第百十七話 リュクの真実
一陣の風がざっと吹き抜け、彼のフードを落とす。
その容顔があらわになった。
ホルガーは静かに息を飲む。
そこに立っていたのは、ただのひとりの青年だった。
とても幾星霜の年月を生きた人物には見えない。
優しげなすっきりとした面差し。
すらりとした体躯。
長い髪と同色の、深いダークブラウンの瞳には、どこか彼女の面影があった。
彼は、遠い昔を思い出すように、静かに口を開いた。
「あの日」
あの雪原の別れの日。
「どんどん体が冷たくなっていくのがわかった。僕はもうここまでだと、そう悟った。戦場に出た時から覚悟はしていたはずだった。……しかし、いよいよのとき、僕はこう思ってしまった」
――あぁ、心残りだ。
遺していく彼女のことが。
まだ幼い息子のことが。
できることなら、二人の前途を見守っていたかった。
そして、そう願ってしまった瞬間、暗転しかけていた世界が、突然白く染まったのだ。
「何が起こったのか、わからなかった。気づくと僕は、空の上にいたんだ。胸の銃創も、跡形もなく消えていた」
リュクはそっと起き上がり、それから周囲を見回した。しかしどこにも彼女の姿はない。
「サーリ!」
大声で叫ぶ。
しかし、声はどこにも届かない。
空の青さと雲の白さの間をまるで風のように抜けていってしまった。
立ち上がり、歩き始める。
雲の上は暖かく、羽のように柔らかく、それでいてまるで大理石の上を歩くような足音が響いた。
初めはためらいがちに、徐々に早足に、そしていつのまにか、リュクは駆け出していた。
走りながら、周囲を見回し呼び続ける。
「サーリ! サーリ……!」
しかし、彼女の姿どころか、人影ひとつ見当たらなかった。
どこまでも延々に白い雲と青い空が続いている。
とうとう、リュクは息を切らして立ち止まった。
「……ここは、どこなんだ」
これまで生きてきた世界でないことはわかる。
しかし、なぜ自分がここにいるのか、そもそも自分は生きているのか、それすらわからなかった。
「……僕は死んでしまったんだろうか」
ここは死後の世界なのだろうか。
呟いた、そのとき。
すぐ傍から、深い森のような声が聞こえてきた。
「そう思うかね」
その声を聞いた瞬間、リュクは全てを悟った。
何故なら、彼の声は全てに通じ、全ての言葉の意味を備えていた。
「あなたが、助けてくださったのですね」
リュクの言葉と同時に、眼前に白い男が現れた。
まるで大樹のような香りを纏った老人だった。
彼は静かな微笑みを浮かべた。
「さよう。おぬし、わしが何者か分かるか」
リュクは小さく頷いた。
「……天空神、アランテスラさま」
全ての始まり。
そして、全ての終わりを司る最高神。
老人は微笑みのまま頷いた。
「人の子はわしをそう呼んでおるな」
リュクは不思議な気持ちだった。
計り知れない力を前に、少しも恐れを感じないのだ。
「私のことを、見ていらっしゃったのですか」
問うた後、それが愚問であると気がついた。
アランテスラは全てを見、全てを聞き、全てを知る神だ。
しかし彼は、気を悪くした風もなく答えた。
「もちろん見ていた。そなたのことも、我が娘、サーリのことも」
その名を聞き、リュクは苦しげに眉を寄せた。
「……申し訳ありません。僕は、彼女を一人に」
結局幸せにすることができなかった。
そう言うと、アランテスラは首を振った。
「そうはさせぬ。そのために、そなたをこの地へ匿ったのだ」
そこへきて、もう一度リュクは辺りを見回した。
「ここはどこなのですか?」
「ここはわしの私室のようなものだ。この心に通じ、同時にあらゆる世界に通じておる。それでいて、神々さえ自由に行き来することはできぬ。この世で最も閉ざされた空間でもある」
彼の言うことは難解だったが、要するに、ここは安全だということだろう。
「ここで力を蓄えよ。わしはそなたを人の理から外した。もはやそなたは人として有限の時を生きることは叶わぬ。神の勝手を、そなたは恨むか」
アランテスラの問いにリュクは首を振った。
「いいえ。感謝いたします」
それはリュクの心からの言葉だった。
永遠を望んだことはなかったが、同時にそれを疎んじたこともなかった。
もし彼女が永遠を生きねばならないなら、その孤独を分け合うことに何の抵抗もなかった。
ともに生きられるなら、それ以上望むものなど何もない。
リュクの答えに、しかしアランテスラはため息をついた。
「そなたは慎重にならねばならぬ」
永遠の時の重みを想像したことがあるか。
数々の誘惑に打ち克つ覚悟はあるか。
全てに置き去りにされる虚しさにどう向き合うか。
「そなたは知らぬことが多すぎる。これまでは、それでよかった。しかし、これからは、それを学んでゆかねばならぬ」
それは、世界の理を学ぶに等しい。
その膨大な情報を一から頭に入れ、想像を絶する困難に立ち向かい、痛みに耐えていかねばならない。
「できるか?」
問いながら、それがあまりに酷な問いだとアランテスラにはわかっていた。
そもそも時の重みに人の子が耐えられるはずがない。
十中八九学びのうちに正気を失ってしまうだろう。
しかし、あの状況ではこうするより他に手がなかったのだ。
生存の可能性を「無」から「不可能」に微かに引き上げたに過ぎない。
アランテスラの白い顔に、暗い影がさした。
しかし、リュクは場違いなほど明るい声で即答した。
「はい、できます」
アランテスラが驚いて顔を上げると、青年のまっすぐな瞳が自分を映していた。
困難がわかっていないのか。
この先自分を待ち受けている苦しみに気づいていないのか。
否、そんなはずはない。
彼が愚かな男でないことは、アランテスラもよく承知していた。
では、何故。
「そなた、恐ろしくはないのか?」
思わず溢れたアランテスラの呟きに、リュクはまた即答した。
「何も恐ろしくありません。僕が恐れるのは彼女の悲しみだけです。それを取り除くためなら、何だってしてみせます」
こうして、リュクは神の末席となった。




