第百十一話 魔術医の矜持
その頃――サーリが戦場を離れて十余年、大陸の国々の争いは次第に激しくなっていた。
当時、大陸には大国という大国が存在せず、数えきれないほどの小国が、互いにしのぎを削っている状態。
監督者をなくした戦場は無法地帯と化し、被害は年々増加するばかり。
二人の住む村も無関係ではなく、多くの怪我人が流れ込んできた。
必然的に食べ物が足りなくなるが、あちこちで畑が焼けているため、収穫量も減る一方。
それでも、村人たちはたくましかった。
決して移民を追い返そうとはせず、 自分たちの食料を切り詰めて、残りを診療所へと持ち寄った。
動ける者は皆、怪我人の治療にあたった。
それは、かつてない団結力だった。
村中が一丸となって、この小さな診療所の力になろうとしたのである。
しかし、運び込まれる人数は日増しに増えていく。
いずれ限界が来ることは火を見るより明らかだった。
サーリは迷っていた。
戦の女神として、この状況を放っておくわけにはいかない。
(しかし、生まれたばかりのこの子を、置いていくのか……?)
リュクは、その彼女の迷いを敏感に感じ取っていた。
そして、自身もまた迷っていた。
戦場で傷ついた人をいの一番に癒す。
それは、魔術医である自分にしかできないことだ。
(僕が戦場にいれば、救える命が確かにある)
それは、魔術医としての、信念の問題だった。
一人でも多くの人を助けたい。
助けられる命は、決して見捨てない。
日頃温和な彼だが、この点に関してだけは、頑として譲れなかった。
ほどなく、彼はサーリに告げた。
「……僕は戦場に行くよ、サーリ」
わかっていたことだった。
遅かれ早かれ、彼はこう言うだろうと。
そして、サーリは、彼を一人で行かせることなどできなかった。
「……それなら、私も一緒に行こう。この子は、村の人間に預けて」
戦場に赤子を連れて行くわけにはいかない。
例えどんなに気がかりでも。
それが、この子の安全のためだとわかっていた。
リュクは、一瞬ためらいの表情を浮かべ、それから、彼女の腕の赤子を見つめた。
サーリによく似た金髪の、愛らしい我が子を。
しばらくの間、室内に重い沈黙が落ちた。
こんなにも愛しい息子を、手放さなければならないなんて。
それでも、リュクは、きつく目を閉じ、血を吐くような思いで首肯した。
「……あぁ、そうしよう」
そうして二人は、迷いを捨て、戦場へと旅立った。
* * *
いくつもの戦場を渡った。
降り注ぐ火炎をかき分け、サーリは多くの人々を死の淵からすくい上げた。
そして、彼女がすくい上げた命を、リュクが懸命な治療でこの世に繋ぎ止めた。
ときには、散弾の弾ける中で。
ときには、剣戟の迫る中で。
たとえ歴戦の戦士が躊躇う戦場であっても、リュクは治療の手を止めなかった。
「リュク!!」
リュクに危険が及ぶとき、サーリは肝の冷える思いで彼を守った。
身を呈し、剣先と彼の間に、体を滑り込ませて。
そういったときはいつも、リュクはこう言うのだった。
「ありがとう。でも、こんな風に僕を庇ったりしないで。君は女の子なんだから」
この後に及んでまだそんなことを言うのかと呆れたが、きっと彼は考えを改めようとはしないだろう。
たとえ化け物じみた力を持つ女神であっても、彼にとっては唯一無二の女性なのだから。
しかし実際、最も体をいたわるべきは、リュクの方だった。
一日中、治療で魔力を使い続ける日々。
十分な休養も睡眠も取れない。
食料さえ患者に回してしまうため、魔力を作り出す栄養も足りなくなる。
並の人間であればとっくに倒れていてもおかしくない状態だった。
本当は、サーリは心配で、心配で、仕方がなかった。
「お前がここまでする必要など、どこにもない。帰ろう。全てを忘れて、あの家に」
何度そう切り出そうとしたかしれない。
それでも、それが言えなかったのは、彼をこの場にとどめているものの正体を知っていたから。
それは、信念。
そして、魔術医としての矜持。
それは彼の命そのものだ。
野営地で星を見上げながら、リュクはこう呟いた。
「……心配をかけているよね」
サーリが黙って見つめていると、彼は困ったように笑った。
「ごめんね。それでも、こうして戦場に来て良かったと、思ってしまうんだ」
たとえこの両手で救える人が、ほんの僅かだったとしても。
この行為が単なる自己満足だったとしても。
「こうして誰かを救えることが、僕はとても嬉しいんだよ」
サーリは、小さくため息をつき、それから、淡く静かに笑った。
「初めから、お前がそういう奴だと知っていた。……知っていて、お前と結婚したんだ」
そうして彼女は、穏やかに瞳を閉じた。
これまでの結婚生活を思い返すかのように。
「だから、気にするな。全部終わったらまた、皆で平和に暮らそう」
そのときリュクは、複雑な表情を浮かべた。
何かを誤魔化すような、ぎこちない微笑み。
「……あぁ、そうだね。もちろん、そうしよう」
サーリは違和感を感じたが、強いて追及しようとはしなかった。
否、本当は気づいていたのに、目をそらしたのかもしれない。
リュクが魔力として削ってきた命が、もうそう長くはもたないということに。
季節は、冬に差しかかろうとしていた。




