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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第五章 南国 エメラルド
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第百十六話 召喚


 ルコットはそっと両手を組んでその場に跪いた。

 途端に彼女の姿が、ぼうっと白く光り始める。

 その佇まいはまるで、月夜に浮かび上がる白い花のようだった。


「……誰か()聞いて(ピムラ)この声を(ピムア)聞いている誰か(ンワール)


 通常、召喚魔法は、契約している精霊や神へ呼びかけるところから始まる。

 しかしルコットの場合、そのような依り代がない。

 したがって、こうして「誰か」に呼びかける他、方法がないのである。

 鬼が出るか蛇が出るか。

 正に一世一代の大博打だった。

 もし邪神が応えた場合、ルコットの魂は如何様にもされてしまう。

 しかし彼女は少しも恐ろしくはなかった。

 淡い輝きを放つ指輪を握りしめ、ただ一心に祈り続ける。


「世界中の窓を開け、この名を問いかける。我が求めるものの名はリュク。風を吹かせ、波に乗せ、この声を届けよ」


 なるべくはっきりと、脳内にイメージを思い浮かべる。

 時空を超えて、世界中に吹き渡る暖かな風を。

 大海を渡り広がっていく、どこまでも自由な波の姿を。


「ここに、待ち人あり。悠久の時を経て、今再会を望まん」


 ルコットは、跪いた状態で、宙空に手をついた。

 すると、空気が一瞬波紋のように揺れ、そこからまるで泉のように清水が湧き出した。

 水の染み出す静謐な音が周囲にこだまする。

 そして、瞬きほどの間に、泉から、青い森が広がっていった。

 ホルガーが驚いて周囲を見回す。

 すると白い小鳥たちが泉から現れ、空の彼方へと飛び立っていった。


(あの鳥は……使い魔か。そしておそらくここは、殿下の作り出した召喚陣……)


 幻だとわかっていても信じられない。視覚にも聴覚にも嗅覚にも、そこは森そのものだった。

 そのとき、二人の耳に、地に響くような声が聞こえてきた。


――して、汝の代償は?


 敵なのか味方なのかもわからない。

 わかるのは、人の摂理を超えた、何か強大なものが彼女の呼びかけに応えたということだ。

 ホルガーは周囲を警戒し、大剣を握り直す。

 しかしルコットは、たじろぐ様子一つ見せずに答えた。


「何なりと、望むものを差し上げます」


 これにはホルガーも口を挟まずにはいられなかった。


「殿下……!」


 しかし、既に後の祭り。

 声の主は「承知した」と答え、周囲に竜巻のような風が起こった。

 森の木々が激しく揺れ、目を開けていることさえ難しい。

 ホルガーは急いでルコットの方へ手を伸ばした。


「捕まってください! 殿下!」


 しかしルコットは、淡く微笑むと小さく首を振った。

 それから、音もなく立ち上がると、泉の中央へと歩いていく。


「待ってください! どこへ行くのですか! 殿下!」


 ホルガーの声が嵐の合間に届く。

 その声が聞こえる限り、ルコットには恐れるものなど一つもなかった。


 泉の上を歩く。

 一足進むごとに、水面に波紋が広がった。

 とうとう泉の中央へ至ったとき、世界に、緑色の風が吹いた。

 まるで世界そのものが彼女を受け入れたかのようだった。


 花水晶の指輪が、その輝きを増していく。

 触れると、まるで太陽のような温かさをルコットに伝えた。

 静かに、目を閉じる。

 彼女の耳にはもはやどんな音も届かない。

 見つめるのは、深い心の内にある、魔力の根源――全てに通じる所。

 その場所を知っているのは、ごく一部の魔術師だけ。

 そして長い魔術史の中で、その地に至れたのは、大魔術師ハント=ジュエルローゼだけだといわれていた。

 ルコットはほとんど無意識のうちにその地を探し、そして、招かれたのである。


――お入り。


 穏やかな声だった。

 トンネルの奥から、扉の向こうから、そんな声が聞こえてくる。

 ルコットは迷わなかった。

 そこに危険がないことを彼女は知っていた。

 


* * *



 ルコットが光の向こうに消えてしまうと、世界が三度脈打った。

 ホルガーは岸辺に大剣を突き刺し、その衝撃に耐える。


 緑色の波動が木々を揺らし、波立つ泉の中央に光の柱が立ち上った。

 空気が脈打ち、ビリビリという振動が肌を刺す。

 光が渦巻きながら天に達すると、まるで弓が黒雲を貫くように、暗黒の空が切り裂かれた。

 壮観だった。

 暗い世界を巨大な光の柱が照らしていく。

 ホルガーは言葉を失い、その柱が徐々に細くなっていくのを見守った。

 そのとき、不思議な声が聞こえた。


――誰だい。


 頭の中に響くような声だった。

 ホルガーは必死で目を凝らした。

 すると光の中に、微かな人影が浮かび上がってきた。

 灰色の長衣で全身を覆い、長い髪を肩に垂らしている。


 その間も光は見る間に和らいでいき、辺りは再び暗い森へと戻った。

 しかし何故か、その人物の周りだけは、まるで月光に照らされてでもいるかのように、薄ぼんやりと明るく見えた。

 フードに隠された口元が、再び動く。


「……ずいぶん長い間、眠っていた気がする」


 そこにきてようやく、ホルガーはかなしばりが解けたように身動きが取れるようになった。

 問うのではなく、ただ確認をするために、その人物へ声をかける。


「リュクさん、ですか」


 するとその人物は、微かに首を傾げて問い返した。


「君かい? 僕を呼んでいたのは」


 しかしホルガーが答える前に、彼は「いや、違うね」と首を振った。


「君じゃない。それじゃあ、君は誰なんだい? それに、僕を呼び続けていたのは誰?」


 ホルガーは、戸惑いながらも口を開いた。


「……俺も、聞きたいことがあります」


 ホルガーの問いを促すかのように男は黙る。

 穏やかな沈黙に背を押され、ホルガーは問いかけた。


「あなたは、今も生きているのですか?」


 男は、フードの下で微かに微笑んだ。





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