第百六話 女神サーリ
「ねぇ、ハントさま。どうしてサーリさまは私たちを――人間を、憎んでいるの?」
空を見上げ、不安げに問いかけるフュナ。
ハントはしばらく沈黙していたが、やがて、「そうではないんだ」と首を振った。
「彼女は人を愛していた。……いや、きっと今でも……」
遠い過去の記憶を遡るハントの表情には、やりきれない悲しみが滲んでいた。
* * *
「サーリさま」
ルコットが静かに口を開くと、黄金色の女神はゆっくりと二人に視線を向けた。
無言のまま、じっとルコットを観察している。
ややあって、彼女はその小さな唇を開いた。
「そなた」
視線は変わらずルコットに据えられたままだ。
ホルガーは思わず間に入ろうとしたが、何故か身動きを取ることができない。
しかし、ルコットは落ち着いていた。
「はい」
「王家の者か?」
ルコットは無言で頷く。
するとサーリは、抑揚のない声で「そうか」と呟いた。
「私の遠き子か。道理で居心地が悪いわけだ。……確かに、似ておる」
ルコットはどう答えれば良いかわからず、竜の背を指差した。
「あちらにも、お父さまとお姉さまがいらっしゃいますわ」
しかしサーリはそちらには関心がないようだった。
じっとルコットだけを見つめている。
「……本当に、よく似ておる」
穴が空くほど見つめられ、さすがにまごついたのか、ルコットは控えめに視線をそらす。
「とてもそうは思えませんわ。髪や瞳の色も、顔形だって、全く違いますもの」
するとサーリはここに来て初めて、微かに表情を動かしたように見えた。
「……たわけ。私にではない。あやつに似ておると申したのだ」
あやつが誰のことを指しているのか。
女神はそこまでは語らなかったが、推測するに、ともに子をなした相手――伴侶のことだろう。
「姿形だけではない。声の質も、纏う空気も、話す言葉さえ……」
彼女の緋い目が細まる。
「全てが、あやつを思い出させる。あの魔術師の幻術か?――不愉快だ」
その瞬間、再び赤い光が地上に落ちた。
一拍遅れて遥か下方から爆発音が聞こえてくる。
ホルガーは驚き、何とか片腕だけルコットの前へ差し出す。
しかしルコットは表情一つ動かさなかった。
「違いますわ」
焦りも不安も微塵もない声で、静かに告げる。
「私はルコット。元フレイローズ国第二十王女で、今はレインヴェール伯ホルガー=ベルツの妻です」
じっと視線が交わる。その瞳は決して揺らがない彼女の在り方を映していた。
「私は私以外の何者でもありません。姿を偽ったりなどいたしませんわ」
――皆私を馬鹿にするが、それでも構わない。私は、私以外の何者にもならないよ。
サーリの緋い瞳から、一粒の涙が落ちる。
しかし当人はその涙に気づいていないようだった。
「その目で私を見るでない。その顔をやめよ」
ルコットはしばらくの間躊躇ったのち、おずおずと問いかけた。
「大切な方だったのですか?」
その問いはサーリの逆鱗に触れるだろう。
ホルガーも、問いかけたルコットでさえ、内心そう覚悟していた。
しかしサーリの返答は、驚くほどに力無いものだった。
「……わからぬ、わからぬのだ。神たる私には、人の子の如き心が備わっていない」
わからないことを悲しんでいるかのような、理解できなかったことをずっと後悔しているかのような。
少なくともホルガーの目にはそのように映った。
「……それではあなたはきっと、その方に出会って、心を知ってしまったのですね」
思わずそう呟いてしまう。
そのときになって初めて、サーリはホルガーに視線を向けた。
「私が心を知った? そなた、私に心が有ると申すのか」
底の見えない瞳だ。
彼女が、自分とは次元の違う存在であることが、嫌でもわかる。
しかしそれでも、ホルガーは確信していた。
「はい」
「あやつ」の話をするときだけ、彼女の平坦な声に波が生まれる。冷たい宝石のような瞳に光が灯る。
「少なくとも、あなたはその方のことを――とても鮮明に、覚えていらっしゃる」
幾星霜もの間、褪せることなく胸に残り続けた記憶。
それが心でなくて何だというのか。
サーリは二、三度瞬きをすると、事実を確認するように「……覚えている」と呟く。
それから、静かに目を閉じて、「……まるで昨日のことのように」と囁いた。
「不思議なものだ。あやつがこの世を去り、悠久の時が流れたというのに……姿も、声も、言葉も、全てが鮮明なままだ」
抑揚のなかった声が揺れる。
眉が、口角が、微かに歪む。
その感情は、恐らく躊躇いと戸惑い、そして、迷いと悲しみ。
「忘れるべきだ。神として、これは不要な記憶のはず。しかし何故か忘られぬ。……否」
サーリは、どこか思案げに、戸惑うように言葉をつないだ。
「……忘れることを思うと、身を砕かれるような心地が、する」
考えたこともなかった。
感じたこともなかった。
凍った湖面のような己の内に、波紋が広がっていくような感覚。
「……これは、何だ?」
サーリは今ようやく、気づいた。
自分の中に、ある泉に。
「それが、心ですわ」
――それが、心というものだよ。
眼前の娘は、かつての青年と全く変わらぬ眼差しで、そう言った。




