第十話 回想 姉の結婚
その後、アスラがどのような人生を歩んできたか、ホルガーには知る由もない。
宣言通り彼は軍に入ったが、任されるのは専ら実家近くの東方国境付近の警備や、小競り合いの鎮圧だった。
姉が魔導師団の第一魔導特務司戦部隊で「紅蓮の暴れ龍」と呼ばれていることだけは知っていたが、訪ねる勇気も口実もなかった。
そして、姉からも、何の音沙汰もなかった。
そのうち、力を見出されたホルガーは、徐々に戦禍の激しい戦場に送り込まれるようになった。
故郷のため、祖国のため。
そう念じながらも、時折、自分が何故両手を血に染めているのか分からなくなる。
そんなときどうしてだか思い出すのは、故郷の懐かしい寝室、姉の美しい子守唄と、優しい体温だった。
あの優しい姉も戦っているのだ。
それが、どこまでも悲しく、心強かった。
さらに数年が経つと、最前線に立つことが増えていった。
その頃には、もう、迷いも恐れもなかった。
人は、何かしら才能を与えられ、使命を負って生まれてくる。
そして、自分に与えられた才は、幸か不幸か武であった。
人を殺めなければならないが、等しく救うこともできる。
それを正しく理解し、受け入れていた。
最前線に出るようになり、変化したことと言えば、そうした心境の変化と、もう一つ、「シセン」という単語を多く聞くようになったことだった。
戦況が危うい。
このままでは全滅してしまう。
一度退避を。
そんな緊迫した状況で、その言葉は、正に希望の光だった。
「応援だ!」
「シセンが来たぞ!」
その号令で、先ほどまで打ちひしがれていた部隊が、嘘のように沸き立つ。
王室魔導師団長直轄部隊、第一魔導特務司戦部隊、通称、シセン。
数多の戦場を渡り歩き、鬼神の如く敵を屠る彼らは、正しく司戦であった。
司戦援護の号を聞くと、ホルガーもまた周囲とは別の安堵を覚えた。
後方に姉がいる。
あの鬼のように強かった姉が。
それならば、何があっても大丈夫だ。
この戦、負けることはない。
薄情な酷い姉だけれど、誰よりも強い少女だったのだから。
ホルガーは今だに知らない。
彼女が不得手な支援魔法で、彼を神の加護にも近い力で守っていたことも。
紅蓮の暴れ龍の弟だと知られ、狙われぬよう、強いて接触せぬようにしていたことも。
泣きたいほど辛いときにはいつも、あの子守唄を歌っていたことも。
それから後もホルガーは、軍人として自身が為すべきことだけをただひたと見つめ、生き続けた。
十年もすれば、力も度胸も、策を練るだけの智もつき、かけがえのない仲間もできた。
いつの間にかそこは、彼にとって守るべき場所になっていた。
相変わらず姉に会うことはなかったが、紅蓮の暴れ龍の噂はどこにいても聞こえてきた。
それでいい。
元気でいるなら、それでいい。
いつしかそんな風に思えるようになっていた。
そうして季節が何度も巡り、姉までは遠く及ばなくとも、二つ名をつけられる程度には経験を積んできたあるとき、彼は妙な噂を耳にした。
紅蓮の暴れ龍が、薬事室室長を追い回していると。
その自重を知らない派手なアプローチは、軍内部部署の垣根を越え、即日で陸軍所属の彼の耳に入ってくる程だった。
軍の内部恋愛は禁止されていない。
しかし、いかんせん相手とやり方が悪かった。
何故よりにもよって、あの地味な室長なのか。
二人に何があったのか。
そんな勘ぐりを入れられるのは無理からぬことであったし、忍んで言い寄ればいいものを、暴れ龍はいつでも真っ向勝負だった。
とうとう、軍内で緘口令が敷かれた。
師団長直々の命だったらしい。
しかしそんな命令がなくとも、彼女の色恋話を外部で吹聴するような命知らずはいなかっただろう。
それからまた数週間が経過し、皆が大抵のことでは驚かなくなってきたある日、本部所属の軍関係者全員が、講堂に集められた。
式典を除いてこんな形で召集がかかるなど、正しく異例であった。
重ねて、当時あまり戦況の良くない地帯があったため、皆「これまでにはない重大な命が下されるのだろう」と予想していた。
壇上には、魔導師団長ハント=ジュエルローゼと、陸軍大将レインヴェール伯サイラス=クリスティ。
緊迫した空気の中、いつになく困った様子で眉を下げた老大将は、ほぅとため息を吐いた。
「…どう言えばいいものか」
そう、若き師団長を見やった。
対するハントは、至極冷静な面持ちで頷くと、一歩前へ出た。
金糸の髪が腰の下でしゃらりと揺れる。
あの容姿で、戦場に出れば鬼神の如く戦うのだから、人間とは分からないものである。
ホルガーは、ぼんやりとそんなことを考えながら、ハントへ前を譲ったサイラスを見て、小さく笑った。
あの人の良い大将も、戦場では大概だ。
普段はあれほど腰の低い老紳士であるのに、一度剣を握れば、地殻さえ割りかねないのだから。
とうとう子に恵まれなかったという老大将は、部下たちをまるで我が子のように可愛がった。
それを「公私混同だ」「大将の地位には不適任だ」と口汚く罵る者もいたが、彼はそんな者たちに対しても誠実であった。
荒くれ者の多い軍が、今こうして一つにまとまっているのは、ひとえに彼の人徳によるところが大きいとホルガーは感じている。
実際、故郷を離れささくれ立っていたホルガーの心を癒したのも、この老紳士であった。
どこまでもお供しよう。そう心に誓っているのは、何もホルガーだけではないだろう。
一方、陸軍所属のホルガーは、ハント=ジュエルローゼに関してほとんど無知であった。
そもそも、彼の情報は家柄、出自、年齢に至るまで国家機密とされていた。
その扱いから彼の魔導師としての価値も察せられよう。
しかし、女と見紛う程の美貌に、柔らかな物腰。
ホルガーも共に戦場に出るまでは、正直なところ、その実力を見くびっていた。
結果、心に深い傷を負うことになった。
もう二度と彼とまともに並び戦うことのないよう、切に願うばかりである。
そんな本部の双璧とも言える二人が、これほど言い淀む何か。
あちこちから生唾を飲む音が聞こえてくる中、ハントはようやく口を開いた。
「前置きは省くことにしよう。第一魔導特務司戦部隊所属アスラが、薬事室室長マシュー殿と共に姿を消した」
しん、と場内が静まり返った。
むくつけき戦士たちがひしめき合っていることが信じられぬほど、静かな時が流れる。
ホルガーもまた、頭が真っ白になっていた。
姉が、いなくなった。何故。どこへ。
その混乱と沈黙を破ったのは、やはり困ったように苦笑したサイラスであった。
「心配はいらぬ。攫われたわけではない。所謂駆け落ちというやつだ。置き手紙も預かっておる」
「軍人の離反は大罪だが、今回は特例で、彼らを追うこともしない。戦力としては大きな痛手だが、それでも私は、大切な部下の幸せを願いたいと思う。皆も異論はないね」
冷静に考えれば酷い暴論であったが、後光差すハントの微笑みはその瞬間正義であった。
恐らく、あの場で唯一冷静であったのは、ホルガーくらいのものだったろう。
彼は一言、誰にも拾われぬほどの声量でぼそりと呟いた。
「……姉さん」
もはや言葉もなかった。
かくして、ホルガーの姉は大した咎めを受けることもなく軍を離れ、実家近くの湖畔に居を構え、そこで夫婦仲睦まじく暮らしている。
結果としてこれで良かったのだと思えたのは、それから一月ほど後のことだった。
湖畔の新居でごくごくひっそりと行われた形ばかりの結婚式。
泣きながら夫へ抱き着く姉は、世界一幸せそうに見えた。




