第百一話 この胸にあふれる想いは
長い年月、何度も夢に見た彼が、そこにいた。
精悍な眼差しと、まっすぐに伸びた体はかつてのままに。
少しだけ痩せた頬で、彼は困ったように微笑んだ。
「いらっしゃるだろうと思っていました、殿下」
その瞬間、急に、体が動かなくなってしまった。
震える唇では、言葉を発せない。
「危険も顧みず、世界を救いに来られたのでしょう。あなたさまはやはりかつてのままだ」
言ってしまいたい。
世界を救いにきたのではない。
あなたに会いにきたのだと。
しかしそのとき、気づいてしまった。
自分は彼の近況を全く知らない。
もしかしたら、今の彼には他に恋人がいるのかもしれない。ひょっとしたら、再婚さえしているかもしれない。
こんな彼を周りは放っておかないだろうから。
かつて夫を置き去りにし、逃げるように離縁した妻が、今さら「あなたに会いにきた」なんて、一体どんな顔をして言えばいいのか。
言葉に詰まったルコットの方へ、ホルガーは一歩近づいた。
「あれから、俺は自分を無理矢理納得させて生きてきました。これがあの方の幸せのため。あの方の意思なのだからと。現に、ダヴェニスでのあなたの活躍は国中に轟くほどでした」
ホルガーは寂しげな中にも少しだけ嬉しそうな微笑を浮かべた。
「遠くからでも、手助けがしたい。そう思わずにはいられませんでした。あなたの活躍を聞くたびに、力が湧きました。あなたの噂だけで、俺は数年を生き延びてきたようなものです。そして、この先もずっと、そうして生きていくつもりでした。しかし」
そこでホルガーは空を見上げた。
裂け目が少しずつ大きくなっている。
銀色の光が濃くなっていく。
「世界が終わりかけている今になって気づいたのです。平穏な日々が続く保証など、どこにもないのだと」
再び視線をルコットに合わせる。
その鋭い眼差しには、揺るぎない決意が込められていた。
「もし、世界が今日終わるなら、俺はあなたと一緒がいい」
世界の音が消えた。
あまりに静かな静寂の中、彼の言葉だけが、まるで清水のように心の中を満たしていく。
「もし今日を生き延びることができたなら、明日もあなたとともにいたい。次の日も、その次の日も」
ルコットの瞳が揺れる。
あまりにもまっすぐに射抜かれて、視線をそらすことさえできない。
瞬き一つままならない。
彼の願いはまるで太陽の光のように、あたたかく、眩しかった。
「最後の日まで、同じ時を過ごしたい。あなたに、たくさんの笑顔をおくりたい」
遠くから見守るのではなく、隣で行く道を守りたい。それがホルガーの真実の願いだった。
「――愛しています、ルコットさん。あなたの優しさも勇気も、あなたが弱さだと思っている強さも、全て」
夢ではない。
幻でもない。
これほど穏やかで優しい、揺るぎない愛があるだろうか。
ルコットが口を開こうとしたそのとき、ホルガーは「お待ちください」と硬い表情でそれを制した。
「……俺はあなたに謝らねばならないことがあります」
そう言って懐から、所々にシワが寄り擦り切れた、一枚の紙切れを取り出した。
ルコットの表情が驚愕で固まる。
「それは……!」
それはかつて、ルコットがしたため残した、離縁状だった。
「……申し訳ありません。あれから何度も役所へ足を運んだのです。あなたを自由にしなければと。それなのに」
ホルガーは苦しげな表情で俯いた。
「……どうしても、提出することができませんでした。カウンターにたどり着くまでに、足が固まってしまうのです」
提出するために持ち運び続けたそれは、ひどくくたびれ、汚れていた。
彼自身の葛藤がそのまま現れているかのようだった。
「『わかりました』と物分かりの良い返事をしておきながら、結局あなたを手放すことなどできなかったのです。嘘をつくつもりは、なかったのですが……」
ルコットはゆるゆると首を振った。
悪いのは彼ではない。
彼につらい役目を負わせたのは、他でもない自分だ。
「……まさかホルガーさまが私を、愛してくださっていたなんて、思ってもみなかったのです」
ホルガーの目が大きく開かれる。
心底驚き戸惑っているのが伝わってくる。
ルコットは小さく笑った。
「愛される理由がないと思っていたのです。私は何の力もない末姫で、容姿を褒められたこともありませんでしたから。教養も特技もない。こんな私が、あなたの妻にふさわしいとは、とても思えなかったのです」
ホルガーが「それは違う!」と叫ぶ。
ルコットはそれを、穏やかな笑顔で制した。
「少なくともあの頃の私にとって、それは真実だったのですわ。褒めてくださるホルガーさまのお言葉さえ届かないほど、私の思い込みは頑なでした」
彼の努力や強さを知るほどに、その思いは膨らんでいった。
彼の隣に立つ自分が、次第にイメージできなくなってしまった。
助けられてばかりの自分。
それが歯がゆくなっていった。
自分も彼を支えたい。助けたい。それだけの力がほしい。
そんな願いは日増しに強くなるのに、どうすれば良いのかまるでわからなかった。
わかるのは、あまりにも世界を知らないという事実だけだった。
「自分の足で立って、世界を知りたいと思ったのです。そこには私のすべきことがあるはずだと。私はそれを、自分の力で探し出したかった」
ホルガーは息をのむ。
なんと眩しい決意だろう。
彼女の真っ直ぐな瞳のなんと美しいことか。
「多くの方に出会いました。たくさんの本を読み、様々なところを訪れて、色々なものを見聞きしました。できること、わかることが増えていく日々は、とても、充実したものでした」
数え切れないほどの幸運に恵まれた日々だった。
たくさんの友人。
居心地の良い部屋。
やりがいのある仕事。
それなのに――
「……それなのに、想うのは結局、あなたのことばかりだったのです」
どんなに誤魔化しても、忘れたふりをしてみても、無駄だった。
強くなっているはずなのに、大切な何かが欠けて、むしろ弱くなってしまったかのような気さえした。
彼に相応しいかどうかなんて、今でもわからない。
ただ、彼のそばにいたい。
彼と一緒に生きていきたい。
その想いだけで良かったのだ。
それだけで、自分はきっと誰より強くなれるのだから。
「愛していますわ、ホルガーさま。私も最期まであなたのそばにいたいです」
迷いもためらいもない、世界を照らすような笑顔だった。
ホルガーは泣き出しそうな表情でルコットを抱きしめた。
もっと早くあなたの苦しみに気づいてあげられたら良かった。
そう言いかけて、やめた。
彼女の苦悩も努力も全て、意味のある、かけがえのないものなのだから。
彼女がこの数年で得たものは、自分のそばにいては得られないものだった。
あの日々は――彼女が一人歩んだ長い旅路は、誇るべき、祝福されるべきものだ。
ホルガーは一度ルコットから離れると、彼女を正面から見つめ、あふれる想いを口にした。
「結婚してください、ルコットさん。どうか俺のそばにいてください。出会った瞬間からずっと、あなたが愛しくて仕方がないのです」
ルコットの頬が薔薇色に染まり、周囲にぱちぱちと星のような魔力の結晶が散る。
蕩けるような笑顔で、彼女はホルガーの腕へ飛び込んだ。
「ずっと、ずっとそばにいます、ホルガーさま」
その瞬間、周囲に拍手がわき起こった。
口笛と喝采があちこちから響いてくる。
「良かったなぁ! ルコットちゃん!」
「やっと伝わったな、大将!」
「まったく、心配したんですからね!」
ホルガーは苦笑し、ルコットの頬を手の甲でそっと撫でる。
愛しい彼女が戻ってきた。
もう一度あの家で、ともに暮らせるのだ。
それだけで、明日がこれほど待ち遠しいとは。
「……明日の朝食は何でしょうね」
ホルガーが問いかけると、ルコットは幸せそうにはにかんだ。
「サンドイッチを作りますわ」
ホルガーは、腰の剣に手を伸ばす。
何が何でも今日世界を終わらせるわけにはいかなくなった。
明日の朝には彼女手製のサンドイッチを、ともに食べるのだ。




