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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第五章 南国 エメラルド
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第百十八話 二つの歯車


「それから数千年の間、僕はアランテスラさまの元で過ごした。そして運良く、この体は修行に耐えることができた」


 リュクは多くを語らなかったが、それが想像を絶する苦行であったことは間違いない。

 その数千年は、にわかには信じがたいものだったが、彼の言葉は全て真実だった。


「そして、修行を終えた僕は、地上へ降りたいと願い出た。彼女に会うために」


 しかし、アランテスラは悲しげに眉を寄せ首を振った。


「残念だが、今は許可できぬ」


 リュクは戸惑い、珍しく声を荒げた。

 その頃にはリュクはこの老人のことを、まるで実の父のように敬愛していた。

 そしてアランテスラの方でもリュクを息子のように想っていた。

 それ故に、リュクは何故この老人が突然そのようなことを言い出したのか、検討もつかなかったのだ。


「何故そのようなことを仰るのですか! 私が何のために修行に耐えてきたか、ご存知のはずです!」


 老人は、困ったように眉を下げたが、しかし首を縦に振ることはなかった。


「ならぬのだ」

「何故です」


 リュクの気迫に押され、老人は渋々口を開いた。


「そなたを失い、サーリの魂は変わってしまった。今のあやつと再会してもそなたらは決して幸せにはなれぬ」


 それは例えるならば、速度の変わった歯車のようなものだと老人は語った。


「二つの歯車のうち、一方が狂い、めちゃくちゃな速度で回っておる。そなたがそこへ戻ったところで、もはや二つの歯車は噛み合わぬ」


 リュクは眉を怒らせかぶりを振った。


「それならば、私が彼女の速度に合わせれば良い話です」

「ならぬと言っておろう」


 今度はより強く、老人はたしなめた。


「冷静になれ。狂った歯車が二つになったところでどうなる。二人ともに苦しんで、いつかは世界に弾き飛ばされるのがオチだ」


 リュクは息を飲んだ。

 そうだ、アランテスラの言葉は正しい。

 今の彼女は、かつての彼女ではない。

 たとえリュクが生きて眼前に現れても、その事実を受け止めてくれるかどうかさえわからない。

 暫しの熟考の後、リュクは再び口を開いた。


「ではせめて、姿と名を変えて、彼女の元へ行かせてください。彼女をなんとか元に戻さなくては……」


 これは先ほどの考えよりはよほどましだったが、それでも老人は頷かなかった。


「それもならぬ」

「では、どうすれば」


 悲嘆にくれるリュクに、老人はただ一言、こう告げた。


「待つのだ」


 全ての事象にはふさわしい時がある。

 そして、二人の再会にふさわしい瞬間は、今このときではない。

 アランテスラは慈悲深い声でそう言った。


 リュクの頬を涙が流れた。

 既に数千年の時を待ち続けた。

 あらゆる苦しみと時の重さに抗い、それでも生きることを諦めなかったのは、彼女との再会だけが希望だったからだ。


「……それならば、せめて、そのときまで、私を眠らせておいてください」


 その希望がない今、リュクの心身は限界を迎えていた。

 言いながら意識が少しずつ遠のいていくのがわかる。

 アランテスラもそれを感じ取ったのか、若者の体をそっと支えた。


「……良かろう。暫し休め。その時が来れば、わしが起こしてやろう」


 リュクは安心したように微笑んだ。


「……ありがとう、ございます」


 そしてその言葉を最後に、リュクの意識は途絶えた。



* * *



「あれから、随分長い時が流れたようだね」


 彼が一歩を踏み出すと、緑色の波紋が泉を伝い、空気を揺らした。

 穏やかな春風のような波紋だった。

 彼を中心に、黒いもやが浄化されていくのがわかる。


 ホルガーは驚きに目を見張ったが、何より一番に問わねばならないことがあった。


「殿下は、ルコット殿下はどこです」


 光の向こうへ消えた彼女は、今どこに。

 焦りから口調が荒くなるが、リュクは気にした様子もなく「心配いらないよ」と答えた。


「彼女は無事だ。今頃アランテスラさまと対価の相談をしてるんじゃないかな」


 途端にホルガーの表情が曇った。


「……対価」


 これだけの大召喚の対価だ。

 それも相手は全知全能の神、アランテスラ。

 一体どれほどのものを要求されるのか、考えただけで悪寒が走った。

 しかしホルガーの心配を感じ取ったリュクは、一足先にもう一度「心配いらないよ」と繰り返した。


「きっと彼が代わりに支払うだろうから」

「彼?」


 誰のことを言っているのか。

 しかし、ホルガーが問う前に、リュクは「さてと」と手を鳴らした。


「彼女はじきに戻ってくる。その前に、できることをしておかないとね」


 何の根拠もない言葉だった。

 だが不思議と、ホルガーはルコットの存在をどこかで感じていた。

 

「……無茶ばかり、される方だから」


 気づくと、ホルガーの脳裏には、遠い日の光景が浮かび上がっていた。

 あの長い聖堂内を駆け抜ける彼女の姿。

 荒れ狂うサフラ湖をたった一人で歩いていく姿。

 恐ろしいと足を震わせながら、それでも彼女は、歩みを止めようとはしないのだ。


「俺は隣でその無茶を叶えて差し上げたい」


 ホルガーの黒い瞳を、リュクはじっと覗き込んだ。

 そして、ふと小さく笑った。


「わかるよ。僕もそうだから」


 その笑顔は、まごうことなきかつての彼のものだった。

 神となっても、サーリを想うその心は微塵も変わっていないのだ。


「でも、世界を滅ぼすのはさすがにだめだ」


 そう言うと、リュクはホルガーの隣にふわりと着地した。

 青い森が徐々に消えていく。

 そしてその向こうには、真っ黒な積乱雲が広がっていた。

 サーリは今その中に閉じこもり、力を蓄えているようだった。

 最後の一撃のために。


 リュクは眉を寄せ、「困ったね」と苦笑すると、ホルガーへ問いかけた。


「僕たちの再会を手伝ってくれるかい?」


 ホルガーは、大剣を持ち上げ、頷いた。


「はい、少々手荒でもよろしければ」


 二人はもう一度顔を見合わせると、眼前の雲へ向かって歩き出した。




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