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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第五章 南国 エメラルド
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第百六話 女神サーリ


「ねぇ、ハントさま。どうしてサーリさまは私たちを――人間を、憎んでいるの?」


 空を見上げ、不安げに問いかけるフュナ。

 ハントはしばらく沈黙していたが、やがて、「そうではないんだ」と首を振った。


「彼女は人を愛していた。……いや、きっと今でも……」


 遠い過去の記憶を遡るハントの表情には、やりきれない悲しみが滲んでいた。



* * *



「サーリさま」


 ルコットが静かに口を開くと、黄金色の女神はゆっくりと二人に視線を向けた。

 無言のまま、じっとルコットを観察している。

 ややあって、彼女はその小さな唇を開いた。


「そなた」


 視線は変わらずルコットに据えられたままだ。

 ホルガーは思わず間に入ろうとしたが、何故か身動きを取ることができない。

 しかし、ルコットは落ち着いていた。


「はい」

「王家の者か?」


 ルコットは無言で頷く。

 するとサーリは、抑揚のない声で「そうか」と呟いた。


「私の遠き子か。道理で居心地が悪いわけだ。……確かに、似ておる」


 ルコットはどう答えれば良いかわからず、竜の背を指差した。


「あちらにも、お父さまとお姉さまがいらっしゃいますわ」


 しかしサーリはそちらには関心がないようだった。

 じっとルコットだけを見つめている。


「……本当に、よく似ておる」


 穴が空くほど見つめられ、さすがにまごついたのか、ルコットは控えめに視線をそらす。

 

「とてもそうは思えませんわ。髪や瞳の色も、顔形だって、全く違いますもの」


 するとサーリはここに来て初めて、微かに表情を動かしたように見えた。


「……たわけ。私にではない。あやつに似ておると申したのだ」


 あやつが誰のことを指しているのか。

 女神はそこまでは語らなかったが、推測するに、ともに子をなした相手――伴侶のことだろう。


「姿形だけではない。声の質も、纏う空気も、話す言葉さえ……」


 彼女の緋い目が細まる。


「全てが、あやつを思い出させる。あの魔術師の幻術か?――不愉快だ」


 その瞬間、再び赤い光が地上に落ちた。

 一拍遅れて遥か下方から爆発音が聞こえてくる。


 ホルガーは驚き、何とか片腕だけルコットの前へ差し出す。

 しかしルコットは表情一つ動かさなかった。


「違いますわ」


 焦りも不安も微塵もない声で、静かに告げる。


「私はルコット。元フレイローズ国第二十王女で、今はレインヴェール伯ホルガー=ベルツの妻です」


 じっと視線が交わる。その瞳は決して揺らがない彼女の在り方を映していた。


「私は私以外の何者でもありません。姿を偽ったりなどいたしませんわ」


――皆私を馬鹿にするが、それでも構わない。私は、私以外の何者にもならないよ。


 サーリの緋い瞳から、一粒の涙が落ちる。

 しかし当人はその涙に気づいていないようだった。


「その目で私を見るでない。その顔をやめよ」


 ルコットはしばらくの間躊躇ったのち、おずおずと問いかけた。


「大切な方だったのですか?」


 その問いはサーリの逆鱗に触れるだろう。

 ホルガーも、問いかけたルコットでさえ、内心そう覚悟していた。

 しかしサーリの返答は、驚くほどに力無いものだった。


「……わからぬ、わからぬのだ。神たる私には、人の子の如き心が備わっていない」


 わからないことを悲しんでいるかのような、理解できなかったことをずっと後悔しているかのような。

 少なくともホルガーの目にはそのように映った。


「……それではあなたはきっと、その方に出会って、心を知ってしまったのですね」


 思わずそう呟いてしまう。

 そのときになって初めて、サーリはホルガーに視線を向けた。


「私が心を知った? そなた、私に心が有ると申すのか」


 底の見えない瞳だ。

 彼女が、自分とは次元の違う存在であることが、嫌でもわかる。

 しかしそれでも、ホルガーは確信していた。


「はい」


 「あやつ」の話をするときだけ、彼女の平坦な声に波が生まれる。冷たい宝石のような瞳に光が灯る。


「少なくとも、あなたはその方のことを――とても鮮明に、覚えていらっしゃる」


 幾星霜もの間、褪せることなく胸に残り続けた記憶。

 それが心でなくて何だというのか。

 サーリは二、三度瞬きをすると、事実を確認するように「……覚えている」と呟く。

 それから、静かに目を閉じて、「……まるで昨日のことのように」と囁いた。


「不思議なものだ。あやつがこの世を去り、悠久の時が流れたというのに……姿も、声も、言葉も、全てが鮮明なままだ」


 抑揚のなかった声が揺れる。

 眉が、口角が、微かに歪む。

 その感情は、恐らく躊躇いと戸惑い、そして、迷いと悲しみ。


「忘れるべきだ。神として、これは不要な記憶のはず。しかし何故か忘られぬ。……否」


 サーリは、どこか思案げに、戸惑うように言葉をつないだ。


「……忘れることを思うと、身を砕かれるような心地が、する」


 考えたこともなかった。

 感じたこともなかった。

 凍った湖面のような己の内に、波紋が広がっていくような感覚。


「……これは、何だ?」


 サーリは今ようやく、気づいた。

 自分の中に、ある泉に。


「それが、心ですわ」


――それが、心というものだよ。


 眼前の娘は、かつての青年と全く変わらぬ眼差しで、そう言った。






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