第百十八話 二つの歯車
「それから数千年の間、僕はアランテスラさまの元で過ごした。そして運良く、この体は修行に耐えることができた」
リュクは多くを語らなかったが、それが想像を絶する苦行であったことは間違いない。
その数千年は、にわかには信じがたいものだったが、彼の言葉は全て真実だった。
「そして、修行を終えた僕は、地上へ降りたいと願い出た。彼女に会うために」
しかし、アランテスラは悲しげに眉を寄せ首を振った。
「残念だが、今は許可できぬ」
リュクは戸惑い、珍しく声を荒げた。
その頃にはリュクはこの老人のことを、まるで実の父のように敬愛していた。
そしてアランテスラの方でもリュクを息子のように想っていた。
それ故に、リュクは何故この老人が突然そのようなことを言い出したのか、検討もつかなかったのだ。
「何故そのようなことを仰るのですか! 私が何のために修行に耐えてきたか、ご存知のはずです!」
老人は、困ったように眉を下げたが、しかし首を縦に振ることはなかった。
「ならぬのだ」
「何故です」
リュクの気迫に押され、老人は渋々口を開いた。
「そなたを失い、サーリの魂は変わってしまった。今のあやつと再会してもそなたらは決して幸せにはなれぬ」
それは例えるならば、速度の変わった歯車のようなものだと老人は語った。
「二つの歯車のうち、一方が狂い、めちゃくちゃな速度で回っておる。そなたがそこへ戻ったところで、もはや二つの歯車は噛み合わぬ」
リュクは眉を怒らせかぶりを振った。
「それならば、私が彼女の速度に合わせれば良い話です」
「ならぬと言っておろう」
今度はより強く、老人はたしなめた。
「冷静になれ。狂った歯車が二つになったところでどうなる。二人ともに苦しんで、いつかは世界に弾き飛ばされるのがオチだ」
リュクは息を飲んだ。
そうだ、アランテスラの言葉は正しい。
今の彼女は、かつての彼女ではない。
たとえリュクが生きて眼前に現れても、その事実を受け止めてくれるかどうかさえわからない。
暫しの熟考の後、リュクは再び口を開いた。
「ではせめて、姿と名を変えて、彼女の元へ行かせてください。彼女をなんとか元に戻さなくては……」
これは先ほどの考えよりはよほどましだったが、それでも老人は頷かなかった。
「それもならぬ」
「では、どうすれば」
悲嘆にくれるリュクに、老人はただ一言、こう告げた。
「待つのだ」
全ての事象にはふさわしい時がある。
そして、二人の再会にふさわしい瞬間は、今このときではない。
アランテスラは慈悲深い声でそう言った。
リュクの頬を涙が流れた。
既に数千年の時を待ち続けた。
あらゆる苦しみと時の重さに抗い、それでも生きることを諦めなかったのは、彼女との再会だけが希望だったからだ。
「……それならば、せめて、そのときまで、私を眠らせておいてください」
その希望がない今、リュクの心身は限界を迎えていた。
言いながら意識が少しずつ遠のいていくのがわかる。
アランテスラもそれを感じ取ったのか、若者の体をそっと支えた。
「……良かろう。暫し休め。その時が来れば、わしが起こしてやろう」
リュクは安心したように微笑んだ。
「……ありがとう、ございます」
そしてその言葉を最後に、リュクの意識は途絶えた。
* * *
「あれから、随分長い時が流れたようだね」
彼が一歩を踏み出すと、緑色の波紋が泉を伝い、空気を揺らした。
穏やかな春風のような波紋だった。
彼を中心に、黒いもやが浄化されていくのがわかる。
ホルガーは驚きに目を見張ったが、何より一番に問わねばならないことがあった。
「殿下は、ルコット殿下はどこです」
光の向こうへ消えた彼女は、今どこに。
焦りから口調が荒くなるが、リュクは気にした様子もなく「心配いらないよ」と答えた。
「彼女は無事だ。今頃アランテスラさまと対価の相談をしてるんじゃないかな」
途端にホルガーの表情が曇った。
「……対価」
これだけの大召喚の対価だ。
それも相手は全知全能の神、アランテスラ。
一体どれほどのものを要求されるのか、考えただけで悪寒が走った。
しかしホルガーの心配を感じ取ったリュクは、一足先にもう一度「心配いらないよ」と繰り返した。
「きっと彼が代わりに支払うだろうから」
「彼?」
誰のことを言っているのか。
しかし、ホルガーが問う前に、リュクは「さてと」と手を鳴らした。
「彼女はじきに戻ってくる。その前に、できることをしておかないとね」
何の根拠もない言葉だった。
だが不思議と、ホルガーはルコットの存在をどこかで感じていた。
「……無茶ばかり、される方だから」
気づくと、ホルガーの脳裏には、遠い日の光景が浮かび上がっていた。
あの長い聖堂内を駆け抜ける彼女の姿。
荒れ狂うサフラ湖をたった一人で歩いていく姿。
恐ろしいと足を震わせながら、それでも彼女は、歩みを止めようとはしないのだ。
「俺は隣でその無茶を叶えて差し上げたい」
ホルガーの黒い瞳を、リュクはじっと覗き込んだ。
そして、ふと小さく笑った。
「わかるよ。僕もそうだから」
その笑顔は、まごうことなきかつての彼のものだった。
神となっても、サーリを想うその心は微塵も変わっていないのだ。
「でも、世界を滅ぼすのはさすがにだめだ」
そう言うと、リュクはホルガーの隣にふわりと着地した。
青い森が徐々に消えていく。
そしてその向こうには、真っ黒な積乱雲が広がっていた。
サーリは今その中に閉じこもり、力を蓄えているようだった。
最後の一撃のために。
リュクは眉を寄せ、「困ったね」と苦笑すると、ホルガーへ問いかけた。
「僕たちの再会を手伝ってくれるかい?」
ホルガーは、大剣を持ち上げ、頷いた。
「はい、少々手荒でもよろしければ」
二人はもう一度顔を見合わせると、眼前の雲へ向かって歩き出した。




