第百十五話 万年の孤独
そこは、一寸先も見えない暗闇だった。
「何故?」とサーリは首をかしげる。
リュクは? 息子は? 村の人々は?
皆どこへ行ったのだろう。
ここは家ではないのだろうか。
「リュク? 皆どこだ?」
恐る恐る足を踏み出し、周囲を見回す。
しかしそこには誰もいない。
何もない。
自分の他には、何も。
「リュク、リュク、どこだ」
暗闇に、自分の声と足音だけが響く。
応える者も、誰かの気配も感じない。
たまらなくなって、サーリは駆け出した。
「リュク……リュク!」
果てのない暗闇を走りながら、サーリは何度も何度も彼の名前を呼ぶ。
あの優しい声を探して。
* * *
サーリの様子が変わった。
赫い瞳が突如、墨のような黒に染まる。
それまで整然としていた攻撃が、徐々に荒々しいものへと変わっていった。
一撃の威力が桁違いに跳ね上がる。
ホルガーが避けた一撃が、地表に落ち、その爆風が二人の服を激しく揺らした。
「殿下、大丈夫ですか」
「問題ありませんわ」
ホルガーは顔を上げ、迫りくる雷撃を再び回避する。
しかし今度は一撃だけではなかった。
次々と大槍の突きが繰り出され、絶え間なく雷撃が降り注ぐ。
ホルガーはルコットを抱える手を強めた。
「殿下。掴まっていてください」
ホルガーは、一分の隙もなく繰り出される攻撃の間を、針の穴に糸を通すようにかわす。
すると今度は、周囲の暗雲が鋭い刃へと変わり二人に襲いかかってきた。
ルコットは、指輪にそっと触れると口の中で呟く。
「守りたまえ、虹色の珠」
瞬間、二人の周囲に虹色の膜が現れ、激しい火花を散らし、刃を弾き落とした。
その間、ルコットの視線はサーリに据えられたまま。
自我さえ失ってしまった暗黒の瞳の奥を、じっと見つめている。
サーリは、飛び道具が効かないことを見て取ると、再び激しい大槍の嵐を繰り出した。
ホルガーはまたそれを避ける。無駄のない身のこなしだったが、こちらに彼女を傷つける意思がない以上、防戦一方だった。
そのとき、ふとルコットが口を開いた。
「……どれほど寂しい時間だったのでしょう」
ホルガーが驚いて目を向けると、ルコットは静かな表情でサーリを見つめていた。
「愛を知ってしまった後の孤独は、きっと深い暗闇ですわ」
安い同情ではない。憐憫でもない。
ただその事実を、彼女の孤独をなぞろうとしているかのようだった。
理解などできるはずもない。
想像も及ばない。
そんな悠久の孤独を、それでもルコットはその心で追いかけようとしていた。
「……万年の孤独の重みは、私にはわかりませんわ」
わかりたくとも、そもそも生きている時の長さが違う。
「それでも、目の前のサーリさまがとても苦しんでいることはわかります」
ルコットの瞳に強い光が宿った。
「ホルガーさま、私は、サーリさまを助けたいです」
ホルガーはあっけにとられた。
神を助けたいとは。
それも、今まさに世界を滅ぼさんとしている戦神を。
多くの人は不遜を通り越して愚かだと言うだろう。
事実そうなのかもしれない。
しかし、ルコットの願いを聞いたホルガーの胸には、明らかな炎が灯った。
「……はい」
愚かでもいい。
険しい道でも構わない。
彼女のこの優しさを守れるのなら。
「ご指示を、殿下」
ホルガーの返答に、ルコットは真剣な面持ちで頷いた。
* * *
ルコットには、ある考えがあった。
とはいえ、策と呼ぶにはあまりに不確定な要素の多い、博打のようなものだったが。
少なくとも、彼女を救うための活路はこれしかない。
「……召喚魔法を、使いますわ」
ホルガーは息を飲む。
隠しきれない躊躇いの沈黙が、場を支配した。
召喚魔法は、禁術とも呼ばれる高等魔法だ。
どんな手練れの召喚魔術師でも、一歩間違えば命を落とす。
ましてルコットは、召喚専門の魔術師ではない。
その上、二人分の質量を空に浮かした状態だ。割かれている集中力も並のものではない。
さらに、もう既に多くの魔力を使ってしまっている。いくら空気中から魔力を生成したところで、消費に追いつくはずもなかった。
こんな万全とは言い難い状態で、彼女は禁術を行おうとしている。
ホルガーは迷った。
どう考えてもリスクが大きすぎる。
魔術に詳しくないホルガーでも、その危険さは軍内で何度も聞いていた。
止めるべきだと頭ではわかっている。
本当なら、安全なところから、この戦いを見守っていてほしい。それならば自分は、何を犠牲にしても彼女だけは守り通してみせる。
(……しかしそれでは、きっと意味がない)
それでは、彼女の意思は守れない。
彼女の望みはただ一つ、サーリも、世界も、その美しい瞳に映るもの全てを、救うことなのだから。
「……俺は、殿下を信じています」
ホルガーの答えに、ルコットの瞳が、星を散らしたように輝いた。
顔中に広がるのは、遠いあの日、聖堂を駆け抜けた彼女が浮かべた微笑と同じもの。
「私も、ホルガーさまの信じてくださる私を、信じていますわ」




