第百十話 二人の生活
女神と人間の婚姻は、あまり例がない。
そもそも寿命が違う上に、価値観さえ別物なのだから、当然と言えば当然だった。
しかしその点、二人の生活は驚くほどに円満だった。
サーリは手始めに、女衆に料理の教えを請うた。
彼女たちは喜んで、一般的なものからそれぞれの郷土料理まで、あらゆるメニューを教えてくれた。
移民である彼女たちの料理には、物語があった。
――これは、私の故郷では感謝祭に食べる料理なの。
――このレシピは祖母に習ったものでね。
キッチンに並んで料理をしながら、そんな物語を気さくに話してくれた。
その様子はまるで、手習いをする母娘のようだった。
実際、自分たちの何十倍も長く生きているサーリを、彼らは実の娘のように可愛がった。
「先生、喜んでくれるといいねぇ」
「……あぁ、ありがとう」
幼子のように頷くと、彼らは目を細めてサーリの頭を撫でる。
そんな彼女たちの手が傷だらけなことに、足を引きずっていることに、サーリは気づいていた。
(彼らは、戦で国を追われて来た……こんなに優しい人々が)
戦神として戦いを司ってきたサーリの胸に、初めて疑問が生まれた。
(私なら、彼らを助けることができたかもしれない。否、誰も傷つけることなく、戦いを終結できたかもしれない)
これまで当然の役割として、何の疑問もなく剣を振るい続けてきた、自分の在り方を考えた。
(戦神の役割は、戦うことではなく、人々を戦いから守ることだったのかもしれない)
そんな話をすると、リュクは「優しい君らしいね」と嬉しそうに笑った。
* * *
サーリは魔術医の助手としても優秀だった。
器具の使い方や応急手当ての仕方に始まり、必要なことは何でも知りたがった。
訪問診療に付き添ううちに、村の人々とも顔なじみになっていった。
彼らは、サーリの前では借りてきた猫のようだった。
「今まで散々横柄な態度をとっていたくせに」
サーリが口を尖らせると、リュクは「そんなことを言ってはいけないよ」と苦笑した。
「僕が好きでやってることなんだから」
サーリはふん、と不満げに顎をそらした。
もちろん、不遜な態度をとる人ばかりではない。
中には、感謝の気持ちを伝える者もいた。
治療費代わりに畑仕事を申し出る若者や、毎日昼食に誘ってくれる老婦人もいる。
リュクはそれらの見返りを進んで受け取ろうとはしなかったが、そういった人々と話すのは楽しかった。
そうして月日が流れるうちに、親しい隣人は次第に増えていった。
今では二人が歩いていると、村のあちこちで呼び止められる。
「お二人さん、今日も精が出るねぇ」
「後でうちに寄っとくれ。おすそ分けがあるんだ」
はじめは無表情のサーリを怖がっていた人々も、今では「熱心で生真面目な娘」という印象を抱いているようだった。
初々しい姿に頬を緩めている者も少なくない。
診察を終えたある老婦人が、暖炉の傍で遊びまわる孫を見つめながら、茶目っ気たっぷりにささやいた。
「サーリさん、子どもっていいものよ」
器具を消毒していたサーリが振り返る。
「子ども?」
リュクが席を外しているのを幸いに、老婦人はいきいきと頷く。
「そうそう、リュクさんとの子ども。ほしくない?」
「……考えたこともなかった」
老婦人は、「あらあらまぁまぁ」と微笑んだ。
「かわいいわよ。私も自分の子どもたちのことは、昨日のことのように覚えてるもの」
サーリは暖炉の傍に目を向けた。
きゃっきゃとはしゃいでいる子どもたちの様子をじっと見つめる。
それから、そっと目を伏せた。
過去に、人間と神の子が生まれた例は皆無ではない。
多くの場合、彼らは長い寿命と特別な能力を備えて生まれてきた。
神でもない、人でもない。
どちらにもなりきれない存在。
これまで何度か、そういった者と出会うこともあった。
(……彼らは、幸せだったのだろうか)
難しい顔で黙り込んだサーリに、老婦人は朗らかに笑いかけた。
「まぁあまり悩みすぎないことよ。リュクさんに話してみたら?」
「……あぁ、そうだな。そうする」
彼女の提案を突っぱねなかった自分に、内心驚く。
考えたこともなかった望みなのに。
障害だらけの望みのはずなのに。
(……私は、そんな未来を、望んでいるのか)
彼と、我が子の成長を見守る、そんな未来を。
戸惑いながらも、そんな自分も悪くはないと思ってしまうのだった。
* * *
その日の夕刻、リュクにその話をすると、彼は思いのほか真剣な表情になった。
「僕は、君がそれを望んでくれたことが嬉しい」
思ってもみなかった言葉に、サーリは両目をかすかに見開く。
「僕はずっと、どこかで不安だったんだ。君に……人間の価値観を押し付けているんじゃないかと」
女神であるサーリには、女神としての幸せがあったのではないか。
無理に人の営みに付き合わせているのではないか。
そんな不安がずっと、消えなかった。
「でも、そうじゃなかったんだね。僕が君の好きな食べ物を知りたいと思うように、君も、僕のことを知ろうとしてくれている。ただ、それだけのことだったんだ」
サーリは呆れたように、そしてどこか穏やかに微笑んだ。
「私がこんなことを言うのはおかしいかもしれないが」
そう前置きして、リュクの瞳をまっすぐ見つめる。
「価値観なんてものは、人間同士でさえ、まちまちだろう。私は、ここにいたいからいるんだ。共にいたいと思ったから、結婚したんだ」
こんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。
リュクは惚けるようにサーリを見つめた。
「私たちは夫婦だ。この先も、ずっと。そうだろう?」
問われたリュクは慌てて頷く。
「もちろん」
それから、心底幸せな笑顔を見せた。
「好きだよ、サーリ。ずっと、いつまでも」
サーリは少しだけ寂しげな笑顔を見せた。
「好き」という感情が、同じように返せない申し訳なさと、「いつまでも」という言葉が思い出させる事実。
人である彼は、永遠を生きられない。
どうあがいても、別れの時はやってくるのだ。
(でも……それでも、いい)
彼の、幸せな生涯を見届けることができるのなら、それでも構わなかった。
彼と共に生きる今さえあれば、永遠など、何の魅力も感じない。
ただ、彼の生涯に連れ添うことができるのなら。
それから少しずつ、サーリの笑顔は増えていった。
話す言葉が増え、見せる表情が増え、好きなものが増えた。
そして十年目の春。
彼らは、一人の男の子を授かった。




