第百話 ふたたび、めぐり逢うとき
「すごい勢いだねぇ。ルコットちゃん見てる?」
ハントが振り返ると、ルコットは「はい」と速足で駆け寄った。
ホルガー率いる陸軍部隊は、正体不明の砂ゴーレムを片っ端から破壊していた。
勢いのついた一団に続き、エメラルドの国軍も参戦している。
劣勢が一気に攻勢へと転じていた。
「こちらの避難誘導も片付いた。さて、ルコットちゃん。君はどうする?」
「加勢に行きますわ。攻撃魔法も一通りは習いましたから」
アスラ、ベータ、ブランドン、サイラスはもちろん、マシュー、フュナ、シス、ハイドル、ルイ、オルトまでもが、ゴーレムを食い止めにかかっていた。
戦闘専門ではなくとも、皆それぞれ腕に覚えはあるらしい。
「私も行くわ、ルコット! ここの守りは任せます、ハントさま」
ヘレンが人形サラを抱え、ルコットの後に続く。
「あぁ、君が付いているなら安心だ。……正しく一騎当千だからね。だが、いざというときまで、その力は温存しておきなさい」
ヘレンは手で了解のサインを送ると、地上へと飛び降りた。
* * *
「銃を持て! 剣をかざせ! 何人たりとも我らが故郷を脅かすことは許さぬ!」
ダンラス王の号令に、ウォルドを始め、国王軍が沸き立つ。
「敵は少ない、もう一踏ん張りだ! 余裕のある者は前線に加勢せよ! 我らが恩人に決して怪我を負わせてはならぬ!」
「おう!」
今やエメラルドもフレイローズもなかった。
人手の少ないところに続々と援軍が到着し、互いの窮地を互いが救っている。
おかげで大した怪我人も出ていないようだった。
「ダンラス王さま!」
そこへ、ルコットが息急き切って駆けて来た。
「……何故そなたがここに」
真剣な面差しで向かい合う女性は、かつて冥府の悪魔と政略結婚させられ、離縁した少女。
てっきり元王族として竜の背に避難しているものとばかり思っていた。
その問いはルコットには届かなかったらしい。
そのまま質問が返ってくる。
「ホルガーさまはどちらに!?」
髪を乱し、砂埃に汚れながら、それでも彼女は、これまで出会ったどんな女性より美しかった。
「……なるほど、そういうことか」
彼女がこれほど美しいのは、彼に恋をしているから。
そして――
――そなたは、『彼女』を愛しているのか。
――はい。幸いなことに。
「……まったく、世話の焼ける夫婦よ」
「え?」
ダンラス王は、呆れたような優しい微笑を浮かべた。
「急げよ娘。時は有限だ。奴ならあそこに……」
そう言って、指を指した、そのときだった。
頭の中に、腹の底に響くような声が、流れ込んできた。
――小癪な人間どもめ。大人しく地に倒れるのが世界のためであるというのに。
周囲の兵士に動揺が走る。
漆黒の空が、まるで舞台の幕のように上がっていく。
――やむを得まい。私が直々に手を下そう。
空が、眩く銀色に光り始めた。
その瞬間、地面が、まるで溶かしたゴムのように、ぐにゃりと歪んだ。
「うわあ!」
「何だ!?」
崩れていく足元。
人々は抵抗する術を持たなかった。
王でさえ、どうすることもできない。
――悲しむことはない。その間もない。さぁ、無に還るが良い。
避難する暇もない。
対抗策もない。
誰もが、万事休すだと諦めた。
そのときだった。
「最愛の幻人形、私の声を聞いて」
辺りに滔々と澄んだ声が響きはじめた。
ルコットが振り返ると、そこには、輝く魔法陣に囲まれたヘレンが、両手を組み、祈るように呪文を唱えていた。
「ヘレンさん、いけません! こんな広範囲で使っては体が……!」
ヘレンはうっすらと笑みを浮かべた。
「でも、私は皆を見捨てられない。全員助けたい。それなら、こうするしかないじゃない」
「ヘレンさん……」
円陣が徐々に光度を増していく。
一重、また一重と、大輪の花が開くように、その範囲を広げていく。
「この祈りは、不滅の愛。決して褪せることのない確かな幻想。最愛の幻人形、二度と戻らない日々よ。あなたの愛した人々を、私もまた愛する。幻想よ、永遠たれ」
ヘレンの背後がぼんやりと光り始める。
そこには、何かが、いた。
「……行くわよ」
ヘレンの呟きに、背後の何かが頷く。
ヘレンの灰色の長髪が、舞い上がった。
「展開!」
その瞬間、くるくると回転していた魔法陣が、地平線の遥か彼方まで広がっていった。
「力を貸して、お父さま、お母さま」
ヘレンの声に呼応するように、地面の下から、白い巨大な何かが浮かび出てくる。
「うわあ!」
「今度は何だ!?」
それは、手のひらだった。
並の大きさではない。
彼方の指先が見えないほどだ。
それでもそれが手のひらだとわかったのは、その手が、巨大な美しい女性に続いていたためである。
人々は、純白の空飛ぶ絨毯に掬い上げられたかのように動く手のひらの上で座り込み、天高くそびえ立つ、灰色の髪の女性を見上げていた。
彼女は、ヘレンの小さな人形、サラだった。
しかし今このとき、彼女は人形ではない。
手のひらは温かく、微笑みは優しい母のものだった。
体が巨大でさえなければ、人間そのものだっただろう。
サラは、見事全員をその手で救い上げると、空飛ぶ銀竜の背へと降ろした。
ハントは背の上で、苦虫を嚙み潰したような顔をして呟く。
「……使ってしまったか」
「最愛の幻人形、私の声を聞いて」は、いうなれば一種の召喚魔法だった。
通常召喚魔法は、自身の膨大な魔力を捧げ、神や精霊に力を借りる術である。
それだけの魔力を備えた魔術師は歴史を見ても稀であり、彼らはもはや伝説のような存在であった。
そんな彼らでさえ、召喚できたのは無作為に選ばれた神や精霊のみ。
否、正しくは、神や精霊が気まぐれに手を差し伸べていたに過ぎない。
ヘレンのように死者を召喚するなど、異例の禁術だった。
彼女の父の魔力の込められた、母親の作った人形。
それが、彼女の中に秘められた、取るに足らない微かな魔力に呼応し、可能となった、まさに奇跡の術なのである。
「ただでさえ消費の激しい術を、こんな広範囲に使うとは……まったく困った弟子だ」
ハントは急ぎ足で人波をかき分けながら、銀色に光る空を見上げる。
「……いよいよ、親玉の登場だね」
* * *
竜の背に足を下ろした瞬間、ヘレンはへたりこむようにその場に倒れた。
「ヘレンさん!」
ルコットの手が届くより先に、ダンラス王がしっかりと彼女を受け止める。
「……見上げた女だ」
「ダンラス王さま……」
泣き出しそうなルコットに、ダンラス王は心配いらぬと請け合う。
「魔力切れだろう。あの魔術師のところへ連れて行く」
「私も……!」
ダンラス王は首を振った。
「こやつは余に任せておけ。そなたにはまだ、為すべきことがあるだろう」
ルコットは、伸ばしかけていた手を静かに下ろした。
そうだ。
ここで歩みを止めては、彼女の捨て身の魔術が無駄になってしまう。
「……こやつのためにも、そなたは走り続けろ。あやつは一人でも行ってしまうぞ」
ルコットにもそれはわかった。
彼は皆を守るために、たった一人で行くだろう。
たとえどんなに危険でも。
「……どうかヘレンさんを頼みます」
ダンラス王の歩みと反対側に、ルコットは走り出した。
彼は強い人だ。
一人でだって、何でもできる。
剣では誰にも負けないだろうし、どんな逆境でも良策を見つけられるくらい頭が良い。
(昔の私ならきっと、こう思っていました。私なんかが行っても足を引っ張るだけだ、と)
ひょっとしたらそれは事実なのかもしれない。
単純な力量だけを考えるなら。
それでも、信じたい。
二人だからこそ、起こせる奇跡があるはずだと。
銀色だった空がさらに明るくなっていく。
まるで太陽が世界そのものを消そうとしているかのように。
眩しくて、目も開けていられないような中、それでもルコットは走り続けた。
ただ一人、彼の面影だけを求めて。
よろめく足も、切れる息も気にならない。
自分の足音さえわからない。
そんな中――
「殿下……」
驚きと戸惑いの混じったかすれ声だけが、ルコットの鼓膜を打った。
真っ白に塗りつぶされた光の中で、立ち尽くす彼だけがはっきりと瞳に映った。




