第百十三話 ならば私は愛のために
「……私は、許せなかった」
優しい彼にあんな最期を与えた世界が。
あんなにも彼に救われておきながら、彼の命を奪った人間が。
「故に私は、諸国の戦を次々制圧し……人の子の魔力を奪った」
愚かな人間が、再び争い合う気を起こさぬように。
「それから、彷徨うように諸国を放浪した」
彼と暮らした家が気にならなかったわけではない。
しかし、あの懐かしい村人たちに会うとき、自分は何を思うのだろう。
それを考えると、あの村に戻る気にはなれなかった。
ただ、たまらなく気がかりだったのは、あの子――可愛い我が子だ。
会いたい。
また共に暮らしたい。
いっそのこと、夜間にでも迎えに行き、共に諸国を巡ろうか。
何度そう考えたか知れない。
しかし、リュクの忘れ形見に人の世を捨てさせる――それだけは、どうしてもできなかった。
「何千年そうしていたか。人々の服装が変わり、街並みが変わり、地形までもが変わっていった。その間も人の争いは絶えなかった」
魔力を失ってもなお争い続ける人々。
サーリはとうとう、決意した。
人の世を滅ぼしてしまおうと。
「……その、つもりだったのだ。しかし」
そのときサーリの前に現れたのは、半神である我が子だった。
「……あの子はこう言った」
――大国を一つお創りください。私が、その地を治めます。皆がこれ以上不要な争いを繰り返し、皆が傷つくことがないように。
それが、数千年越しの我が子との会話だった。
幼かったあの子は、リュクによく似た、優しげな瞳を持つ青年に育っていた。
期待したわけではない。
しかし、リュクに似たこの子ならあるいは――そうどこかで思ってしまった。
こうして、世界に誇る軍事大国、フレイローズが誕生した。
* * *
「しかし結局、争いは消えなかった。そう仰りたいんですね」
ホルガーの言葉にサーリは頷いた。
「そうだ。故に私は人を滅ぼす。どれほど忍耐を重ねても、貴様らは変わらず醜く愚かだった」
サーリの緋い瞳から温度が消える。
「私がこの手で人間を消し、もう一度、世界をやり直す」
こんな理不尽と不条理の世界など、いらぬ。
身勝手で卑怯な人間の世界など、我慢ならぬ。
サーリはうわごとのように呟いた。
ルコットはそれを黙って聞いていた。
何かを静かに考えているようだった。
とうとう、サーリが片手を振りかざした、そのとき、ルコットはようやく一言だけ、言葉をこぼした。
「……それは違うと、感じますわ」
いつになく静かな言葉だった。
彼女の口から「違う」という言葉が出てきたことに、ホルガーは内心驚く。
大抵のことは受け入れる彼女が、初めて何かを訴えようとしていた。
ルコットは、自分の気持ちを探るように、慎重に言葉を続けた。
「うまく、言えないのですが……サーリさまが人間を滅ぼしたい理由は、本当に、私たちの愚かさに絶望したからなのでしょうか」
サーリは微かに目を見開き、「何?」と手を下げる。
彼女に促され、ルコットは意を決したように告げた。
「……愛する人を失った悲しみのため。そんな風に見えるのです」
サーリはしばし呆然とルコットを見つめた。
それから口の中で「愛、愛……」と何度もその言葉を転がす。まるで何かを確かめようとしているかのように。
そしてとうとう、こう呟いた。
「……残念だが、私は愛など知らぬ。何故なら、私には心がない」
今度はホルガーが「……そうでしょうか」と控えめに問いかけた。
自問するかのような、静かながら内に響く声だった。
「あなたのそれは……幾星霜の時を経ても変わらない、とても眩しい愛に見えます」
ルコットもそっと頷く。
「私も、あなたに心がないとは思えません」
神としての自分の居場所を捨て、人の世に身を置いたのは。
唯一の人を奪われても、世界を滅ぼさなかったのは。
我が子への想いを捨てきれていないのは。
全て、心故のこと。
もし彼女が本当に、この世界に絶望しているなら、この世界はとっくの昔に終わっていただろう。
我が子の言葉にだって、耳を傾けることはなかったはずだ。
「ですから私は、サーリさまが本当に、世界に絶望されているとは思えないのです」
彼女は、最愛の人を失い、悲しみに沈みながら、それでも希望を捨てきれずにいたのではないか。待っていたのではあるまいか。
いずれ、彼が目指した平和な世界がやってくるそのときを。
「あなたがこの世界を否定するのは、絶望のためなんかじゃない。悲しみに、耐えられないから。愛する人がここにいない悲しみに。愛する人の望みが、どうしたって叶えられない悲しみに」
ルコットの茶色い瞳を、サーリは食い入るように見つめた。
「……全ては、あなたの愛のためですわ」
心が愛を生み、愛が悲しみを生んだ。
気の遠くなるほど悩み続けた胸の絡まりが、ようやく一本の線になるような気がした。
サーリの眉間のシワが薄くなる。
何かが吹っ切れたような、憑き物が落ちたかのような、そんな表情だった。
「……そうか、そうだったのか」
同じ愛を返せないと悩みながら、本当は、同じだけの愛を返せていたのか。
心がわからぬと悩みながら、この胸には、彼と同じ心が、あったのか。
しばらくの沈黙の後、サーリはようやく一言だけ、こう呟いた。
「……それを、あやつに、伝えてやりたかった」
そして、一度下ろした手を、もう一度掲げた。
その手の先に、光が集まる。
光は徐々に実体化し、幾ばくもたたないうちに、それは一本の巨大な槍になった。
サーリは感触を確かめるように、その槍を握る。
それから、まっすぐに、眼前の二人に視線を向けた。
「……わかった」
発された言葉は穏やかで、そこには、先ほどまではなかった明確な意思があった。
「……ならば私は愛のために、この世界を滅ぼそう」




