの」
興味深げな視線に射抜かれ、ルコットはたじろいだ。
確かに努力はした。国を救おうと必死になっていたのは事実だ。しかし、努力していたのは何も自分だけではない。
「私にだけ『世界の大筋を変える力がある』なんて、とても信じられませんわ」
正直な感想を口にすると、老人は「まぁ、そうじゃろうな」と笑った。
「しかし、事実なのだ。そもそもな、わしの視てきた歴史では、かの陸軍大将はそなたとの婚姻を断るはずじゃった 」
これには、ルコットも言葉を失った。
彼との婚姻は必然だった。
そのはずだ。
なぜならそれは王命で、自分も彼も、それに逆らうことはできなかったのだから。
そこまで考えたところで、ふとルコットは気づいた。
本当に、そうだったのだろうか、と。
確かに末の王女に婚姻を断る資格はなかっただろう。
しかし、彼なら?
救国の英雄たる彼なら、褒美の婚姻に意見することくらい許されたのではないか。
どうしてこれまで気がつかなかったのだろう。
呆然とするルコットに、アランテスラは頷いた。
「さよう。あやつはそなたとの婚姻を断り、生涯独身を貫くはずだった。強大な力が災いの元になることをよく承知しておったが故の。あやつは軍と王家の結びつきを、内心誰より恐れておった」
ルコットは、アランテスラの言葉を否定できなかった。
いかにも彼らしい考え方だと思った。
「そしてそなたは、王家の縁者に降嫁し、それなりに幸せな生涯を終えるはずじゃった。それが、どうしたことか……」
この世界の命運を変える婚姻は、何故か履行されてしまった。
そうして、これまで白紙だった場所に、新たな物語が紡がれ始めたのである。




