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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第五章 南国 エメラルド
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第百十二話 雪白


 その日は、一面銀世界だった。

 全てが白く覆われた湖で、サーリは水浴びをしていた。


「今ほど君が人間じゃないって意識したことはないよ」


 そう言って、両手を温めながらリュクは笑う。

 

「だから見張りは必要ないと言っただろう。テントで温まっておけ」


 澄んだ水に身を浸しながら、サーリはごちた。

 金色の髪が、銀色の湖に美しく映える。

 澄んだ清水は彼女の神性に心地よいのか、綺麗な泉を見つけてはこうして沐浴をしていた。

 寒さは感じないらしい。

 人間離れしていたが、それでもリュクは、決して彼女を一人で行かせることはなかった。


「まぁ、そう言わないで。君とこの景色を一緒に見たかったんだ」


 それはどこまでも平和で穏やかな朝だった。

 静謐な水音。

 明るい朝日。

 輝く雪。


 こんな日は久しぶりだとリュクは目を細めた。


「ねぇサーリ。次に生まれてくるなら、こんな、平和な世界だったらいいね。……それで、もう一度、君と出会って、今度こそ、君を幸せにしたい」


 何をいうのかと、サーリは目を丸くした。


「突然そんなことを言い出すなんて、今日のリュクは変だ」


 リュクは低く笑うと、「そうだね」と空を見上げた。


「でもね、サーリ、これだけは今、言わせてほしい。僕は本当に幸せだったんだ。魔術医になって、たくさんの人を治療して、君に出会って……今こうして、もっと多くの人を助けられている。……これこそ、僕が生まれてきた理由だったんだと、思うんだよ」


 様子がおかしいと、サーリが立ち上がりかけた、そのとき――高い銃声が、白い湖面に響き渡った。


 それは、聞き慣れた、ありふれた、銃声だった。


 サーリが驚いて振り返ると、銃を持った男が、遠くの木立で呆然とし、気がついたように逃げ出した。

 そして、彼とサーリの間には、リュクが静かに横たわっていた。


「……リュク、……リュク!!」


 頭が状況を理解するより先に、足が勝手に動きだす。

 雪原に倒れる彼の元へ。


 リュクは、サーリの姿を見とめると、満足げに笑った。


「……無事だったか。よかった」


 サーリは、倒れ込むようにリュクの傍に膝をつく。

 真っ白の雪の中に横になる彼は、驚くほど美しく見えた。

 サーリは、茫然と呟いた。


「……なぜ、私を庇ったんだ。私は、撃たれても死なないのに」


 リュクは小さく首を振ると、ぎこちない笑みを浮かべた。


「……だめ、だよ。君は、女の子、なんだから」


 その瞬間、サーリの頬にいくつもの水滴が流れた。

 それが涙であることに気づかないまま、サーリは「なぜ、なぜ」と問い続ける。


「なぜ、お前が撃たれなければならない」


 あれほど人を愛し、人を救い続けた彼が。


「なぜお前はそんなにも満ち足りた顔をしている」


 これほど若く命を終えようとしているのに。

 

「なぜ、私の胸は、こんなにも、苦しい」


 リュクは小さく笑うと、そっと手の甲でサーリの頬を撫でた。


「……それが、心というものだよ」


 彼の手の温かさが伝わってくる。

 サーリは縋るようにその手を取ると、茫然としたまま呟いた。


「……私には、そんなもの、備わっていない」


 それを聞くと、リュクは、かつてのように笑った。


「……いいや、君は……とても、豊かな心を持った……」


 途中で、彼は小さく咳き込んだ。

 もう喋るなと首を振るサーリの顔を、リュクは優しい表情で見上げた。


「……君に、出会えて良かった。僕の人生が満ち足りていたのは……君のおかげだよ、サーリ。君が、僕に、たくさんのものを、与えてくれたんだ」


 サーリには、わからなかった。

 着るものも食べるものも住むところも、全て彼に与えられたものだった。

 自分から与えたものなど一つもない。

 否――ひとつだけ、あるとするなら。


「あの子は……あの子は、どうすればいい。人の心を持たない私が」


 人の心を知らない自分が、たった一人で人の子を育てるなんて。

 できるはずがない。

 きっと、あの子の、リュク譲りの優しい心を損なってしまう。


 しかしリュクは穏やかに、「大丈夫だよ」と笑った。


「君は、とてもいいお母さんだから。……でも、苦労をさせてしまう、ことが、心配だ」


 徐々に声が細くなっていく。

 まるで眠るように瞼が閉ざされていく。

 睫毛に雪が落ちたそのとき、リュクは、最後の言葉を口にした。


「……今まで、本当に、ありがとう。……いつかまた、君に会いたいな」


 瞬間、彼の体が、まるで雪に溶けるように、少しずつ薄くなっていった。

 それから、雪片が太陽を反射するように、眩い光の粒に包まれていく。

 否、そうではない。

 彼の体そのものが、光の粒に変わっているのだ。

 それらは、まるで粉雪が舞い上がるように、白い花びらが風を渡るように、冬の淡い空に昇っていった。


 サーリの嗚咽だけが、嘘のように美しい情景に、いつまでも響いていた。




 

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