第百九話 特別な人
翌朝、いつも通り、まだ暗い時間に目を覚ましたリュクは、驚きのあまり飛び起きた。
「……何かが焦げる匂いだ」
天井にも微かに煙が這っている。
急いで匂いと煙の出どころまで走っていくと、そこはキッチンだった。
慌てて扉を開けると、黒い煙がもわっと出てくる。
咳をしながら、中へと呼びかけた。
「誰かいるのかい!?」
返事がない。
リュクは一瞬ためらったが、意を決してその中へ飛び込んだ。
手探りで前へ進み、窓を開け放つ。
すると、爽やかな朝の空気が流れ込んでくるのと同時に、真っ黒な煙が逃げていった。
徐々に視界がひらけてくる。
どうやら既に炎は消えているらしい。
リュクはほっと安堵の息を吐いた。
「……無事かい? サーリ」
果たして、そこにいたのはサーリだった。
焦げ付いた鍋の前で、泣きそうな顔で立ち尽くしている。
リュクは事情は聞かなかった。
聞かなくても、わかってしまった。
「サーリ、怪我は?」
重ねて問いかけ、顔を覗き込むと、サーリはようやく首を振った。
「……ない」
リュクは安心したように表情を和らげると、袖で彼女の頬を拭う。
「お湯を沸かすから湯浴みをしておいで。全身煤で真っ黒だよ」
しかしサーリは、頷かない。
俯いたまま、かろうじて呟かれたのは、「すまない」という言葉だった。
「……畑の世話も、うまくいかなかった。井戸の滑車も壊してしまった。夜間着も仕立てたのだが……」
彼女の視線の先には、煤をかぶってもなお、太陽のように燦然と輝く金色の長衣があった。
「……こんな長衣、夜間着には使えない」
もやの晴れた窓の外の畑は、嵐が過ぎ去った後のように荒れ果てている。
井戸の傍には切れたロープが転がっていた。
「……お前の力になりたいのに……うまく、いかない。戦神の私にできるのは、破壊することだけで……お前の役には、立てないのかもしれない」
呆然としていたリュクの目に、涙の粒が浮かぶ。
それを見たサーリが慌てて彼の顔を覗き込んだ。
「リュク、どこか痛いのか? 私の言葉が、お前を『悲しい』気持ちにさせたのか?」
聞きかじりの言葉で彼の心を測ろうとする。
そんなサーリを安心させるように、リュクは首を振って微笑んだ。
「違うよ、サーリ。君の気持ちが嬉しいんだ」
サーリは困惑げに首をかしげる。
「気持ち? 全部失敗したのにか?」
それは勝敗しかない戦の世界で生きてきたサーリが、初めて耳にする価値観だった。
リュクは言う。
できるのは破壊することだけなんて、そんなことあるはずがないと。
「だって君はこんなにも、優しい女性なんだから」
言葉を失うサーリに、リュクは続ける。
「本当に、ありがとう、サーリ。……でも、こんなに早くにそんな薄着で外に出たらだめだよ。心配だからね」
大理石のような肌にじわじわと赤みがさしていく。
鼓動が早くなっていくのが自分でもわかった。
彼の「ありがとう」が何故こんなに特別なのか。
不要なはずの「心配」がどうしてこんなに心地良いのか。
「……心配は、不要だと、言っている」
何とかそう返すも、リュクは頑固に首を振る。
「だめだよ、君は女の子なんだから」
顔がさらに赤く染まる。
戸惑いながら、サーリは呟いた。
「私は『女の子』ではない。人の子とは違う」
今度はリュクが目を丸くした。
「どうしてそんなこと言うんだい?」
サーリは、どこか悲しげに目を伏せた。
「……私には、人の心がわからない」
リュクは息をのむ。
それから、サーリの細い肩に手を置いた。
それは違う。
そう言いかけたところで、突然、台所の扉が開いた。
「おう、すごい煤だな。大丈夫か?」
腕を怪我した男を先頭に、診療所中の患者がこちらを覗いている。
どうやら煙の臭いに心配して駆けつけてくれたらしい。
リュクはサーリから飛び離れた。
一度咳払いをして、「大丈夫だよ」と改まった声で言う。
俯くサーリの頬も赤い。
何かを察した男は、にやりと笑った。
「邪魔したな。二人してりんごみてぇに赤くなってら」
リュクは口をぱくぱくと開閉した後、「そんなんじゃないですから……!」と両手を振る。
小さな子どもが無邪気な顔で二人を見上げた。
「リュクはサーリがすきなの?」
リュクはぐっと口をつぐみ、ちらりとサーリを見た。
彼女は、まるで答えを待つかのように、透明な赤い瞳でじっとリュクを見つめている。
リュクはきつく目を閉じると、観念したようにサーリに向き直った。
「好きだよ」
途端に、サーリの金色の髪がぶわりと舞い上がった。
巻き起こった風が、壁に掛けられた調理器具を揺らす。
周囲に星のような光が散り、住人は「うわぁ!」と歓声を上げた。
「きれい!」
子どもたちが手を叩いて喜ぶと、周囲の人々もつられたように破顔した。
優しい拍手が、朝日の差し込む部屋中に広がっていく。
サーリは戸惑いながら、赤い顔で周囲を見回した。
それから、自分だけをまっすぐに見つめる眼前の青年を見る。
この胸の高鳴りを、サーリは知らない。
伝えたい何かはあるのに、言葉が出てこない。
未知の感覚に戸惑いながら、それは決して嫌なものではなかった。
「……私には、人の心はわからない。そのはずだ。けれど」
胸を押さえる。
感じたことのない温度をそこに感じた。
彼をずっと見ていたい。
言葉を交わしていたい。
それは長らく線上に生きてきた彼女に、初めて生まれた願いだった。
「……きっと、お前は特別なのだと思う」
リュクは赤い顔で両目を見開き、それからふわりと笑った。
「ありがとう」
周囲の人々はいっそう沸き立つ。
サーリの表情は、言葉よりも如実にその想いを物語っていた。
「さて、そんじゃあ、今日は記念日だ。朝食は俺たちでこしらえようか。お二人さんは居間辺りでゆっくりしてな」
男の言葉に、人々は頷く。
遠慮するリュクと戸惑うサーリの背を押して、台所の扉を閉めた。
二人のいなくなった室内で住人は顔を見合わせ笑い合う。
「嬉しいねぇ」
「先生、人のことばかりで自分のことには無頓着だったから」
「お互いようやく『特別な人』ができたんだね」
彼らの言葉は、廊下の二人にも聞こえていた。
リュクは俯きがちにちらりとサーリの様子を伺う。
彼女もまた、おずおずとリュクの方を向いた。
「……とりあえず、居間に行こうか」
そっと手を差し出すと、サーリもまたためらいがちに手を重ねる。
そのときはじめて、リュクは彼女の微笑みを見た。
「これから、よろしく頼む」
リュクはぐっと唇をかむと、涙をこらえて頷いた。
「こちらこそ」
ほどなくして、二人は自宅で幸せな式を挙げた。
身内ばかりの簡素なものだったが、皆が一丸となって飾り付けた式場は花に溢れた美しいものだった。
開け放たれた玄関からは、日ごろあまり交流のない人々も訪れた。
義理半分、好奇心半分だったのだろう。
しかし、庭の野菜で作った料理をつまみながら談笑しているうちに、次第に彼らの表情も和らいでいった。
白い衣装をまとう二人の雰囲気にあてられてしまったのかもしれない。
「私はまだ、人の心がわからない。それなのに、お前の生涯を得ても良いのだろうか」
生真面目な顔でそう尋ねるサーリに、リュクは堪え切れないように吹き出した。
「僕はそうは思わないけれど」
笑い合う人々を眺めながら彼は言った。
「良いんだよ。僕は世界一幸せだ」
こうして戦乙女は、小さな村の魔術医の妻となった。




