第百十二話 雪白
その日は、一面銀世界だった。
全てが白く覆われた湖で、サーリは水浴びをしていた。
「今ほど君が人間じゃないって意識したことはないよ」
そう言って、両手を温めながらリュクは笑う。
「だから見張りは必要ないと言っただろう。テントで温まっておけ」
澄んだ水に身を浸しながら、サーリはごちた。
金色の髪が、銀色の湖に美しく映える。
澄んだ清水は彼女の神性に心地よいのか、綺麗な泉を見つけてはこうして沐浴をしていた。
寒さは感じないらしい。
人間離れしていたが、それでもリュクは、決して彼女を一人で行かせることはなかった。
「まぁ、そう言わないで。君とこの景色を一緒に見たかったんだ」
それはどこまでも平和で穏やかな朝だった。
静謐な水音。
明るい朝日。
輝く雪。
こんな日は久しぶりだとリュクは目を細めた。
「ねぇサーリ。次に生まれてくるなら、こんな、平和な世界だったらいいね。……それで、もう一度、君と出会って、今度こそ、君を幸せにしたい」
何をいうのかと、サーリは目を丸くした。
「突然そんなことを言い出すなんて、今日のリュクは変だ」
リュクは低く笑うと、「そうだね」と空を見上げた。
「でもね、サーリ、これだけは今、言わせてほしい。僕は本当に幸せだったんだ。魔術医になって、たくさんの人を治療して、君に出会って……今こうして、もっと多くの人を助けられている。……これこそ、僕が生まれてきた理由だったんだと、思うんだよ」
様子がおかしいと、サーリが立ち上がりかけた、そのとき――高い銃声が、白い湖面に響き渡った。
それは、聞き慣れた、ありふれた、銃声だった。
サーリが驚いて振り返ると、銃を持った男が、遠くの木立で呆然とし、気がついたように逃げ出した。
そして、彼とサーリの間には、リュクが静かに横たわっていた。
「……リュク、……リュク!!」
頭が状況を理解するより先に、足が勝手に動きだす。
雪原に倒れる彼の元へ。
リュクは、サーリの姿を見とめると、満足げに笑った。
「……無事だったか。よかった」
サーリは、倒れ込むようにリュクの傍に膝をつく。
真っ白の雪の中に横になる彼は、驚くほど美しく見えた。
サーリは、茫然と呟いた。
「……なぜ、私を庇ったんだ。私は、撃たれても死なないのに」
リュクは小さく首を振ると、ぎこちない笑みを浮かべた。
「……だめ、だよ。君は、女の子、なんだから」
その瞬間、サーリの頬にいくつもの水滴が流れた。
それが涙であることに気づかないまま、サーリは「なぜ、なぜ」と問い続ける。
「なぜ、お前が撃たれなければならない」
あれほど人を愛し、人を救い続けた彼が。
「なぜお前はそんなにも満ち足りた顔をしている」
これほど若く命を終えようとしているのに。
「なぜ、私の胸は、こんなにも、苦しい」
リュクは小さく笑うと、そっと手の甲でサーリの頬を撫でた。
「……それが、心というものだよ」
彼の手の温かさが伝わってくる。
サーリは縋るようにその手を取ると、茫然としたまま呟いた。
「……私には、そんなもの、備わっていない」
それを聞くと、リュクは、かつてのように笑った。
「……いいや、君は……とても、豊かな心を持った……」
途中で、彼は小さく咳き込んだ。
もう喋るなと首を振るサーリの顔を、リュクは優しい表情で見上げた。
「……君に、出会えて良かった。僕の人生が満ち足りていたのは……君のおかげだよ、サーリ。君が、僕に、たくさんのものを、与えてくれたんだ」
サーリには、わからなかった。
着るものも食べるものも住むところも、全て彼に与えられたものだった。
自分から与えたものなど一つもない。
否――ひとつだけ、あるとするなら。
「あの子は……あの子は、どうすればいい。人の心を持たない私が」
人の心を知らない自分が、たった一人で人の子を育てるなんて。
できるはずがない。
きっと、あの子の、リュク譲りの優しい心を損なってしまう。
しかしリュクは穏やかに、「大丈夫だよ」と笑った。
「君は、とてもいいお母さんだから。……でも、苦労をさせてしまう、ことが、心配だ」
徐々に声が細くなっていく。
まるで眠るように瞼が閉ざされていく。
睫毛に雪が落ちたそのとき、リュクは、最後の言葉を口にした。
「……今まで、本当に、ありがとう。……いつかまた、君に会いたいな」
瞬間、彼の体が、まるで雪に溶けるように、少しずつ薄くなっていった。
それから、雪片が太陽を反射するように、眩い光の粒に包まれていく。
否、そうではない。
彼の体そのものが、光の粒に変わっているのだ。
それらは、まるで粉雪が舞い上がるように、白い花びらが風を渡るように、冬の淡い空に昇っていった。
サーリの嗚咽だけが、嘘のように美しい情景に、いつまでも響いていた。




