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軍事大国のおっとり姫  作者: 江馬 百合子
第五章 南国 エメラルド
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第百一話 この胸にあふれる想いは


 長い年月、何度も夢に見た彼が、そこにいた。

 精悍な眼差しと、まっすぐに伸びた体はかつてのままに。

 少しだけ痩せた頬で、彼は困ったように微笑んだ。

 

「いらっしゃるだろうと思っていました、殿下」


 その瞬間、急に、体が動かなくなってしまった。

 震える唇では、言葉を発せない。


「危険も顧みず、世界を救いに来られたのでしょう。あなたさまはやはりかつてのままだ」


 言ってしまいたい。

 世界を救いにきたのではない。

 あなたに会いにきたのだと。


 しかしそのとき、気づいてしまった。

 自分は彼の近況を全く知らない。

 もしかしたら、今の彼には他に恋人がいるのかもしれない。ひょっとしたら、再婚さえしているかもしれない。

 こんな彼を周りは放っておかないだろうから。


 かつて夫を置き去りにし、逃げるように離縁した妻が、今さら「あなたに会いにきた」なんて、一体どんな顔をして言えばいいのか。


 言葉に詰まったルコットの方へ、ホルガーは一歩近づいた。


「あれから、俺は自分を無理矢理納得させて生きてきました。これがあの方の幸せのため。あの方の意思なのだからと。現に、ダヴェニスでのあなたの活躍は国中に轟くほどでした」


 ホルガーは寂しげな中にも少しだけ嬉しそうな微笑を浮かべた。

 

「遠くからでも、手助けがしたい。そう思わずにはいられませんでした。あなたの活躍を聞くたびに、力が湧きました。あなたの噂だけで、俺は数年を生き延びてきたようなものです。そして、この先もずっと、そうして生きていくつもりでした。しかし」


 そこでホルガーは空を見上げた。

 裂け目が少しずつ大きくなっている。

 銀色の光が濃くなっていく。


「世界が終わりかけている今になって気づいたのです。平穏な日々が続く保証など、どこにもないのだと」


 再び視線をルコットに合わせる。

 その鋭い眼差しには、揺るぎない決意が込められていた。


「もし、世界が今日終わるなら、俺はあなたと一緒がいい」


 世界の音が消えた。

 あまりに静かな静寂の中、彼の言葉だけが、まるで清水のように心の中を満たしていく。

 

「もし今日を生き延びることができたなら、明日もあなたとともにいたい。次の日も、その次の日も」


 ルコットの瞳が揺れる。

 あまりにもまっすぐに射抜かれて、視線をそらすことさえできない。

 瞬き一つままならない。

 彼の願いはまるで太陽の光のように、あたたかく、眩しかった。


「最後の日まで、同じ時を過ごしたい。あなたに、たくさんの笑顔をおくりたい」


 遠くから見守るのではなく、隣で行く道を守りたい。それがホルガーの真実の願いだった。


「――愛しています、ルコットさん。あなたの優しさも勇気も、あなたが弱さだと思っている強さも、全て」


 夢ではない。

 幻でもない。

 これほど穏やかで優しい、揺るぎない愛があるだろうか。

 ルコットが口を開こうとしたそのとき、ホルガーは「お待ちください」と硬い表情でそれを制した。


「……俺はあなたに謝らねばならないことがあります」


 そう言って懐から、所々にシワが寄り擦り切れた、一枚の紙切れを取り出した。

 ルコットの表情が驚愕で固まる。


「それは……!」


 それはかつて、ルコットがしたため残した、離縁状だった。


「……申し訳ありません。あれから何度も役所へ足を運んだのです。あなたを自由にしなければと。それなのに」


 ホルガーは苦しげな表情で俯いた。


「……どうしても、提出することができませんでした。カウンターにたどり着くまでに、足が固まってしまうのです」


 提出するために持ち運び続けたそれは、ひどくくたびれ、汚れていた。

 彼自身の葛藤がそのまま現れているかのようだった。


「『わかりました』と物分かりの良い返事をしておきながら、結局あなたを手放すことなどできなかったのです。嘘をつくつもりは、なかったのですが……」


 ルコットはゆるゆると首を振った。

 悪いのは彼ではない。

 彼につらい役目を負わせたのは、他でもない自分だ。


「……まさかホルガーさまが私を、愛してくださっていたなんて、思ってもみなかったのです」


 ホルガーの目が大きく開かれる。

 心底驚き戸惑っているのが伝わってくる。

 ルコットは小さく笑った。


「愛される理由がないと思っていたのです。私は何の力もない末姫で、容姿を褒められたこともありませんでしたから。教養も特技もない。こんな私が、あなたの妻にふさわしいとは、とても思えなかったのです」


 ホルガーが「それは違う!」と叫ぶ。

 ルコットはそれを、穏やかな笑顔で制した。


「少なくともあの頃の私にとって、それは真実だったのですわ。褒めてくださるホルガーさまのお言葉さえ届かないほど、私の思い込みは頑なでした」


 彼の努力や強さを知るほどに、その思いは膨らんでいった。

 彼の隣に立つ自分が、次第にイメージできなくなってしまった。

 助けられてばかりの自分。

 それが歯がゆくなっていった。

 自分も彼を支えたい。助けたい。それだけの力がほしい。

 そんな願いは日増しに強くなるのに、どうすれば良いのかまるでわからなかった。

 わかるのは、あまりにも世界を知らないという事実だけだった。


「自分の足で立って、世界を知りたいと思ったのです。そこには私のすべきことがあるはずだと。私はそれを、自分の力で探し出したかった」


 ホルガーは息をのむ。

 なんと眩しい決意だろう。

 彼女の真っ直ぐな瞳のなんと美しいことか。


「多くの方に出会いました。たくさんの本を読み、様々なところを訪れて、色々なものを見聞きしました。できること、わかることが増えていく日々は、とても、充実したものでした」


 数え切れないほどの幸運に恵まれた日々だった。

 たくさんの友人。

 居心地の良い部屋。

 やりがいのある仕事。

 それなのに――


「……それなのに、想うのは結局、あなたのことばかりだったのです」


 どんなに誤魔化しても、忘れたふりをしてみても、無駄だった。

 強くなっているはずなのに、大切な何かが欠けて、むしろ弱くなってしまったかのような気さえした。


 彼に相応しいかどうかなんて、今でもわからない。

 ただ、彼のそばにいたい。

 彼と一緒に生きていきたい。

 その想いだけで良かったのだ。

 それだけで、自分はきっと誰より強くなれるのだから。


「愛していますわ、ホルガーさま。私も最期まであなたのそばにいたいです」


 迷いもためらいもない、世界を照らすような笑顔だった。

 ホルガーは泣き出しそうな表情でルコットを抱きしめた。


 もっと早くあなたの苦しみに気づいてあげられたら良かった。

 そう言いかけて、やめた。

 彼女の苦悩も努力も全て、意味のある、かけがえのないものなのだから。

 彼女がこの数年で得たものは、自分のそばにいては得られないものだった。

 あの日々は――彼女が一人歩んだ長い旅路は、誇るべき、祝福されるべきものだ。

 ホルガーは一度ルコットから離れると、彼女を正面から見つめ、あふれる想いを口にした。


「結婚してください、ルコットさん。どうか俺のそばにいてください。出会った瞬間からずっと、あなたが愛しくて仕方がないのです」


 ルコットの頬が薔薇色に染まり、周囲にぱちぱちと星のような魔力の結晶が散る。

 蕩けるような笑顔で、彼女はホルガーの腕へ飛び込んだ。


「ずっと、ずっとそばにいます、ホルガーさま」


 その瞬間、周囲に拍手がわき起こった。

 口笛と喝采があちこちから響いてくる。


「良かったなぁ! ルコットちゃん!」

「やっと伝わったな、大将!」

「まったく、心配したんですからね!」


 ホルガーは苦笑し、ルコットの頬を手の甲でそっと撫でる。

 愛しい彼女が戻ってきた。

 もう一度あの家で、ともに暮らせるのだ。

 それだけで、明日がこれほど待ち遠しいとは。


「……明日の朝食は何でしょうね」


 ホルガーが問いかけると、ルコットは幸せそうにはにかんだ。


「サンドイッチを作りますわ」


 ホルガーは、腰の剣に手を伸ばす。

 何が何でも今日世界を終わらせるわけにはいかなくなった。

 明日の朝には彼女手製のサンドイッチを、ともに食べるのだ。





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