第百五話 花水晶の指輪
再び機体が揺れる。
男は大波に飲まれる船の舵を切るように、体ごと傾けた。
「悪いなお二人さん、どうやらドライブはここまでのようだ。快適な空の旅になったかい?」
ルコットは朗らかに頷き、ホルガーの手を取る。
「はい、とても楽しかったですわ」
「こんな危険なところまで、ありがとうございました」
男はひらひらと手を振り、「いいってことよ」と返す。
「気をつけてな。お二人さん、世界は任せたぜ」
「お任せください」
「任されましたわ」
並び立つ二人を見て、王は苦笑した。
「奥さんに手ぇ握られただけで顔真っ赤にしやがって……情けねぇ旦那だなぁ」
「……ほっといてください」
不思議そうなルコットに「何でもありませんよ」と笑いかけ、今度はホルガーがルコットの手を引き、男に背を向ける。
その背に向かって、男は力強く声をかけた。
「また乗せてやるからな! 早く帰ってこいよ!」
ホルガーは、傍らの妻に視線を落とした。
瞳に強い力が宿る。
「……言われずとも」
何と言ってもこの腕には、彼女の安全がかかっているのだから。
* * *
「飛行」
ルコットの指輪が光る。
足元に、ふわりと風が起こった。
「ホルガーさま」
ルコットの呼びかけに、ホルガーは頷く。
彼女の背を支え、ともに一歩を踏み出した。
何もないはずの空中なのに、しっかりと空気を踏みしめる感覚がある。
不思議に思って下を見ると、足を下ろした場所が波紋のように丸く光っていた。
振り返ると、光の階段が続いている。
「すごいですね」
思わず呟くと、ルコットが眩しくはにかんだ。
「――ホルガーさまの、指輪のおかげですわ」
ホルガーは、両目を見開き息を飲む。
「……気づいて、おられたのですか」
ルコットは微笑みながら頷く。
「はい。でも、確信が持てたのは、ここでお会いしてからです」
初めは、ただそんな気がしただけだった。
――購入したのは私ではないので、礼は必要ありません。ただ大切に、身につけておいてください。きっと、あなたを守ってくれます。
スノウがこうして贈り主を伏せたのは、自分に言いづらい相手だったからではないか、と。
しかし同時に、そんなこと、あるはずがないとも思っていた。
あまりにも希望的観測すぎる。
そうしてまんじりとしないまま、きっと心のどこかでは、彼からの贈り物であればいいと、願っていた。
贈り主をスノウに確認しなかったのは、そうでなかったときの落胆を、恐れていたからだ。
それも結局杞憂だったのだが。
「今日お会いしたときに、確信しました。指輪から感じる温かさが教えてくれました。この水晶を渡されたときのホルガーさまの気持ちが、流れ込んできました」
それはどこまでも、温かな心だった。
――どうか、彼女を守ってくれ。
――彼女の行く路に、光を。
込められた祈りはずっと、ルコットとともにあったのだ。
ホルガーは、「参った」と言わんばかりに眉を下げ、頭の後ろをかいた。
「……婚約指輪さえ、お渡ししていなかったので」
自分たちの関係は、いわば唐突な成り行きから始まった。
段階を踏む間も無く、流れるように籍を入れ、式まで上げてしまった。結婚指輪さえ王室からの支給品だった。
その運命には感謝している。しかし、いかんせん時間がなかった。
婚約指輪も物を選ばなければ間に合ったかもしれない。
しかし生涯に一度のことだ。できることなら、彼女にふさわしいものを見つけたかった。
「ずっと、探していたのです」
仕事の合間や遠征先で方々を見て回り、様々な人に「良い宝石商を知らないか」と問い合わせた。
女性の装飾具はさっぱりわからなかったが、わからないなりに勉強もした。
そしてついに、とある小さな宝石店で、この水晶を見つけたのだ。
「真っ先に目を引かれました。この花々は、きっとあなたによく似合うと」
聞けば、店主が自身で採掘したものだった。
磨いてその美しさに喜んだのも束の間、とても値の付けられない代物で、こんな小さな宝石店では買い手もつかず、どうしたものかと困り果てていたらしい。
いっそのこと王宮にでも献上しようかと悩んでいた男に、ホルガーは「その必要はない」と首を振った。
「それから、デザインを相談して、素材を決め、ようやく完成したのですが……お渡しするタイミングがわからず……」
無口で職人気質な店主をはじめ、その奥方、母親、果ては村の女性たちにまで「早く贈れ」とせっつかれていたらしい。
ルコットはその様子を想像して、小さく笑った。
「帰ったら、一緒にお礼に伺いたいですわ」
その笑顔に、ホルガーもまたつられて微笑む。
「えぇ、そうしましょう。……ただし、散々冷やかされますので、お覚悟ください」
彼らもきっと、喜んでくれるだろう。
直接渡せなかったと謝りに行ったときは、とても悲しげな顔をしていたから。
「構いませんわ。あ、鉄道にも、一緒に乗りましょうね」
彼女の嬉しそうな顔ときたら。
どんな願いでも叶えたくなってしまう。
「はい、約束です」
黒い天に、光の階段が伸びていく。
それを人々は祈るような気持ちで見上げていた。




