第百十六話 召喚
ルコットはそっと両手を組んでその場に跪いた。
途端に彼女の姿が、ぼうっと白く光り始める。
その佇まいはまるで、月夜に浮かび上がる白い花のようだった。
「……誰か、聞いて。この声を聞いている誰か」
通常、召喚魔法は、契約している精霊や神へ呼びかけるところから始まる。
しかしルコットの場合、そのような依り代がない。
したがって、こうして「誰か」に呼びかける他、方法がないのである。
鬼が出るか蛇が出るか。
正に一世一代の大博打だった。
もし邪神が応えた場合、ルコットの魂は如何様にもされてしまう。
しかし彼女は少しも恐ろしくはなかった。
淡い輝きを放つ指輪を握りしめ、ただ一心に祈り続ける。
「世界中の窓を開け、この名を問いかける。我が求めるものの名はリュク。風を吹かせ、波に乗せ、この声を届けよ」
なるべくはっきりと、脳内にイメージを思い浮かべる。
時空を超えて、世界中に吹き渡る暖かな風を。
大海を渡り広がっていく、どこまでも自由な波の姿を。
「ここに、待ち人あり。悠久の時を経て、今再会を望まん」
ルコットは、跪いた状態で、宙空に手をついた。
すると、空気が一瞬波紋のように揺れ、そこからまるで泉のように清水が湧き出した。
水の染み出す静謐な音が周囲にこだまする。
そして、瞬きほどの間に、泉から、青い森が広がっていった。
ホルガーが驚いて周囲を見回す。
すると白い小鳥たちが泉から現れ、空の彼方へと飛び立っていった。
(あの鳥は……使い魔か。そしておそらくここは、殿下の作り出した召喚陣……)
幻だとわかっていても信じられない。視覚にも聴覚にも嗅覚にも、そこは森そのものだった。
そのとき、二人の耳に、地に響くような声が聞こえてきた。
――して、汝の代償は?
敵なのか味方なのかもわからない。
わかるのは、人の摂理を超えた、何か強大なものが彼女の呼びかけに応えたということだ。
ホルガーは周囲を警戒し、大剣を握り直す。
しかしルコットは、たじろぐ様子一つ見せずに答えた。
「何なりと、望むものを差し上げます」
これにはホルガーも口を挟まずにはいられなかった。
「殿下……!」
しかし、既に後の祭り。
声の主は「承知した」と答え、周囲に竜巻のような風が起こった。
森の木々が激しく揺れ、目を開けていることさえ難しい。
ホルガーは急いでルコットの方へ手を伸ばした。
「捕まってください! 殿下!」
しかしルコットは、淡く微笑むと小さく首を振った。
それから、音もなく立ち上がると、泉の中央へと歩いていく。
「待ってください! どこへ行くのですか! 殿下!」
ホルガーの声が嵐の合間に届く。
その声が聞こえる限り、ルコットには恐れるものなど一つもなかった。
泉の上を歩く。
一足進むごとに、水面に波紋が広がった。
とうとう泉の中央へ至ったとき、世界に、緑色の風が吹いた。
まるで世界そのものが彼女を受け入れたかのようだった。
花水晶の指輪が、その輝きを増していく。
触れると、まるで太陽のような温かさをルコットに伝えた。
静かに、目を閉じる。
彼女の耳にはもはやどんな音も届かない。
見つめるのは、深い心の内にある、魔力の根源――全てに通じる所。
その場所を知っているのは、ごく一部の魔術師だけ。
そして長い魔術史の中で、その地に至れたのは、大魔術師ハント=ジュエルローゼだけだといわれていた。
ルコットはほとんど無意識のうちにその地を探し、そして、招かれたのである。
――お入り。
穏やかな声だった。
トンネルの奥から、扉の向こうから、そんな声が聞こえてくる。
ルコットは迷わなかった。
そこに危険がないことを彼女は知っていた。
* * *
ルコットが光の向こうに消えてしまうと、世界が三度脈打った。
ホルガーは岸辺に大剣を突き刺し、その衝撃に耐える。
緑色の波動が木々を揺らし、波立つ泉の中央に光の柱が立ち上った。
空気が脈打ち、ビリビリという振動が肌を刺す。
光が渦巻きながら天に達すると、まるで弓が黒雲を貫くように、暗黒の空が切り裂かれた。
壮観だった。
暗い世界を巨大な光の柱が照らしていく。
ホルガーは言葉を失い、その柱が徐々に細くなっていくのを見守った。
そのとき、不思議な声が聞こえた。
――誰だい。
頭の中に響くような声だった。
ホルガーは必死で目を凝らした。
すると光の中に、微かな人影が浮かび上がってきた。
灰色の長衣で全身を覆い、長い髪を肩に垂らしている。
その間も光は見る間に和らいでいき、辺りは再び暗い森へと戻った。
しかし何故か、その人物の周りだけは、まるで月光に照らされてでもいるかのように、薄ぼんやりと明るく見えた。
フードに隠された口元が、再び動く。
「……ずいぶん長い間、眠っていた気がする」
そこにきてようやく、ホルガーはかなしばりが解けたように身動きが取れるようになった。
問うのではなく、ただ確認をするために、その人物へ声をかける。
「リュクさん、ですか」
するとその人物は、微かに首を傾げて問い返した。
「君かい? 僕を呼んでいたのは」
しかしホルガーが答える前に、彼は「いや、違うね」と首を振った。
「君じゃない。それじゃあ、君は誰なんだい? それに、僕を呼び続けていたのは誰?」
ホルガーは、戸惑いながらも口を開いた。
「……俺も、聞きたいことがあります」
ホルガーの問いを促すかのように男は黙る。
穏やかな沈黙に背を押され、ホルガーは問いかけた。
「あなたは、今も生きているのですか?」
男は、フードの下で微かに微笑んだ。




