第百四話 空飛ぶレディ
一直線にサーリの元を目指していた機体が、ふいにその場で大きく旋回した。
「遊んでいたらまたターシャ殿に叱られますよ」
ホルガーが言うと、セントラインの王は「そうじゃねぇ!」と叫ぶ。
「気流に耐えきれねぇんだ。元々こんな高度を飛べる設計してねぇからな」
* *
ターシャ、リリアンヌの乗ったシュードも同じく、暴風に抗うように機体が揺れていた。
「……くっ!」
「侍女長!」
「……大事ありません。お二人は伏せていてください」
ハンドルがまるで鉛のように重い。
腕に覚えのある侍女長でも、舵を取りきれないほどに。
(何とかこの気流を抜けねば……)
体を傾け、一人奮闘する侍女長。
ハンドルを握るその手に、ふいに二つの手が重ねられた。
驚いて振り返るとそこには――
「私たちも手伝うわ、侍女長」
いつまでも子どもだと思っていた末姫と、
「一人で無理しないで」
わがままで高慢だと言われた隣国の侯爵令嬢が、力強く自分を支えていた。
「お二人とも……」
ターシャがもう一方の手でギアを握り、微笑む。
「ライトレバーの操作は私に任せて。リリアンヌ、あなたは左のハンドルを引いて、重心を左に傾けて」
「任せて!」
ターシャのテキパキとした指示に合わせて、リリアンヌが動く。
ターシャのギア操作にも迷いがなかった。
不規則な揺れが続いていた機体が、にわかに持ち直す。
(あの大人しかったターシャさまが……)
リリアンヌの後を控えめに追いかけていたかつての姿が蘇る。
ターシャはいつも守られる側だったのだ。
(それが……今や、対等な友人になられたのですね)
夕日色の目で前方を見つめ、歯をくいしばるその表情は、かつての彼女にはなかったものだ。
機体が安定し、上昇する。
ハンドルを全力で傾けていたリリアンヌが叫んだ。
「次はどっちに引いたらいいの!?」
両手でギアを操作していたターシャが、素早く周囲を見渡す。
しかし、いつもなら掴めるはずの風の流れが、黒いもやと不思議な空気で全くわからなかった。
「次は……」
迷いが生じた、そのとき――
「右下方に気流の抜け道があります」
静かで、それでいてよく通る声だった。
驚いて振り向くと同時に、一機のシュードが黒いもやを突き抜け現れた。
年若いセントラインの操縦士が、二人の男に挟まれている。
「あなたたち……何故ここに!?」
ターシャとリリアンヌが驚いて声を上げたのも無理はない。
この場におよそ似つかわしくない燕尾服の男、そして、ダヴェニスの郵便服姿の男が、そこにはいた。
「皆さまが心配だったもので」
「領主さまの娘さんたちを行かせて、俺一人残るわけにはいかないですよ」
エドワードは悠然と、テディは無邪気に笑った。
リリアンヌは「呆れた」と呟きながらも、表情が明るくなる。
ターシャもまた安心したように微笑んだ。
「ハームズワース公爵家の方は航空術まで嗜まれているのですね」
エドワードはその冗談に、小さく笑った。
「……えぇ、まぁ、このくらいは一般教養です。ターシャ姫さまこそ、夜会で拝見していたときより随分凛々しくなられたようで」
途端にターシャの頬が赤く染まる。
しっかりとギアを切りながらも、しおしおと俯いた。
「……お恥ずかしいですわ」
消え入るような声で呟かれる。
エドワードは驚いたように両目を瞬いた。
「何を仰る」
心底心外と言わんばかりの真剣な眼差しで、エドワードは夕日色の王女を射すくめる。
「誉め言葉ですよ」
確かに夜会での彼女は美しかった。
ドレスを身にまとい、控えめに微笑み、申し訳程度に相槌を打つ姿は、精巧な人形のようでさえあった。
その佇まいは、社交に消極的だったエドワードの記憶にさえ残っている。
しかし、先ほど受けた衝撃に比べれば、そんな印象など、取るに足らないものだった。
大声を張り上げ、紅潮した頬で風を切り、髪の乱れるのも気にせずギアを操るその姿。
ターシャが雲間に現れたとき――正しく落雷のような衝撃を受けたのだ。
どんな宝石も、その眼差しには敵わない。
どんな猫なで声も、その号令の前には霞んでしまう。
どれほど裾がはためこうと、髪が乱れようと、はしたなさは微塵も感じない。
その姿はどこまでも高潔で、美しかった。
「恥じることなどありません、レディ・ターシャ。私は、そのままのあなたを見ていたい」
冷静さの中に、隠しきれない熱の滲んだ声だった。
ターシャはじわじわと赤面し、そっと視線をそらす。
それに気づいたエドワードもまた、気まずげに視線を外した。無機質な白い肌が、耳元まで微かに赤く染まっている。
いたたまれない空気に耐えかね、リリアンヌが冗談めかして笑った。
「私の前で別の女性を口説くなんて、あなたいい度胸してるじゃない」
「まずい、リヒシュータの琥珀さまがご立腹だ」
テディはそう言って、身震いするふりをすると、白くなるほどハンドルをきつく握っているリリアンヌの手を見つめた。
傷一つなかった綺麗な手に、小さな傷と痛々しい打ち身がいつくもできている。
大切に育てられた貴族の娘。
その薄く柔らかい肌は、こんな荒事には向いていないだろうに。
昔からリリアンヌは、可憐であることに余念のない少女だった。
それなのに、自慢の金髪はほつれ絡まり、白い肌は汚れ、額には汗が滴っている。
本より重いものなど持ったことがない細腕で、いかついハンドルを掴み、肌を傷だらけにして、歯を食いしばっている。
全て、世界の――民のために。
テディは、誇らしげに微笑んだ。
「……あなたはやっぱり、俺たちの自慢のリリアンヌさまです」
「な、何よ急に」
照れているのを隠そうと、強いて不機嫌な声を出すリリアンヌに、テディは気の抜けた笑顔を見せる。
「それに、俺は、今のあなたの方が好きです」
「好きとか! そういう軽薄なことを言わないでくれるかしら!」
二機が並んで高度を下げる。
エドワードは、なお上昇を続ける主人の乗ったシュードを見上げた。
「私たちは、ここで待ちましょう。『そのとき』に備えて」
「『そのとき』?」
ぽかんとする一同に、エドワードは「えぇ」と頷き、自分の機体の中をてきぱきと片付けていく。
「ほら、皆さんも、いらないものは空へ捨ててください。なるべく広く場所が空くように」
「……どうして?」
首を傾げながらも、皆雑然としたシュード内を片付け始めた。




