第百七話 変わり者のリュク
遥か、遥か昔。
まだ全ての人間が当たり前のように魔力を持ち、神々と共存していた、そんな時代。
サーリは、一人の青年と出会った。
手ひどい怪我を負い、行き倒れていた彼女に、その男はこう言ったのだ。
「驚いた。もしかして、きみは天使かい?」
戦を司る女神を捕まえて、天使だと。
何と能天気な男かと、サーリはしばし体の痛みさえ忘れてしまった。
「……汝の名は」
「僕かい? リュクだよ」
サーリは気づかなかった。
自身の氷花のような口元が微かにほころんでいたことに。
思えばその瞬間から、彼女の長い旅は始まったのだ。
* * *
――戦を司る女神として、人里を荒らす悪神どもを討伐して参れ。
「私はそう命じられているのだ」
「誰に?」
「我が父、天空の神に」
リュクは手当てをしながら、何とも言えない顔をした。
「つまり君は、戦の女神なのかい?」
「そうだと言っている」
「とてもそうは見えないけどなぁ」
青年はのんびりとそう言うと、包帯を巻き終え「これで良し」と呟いた。
「一月もすれば傷も塞がるはずだよ」
「そんなにかからない」
サーリは真からそう言ったのだが、リュクはそれを冗談か、もしくは強がりだと思ったらしい。
「まぁそう言わずに。治るまでいてくれたらいいよ。うちは診療所だからね」
リュクは「何か飲み物を持ってくるよ」と部屋を後にした。
無人になった室内を見回し、サーリは呟く。
「……奴は魔術医なのか」
魔力の質と賢が問われる稀有な生業だ。
勉学と努力は必要だが、民の間で最も稼ぎの良い職業だと言われている。
「しかし、とてもそうは見えなかった」
擦り切れた麻の服に、痩せた体。
この家も、小綺麗にはしてあるが、あちこちガタがきている。
薄い窓の外には、小さな畑が見えた。
こんな暮らしをしている魔術医など聞いたことがない。
「……大方、人が好すぎるのだろう」
サーリは生まれて初めて、ため息をついた。
* * *
ベッドの上で、安静で退屈な数日が過ぎていった。
そのうちにわかったことが二つある。
一つ目は、村の子どもたちが彼を「変わり者のリュク」と呼んでいること。
そしてもう一つは、彼が移民を無料で匿い、治療しているということだ。
「先生、助けてもらっておいてこんなことを言うのはなんだが、もう俺たちを匿うのはやめたほうがいい」
ある晩そっと部屋を抜け出し、何気なく彼の姿を探していたとき、ふいに南部訛りの声が聞こえてきた。
換気のために開けられた扉に近づき、そっと中の様子を伺う。
そこでは、浅黒く背の高い男が治療を受けていた。
「こうして敵国の人間を助けてりゃ、あんたの立場は悪くなる一方だ。そうだろう?」
男の腕に薬草を塗りながら、リュクは「そうですねぇ」と気の抜けた返事を返す。
「でも、彼らも病気や怪我のときには、僕のところに来てくれるんですよ」
「そりゃあんたが治療代を取らないからだろう!」
リュクは「痛いところを突かれちゃったな」と笑った。
「……笑い事じゃないだろ」
呆れ顔で呟く男に、リュクは小さく微笑む。
それから、やはり穏やかな表情で、「いいんですよ」と言った。
「僕は僕のやりたいようにやってるだけですから。諦めて治療を受けてくださいね」
しばらくすると、低い男の嗚咽が聞こえてきた。
サーリはそっとその場を後にした。
ベッドに戻り、毛布にくるまりながら、先ほどのやり取りを思い出す。
「……愚かな男だ」
サーリには理解できなかった。
一銭の得にもならないどころか、かえって損をしているというのに。
何故あの男は、それでも人助けをやめないのだろう。
翌日から、サーリはリュクの後をしつこく付いて回るようになった。
* * *
リュクと暮らし始めて、サーリは初めて、戦場の外の世界を知った。
「リュク、これは何だ?」
日に何度も、サーリはそう問いかける。
その度に、リュクは顔の洗い方から食事の仕方まで、あらゆることを教えた。
「それはホットミルクだよ。最近眠れてないみたいだったから。これを飲んだらきっとよく眠れるよ」
「私は睡眠を必要としない。食事も不要だ。私の分は用意しなくていい。代わりにリュクが食べろ」
事実としてそう述べると、リュクは眉を寄せて微笑んだ。
「ありがとう。君は優しいね」
サーリは紅い瞳を見開いた。
「でも、心配しなくて大丈夫だよ。君は怪我人なんだから、たくさん食べて元気にならなくちゃ」
衝撃に固まる彼女は「心配……」と彼の言葉を繰り返す。
心配している? 彼を?
(私が、優しい?)
そんなはずはない。戦乙女にそのような神性は、備えられていない。ありえないことだ。
サーリの眉間にシワが寄る。
(それなのに……何故、『そう思われたい』と願ってしまうのだろう)
手の中のホットミルクを一口飲む。
湯気越しに見える青年は、目が合うと、気の抜けた笑顔を見せた。




