彼女のことば
僕はいつもいつも適当に生きてきた。
本気になることが格好悪いような気がして。
真剣になって負けることが嫌いで。
それを変えなきゃと思っていたけど、変える機会がなかった。
代わり映えのしない毎日を生きることしかできない。
「都築君って、面白い絵を描くよね」
佐伯未菜は図工の授業で僕のスケッチブックをのぞき込んでそんなことを言った。
「馬鹿にしてる?」
「違うよ。褒めてるの」
「そっか」
「そう」
僕は家にスケッチブックを持ち帰って自分が描いた絵を何度も見返してみる。
どう見ても、それが面白い絵とは思えなかった。
授業をまじめに受けている体を見せるためだけに適当に描いた、ただの青い花の絵だ。
面白い絵。
僕はそれがどんなものかわからなかった。
小学校の間、佐伯未菜と会話したのはそれだけだった。
6年生になってクラスが離れたこともあるけど、特に話をする理由もなかったからだ。
けど、卒業する1年とちょっとの間、僕はよく佐伯のことを見かけていた。
テニスクラブに入っていた佐伯は、よく僕が下校するときグラウンドでテニスをしていた。
その時の佐伯はいつも楽しそうに笑っていた。
「あ。都築君。同じクラスなんだね」
中学校に入って最初の日に僕は佐伯に笑顔を向けられた。
「うん。でも同小の奴他にもいるでしょ」
「でも男子では話したことあるの都築君だけだよ」
「そっか」
「うん。そう」
僕が驚いたのは、佐伯が僕と話したのを覚えていたことだ。
一度だけ二、三言の会話をよく覚えていたな。
余程人生に大した出来事がないから、どうでもいいことでも憶えてるんだなきっと。
僕はそう考えることにした。
このころ僕は初めて友達といえる存在と出会うことができた。
といっても熱い友情で結ばれた部活の仲間とかではなく、ただ帰宅部の仲間で、買い食いの共犯者というだけだ。
コンビニで買った菓子を、公園や友達の部屋でソシャゲをやりながら食べる。ただそれだけだ。
中でも佐藤慶壱というメガネ男子とは家が近かったので特に仲良くなった。
どうでもいいことを毎日語り合う仲というやつだ。
佐伯とは中1の間、同じクラスということもあって、時々会話することがあった。
でもそのほとんどは「おはよう」や「ばいばい」といった挨拶程度のことだったが。
冬になって。
僕は放課後の渡り廊下で佐伯の姿を見つけた。
彼女は体操着姿で、渡り廊下と体育館の隙間で膝を抱えて泣いていた。
「佐伯さん?」
つい声をかけてしまった。
佐伯は顔を半分だけあげて、すぐに元に戻した。
「こないで」
それだけ言って、それから何もしゃべらなかった。
佐伯のすぐ横にはテニスラケットが置かれている。
佐伯はソフトテニス部に入ってたはずだ。
部活でなにかあったんだろうか。
僕はかける言葉もみつからず、と言ってその場から立ち去ることも出来なかった。
ただ彼女のいう通り、彼女に近づかず、少し離れた場所に立つことしかできなかった。
この時僕は痛感した。
今まで適当に生きてきたせいで、こんな時どうすればいいのか全く分からなない。
僕の思考は空回りを続けた。
ずっと長い時間がたってから、
「あっちいって」
佐伯はようやくそれだけ僕に言った。
僕は何も答えることもできずに、その場から立ち去った。
それから佐伯と話すことはなくなった。
彼女は僕と目が合うと僕を避けるようになっていた。
軽蔑されたのかもしれない。
それも仕方ないことだと思う。
客観的に見れば、あの時の僕は気持ち悪い以外の何物でもない。
中2になって佐伯とクラスが離れても、僕の生活はほとんど変わり映えがしなかった。
なにしろ授業を受けて家に帰るだけの毎日なのだから変わりようがない。
夏になって、買い食い友達の佐藤慶壱から休日に呼び出しを受けた。
指定された公園へ行くと佐藤と背の低い女子が待っていた。
彼女には見覚えがあった。
佐藤の家に遊びに行ったとき、たまに見かけていたから。
佐藤の妹だ。
「妹の日向」
「うん。知ってる」
「……こんにちわ」
「日向が、お前の事好きなんだって。付き合ってくれないか」
僕は迷った。
僕と彼女とは全くと言っていいほど接点がない。
同じ学校と言っても会うことはなし、佐藤家に遊びに行った時も会話すらしたことがない。
だから、彼女を好きとか嫌いとかいう感情すらわかない。
まして―。
「付き合うとか考えられない」
という結論になる。
「―――っ!」
佐藤の妹は、僕の返事に息をのむと、目に一杯涙を浮かべて、無言でその場を立ち去った。
佐藤は僕をにらみ返す。
「お前、振るにしても言い方があるだろ?」
「ごめん。僕もテンパってて――」
佐藤は僕の謝罪に返事をせず、妹を追いかけてその場から立ち去った。
佐藤とはその日から遊ばなくなった。
佐藤は積極的に新しい友達を開拓したようで、いつの間にか別のグループで楽しくやっているようだ。
逆にその日から佐藤日向と顔を合わせる機会が増えた気がする。
いや、今までも会ってたけど僕が気づかなかっただけかもしれない。
廊下や昇降口で顔を合わせるたびに、えらく怖い目で睨まれたあと、プイっと顔を逸らされる。
本気で嫌われたようだった。
中学も3年生になるといつの間にか付き合っている男女というのが誕生している。
けど知らない間に女子に嫌われていた僕には全然関係ない世界の話だった。
それに高校受験のために、買い食い仲間たちが塾に通い始めると、僕の中学での交友関係はあっという間に消滅してしまった。
夏休みになって、郊外のショッピングモールの文具屋に出かけたとき佐伯の姿を見かけた。
彼女は男子と一緒にフードコートでパフェを食べていた。
男子の方は見覚えがある。
確か、バスケ部部長で生徒会役員という学校でも有名人の一人だ。
佐伯は楽しそうに笑っていた。
僕は楽しくはなかった。
でも、ショックとか絶望とか、悲しいとかそういう感覚はなかった。
佐伯とはこのまま疎遠になっていくんだろうなという、寂しさを感じた。
2学期に入ると本格的に受験勉強が始まる。
いままで漫然と生きてきた僕も、この時ばかりは周りや家族のプレッシャーに負けて参考書を開くことが多くなった。
開いただけでそのまま机の上に放置するのだが。
高校受験はバカバカしいものだった。
少子化の時代、近所のごく一般的な公立高校へ入学するのにテストの成績など関係はないと思い知らされる。
要は内申点であり、中学生活を普通に生きてきた僕にはありがたいことだった。
長い冬が終わり。
春が訪れるころ。
僕と佐伯さんはいつの間にか卒業の日を迎えていた。
長くつまらない卒業式のあと、ホームルームで卒業証書が渡されるともうこの学校でやることはなくなってしまう。
昇降口から外へ出ると、人だかりが出来ていて、同級生たちが在校生とともに涙を流している。
「先輩」
ふいに佐藤日向から呼び止められる。
いつものように怒りを孕んだ表情で僕を見上げている。
「私。彼氏ができました」
「そう、なんだ」
「私の彼氏、バスケ部の前部長で生徒会の副会長だった人です。すごいでしょう」
「うん。すごいね。よかった」
「―――っ!!」
佐藤日向は僕の返事に息をのむと、目に一杯涙を浮かべる。
「バカ最悪!!」
彼女は大声でそう叫ぶと、脱兎のごとくその場から立ち去って行った。
「都築、言い方を選べって言っただろ」
声のした方を向くと、佐藤慶壱が胡乱な表情で立っていた。
1年半ぶりに佐藤とした会話は、あの時の続きだった。
「僕はあの子が何を言って欲しいかなんてわからない」
「だろうな。都築、お前はクズだよ。絶対に日向をお前になんかやらねえ」
佐藤は俺を睨みつけたあと、肩を怒らして佐藤日向の立ち去った方へと歩き出した。
その時、僕は気づいた。
パズルがカチリとハマった音がした。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
「佐藤はあの子が好きなんだね」
それは失言だった。
僕は口に出してから気づいてしまった。
日向には今彼氏がいるらしいし、なにより慶壱と日向は兄妹だ。
これは、慶壱にとって絶対触れられて欲しくない場所だった。絶対にだ。
言い訳をする間もなく、佐藤の強烈なストレートが僕の右頬をぶち抜いていた。
視界がぐるんと転回する。
空が見えて、雲が見えて、校舎が見えて、人ごみが見えて。
人ごみの視線はみんな僕に集まっていた。
佐伯もいた。驚いた表情で僕を見ている。
気付けば激しい痛みとともに、僕はアスファルトの地面に背中を打ち付けていた。
「お前に、俺の何がわかる! あぁ!?」
佐藤は倒れた俺に馬乗りになると、叫びながらさらに拳を振り上げた。
ああ。
僕は今まで何をしてきたんだろう。
適当に生きてきて何を得たんだろう。
本当に何もない。
何も残ってない。
それから。
佐藤に2発目を殴られることはなかった。
周りの教師たちが佐藤を押さえ込み、俺は両手をつかまれ佐藤から引き離された。
僕はそのまま保健室につれていかれ、保健の先生から口の中の確認と消毒をしてもらった。
怪我は衝撃の割にたいしたことなかった。
生徒指導の先生が来て佐藤との関係について色々聞かれたが、僕は簡潔に、自分の失言で佐藤を怒らせてしまったことを伝えた。
それで終わりだった。
怪我の処置と、学校の聞き取りから解放された僕は、日も暮れかかった学校の廊下に一人放り出されてしまった。
また佐藤と顔を合わせないよう、時間をずらして帰らせるという先生達の対応のせいだ。
ため息を一つ。
どうしてこうなったなんて考える余地もない。
適当にいきてきた所為だ。
笑いがこみ上げてくる。
「ははは…」
笑うとどうしてだか涙が溢れて来た。
悲しいわけじゃない。
悔しいわけでもない。
ただただ、寂しかった。
僕はこの学校で1人涙を流す場所を知っていた。
だから僕は泣くためにその場所へと向かった。
体育館と渡り廊下の間に少しだけ隙間があって。
そこに座ることができる。
そこは周りから死角になっていて、泣くには便利な場所だった。
今まで泣く場面があるほど人生に充実してない僕にとってここは無用な設備だっけど、今日だけは存分に使わせてもらうことにしよう。
足音がした。
足音は僕のそばまで近づいて、そこで止まった。
僕は顔をあげなかった。
「都築君」
聞き覚えのある声にはっとなった。
思わず顔をあげると、佐伯未菜が僕のそばに立っていた。
「大丈夫?」
「どうしてここに?」
「私が知ってて、都築君も知っている落ち込む場所ってここしかないから」
「そっか」
「そうだよ」
そういって佐伯は微笑んだ。
「あ、いや。そうじゃなくって。なんで僕に――」
会いに来たのか。
「卒業する前にお礼をいいたくて」
「お礼って…何を?」
「あの日の、ここでのこと」
それから佐伯が言ったことをまとめるとこうだ。
「あの日、私は部活の試合に負けて泣いていたの」
「悲しくで悔しくて、全部どうでもいいって思ってたけど」
「都築君が一緒にいてくれたから、気持ちが楽になった。ありがとう。感謝してる」
それだけだった。
疑問に思う事はたくさんあった。
どうして、あっちにいってと言ったのか。どうしてその後僕の事を避けていたのか。こんなところにいて夏に見た彼氏?的な人との関係は大丈夫なのかとか。
でも今はなんとなく、そんなことはどうでもよかった。
「もう一つ。話したいことがあるの」
佐伯は僕の隣に座りこんだ。
渡り廊下と体育館の隙間は狭くて、二人は肩が触れ合う距離に近づく。
「私、高校行ったらテニス辞めるの」
「そうなんだ」
「うん。私には向いてなかったみたい。勉強の方が得意だし」
佐伯は県内でも有名な進学校に合格していた。これから勉強に集中するってことなのかな。
「でもね」
佐伯は僕の顔を覗き込んで言った。
「都築君は、絵、描くのやめないでね」
僕は大きく目を開いて佐伯の事を見返してしまった。
正直驚いた。不意を突かれた。
「なんで」
それ以上言葉が続かなかった。
僕は多分誰にも、親にだって絵を描いていることをはっきりは言っていない。
佐伯に絵の話をされてから、5年の間。
誰も僕のやっていることに興味すら持ってないはずだった。
「だってさ、時々シャツに絵具ついてたし。文房具屋さんで画材買うのみかけたし、それにほら」
佐伯はおもむろに僕の手を取った。
「ペンだこ。こんなおっきいの、受験勉強頑張った私でもできないよ」
佐伯が俺の人差し指と薬指をむにむにと動かして「かたいかたい」と笑っている。
「でも、そんな本気でやってるわけじゃないし」
「それも知っている、都築君の生き方適当だからなー。それでも今まで続けてきたんでしょ」
「…面白い絵ってどんな絵か描いてみたくて」
今度は佐伯が驚く番だった。
「もしかして、あの時の話。あれだけで続けってるってこと?」
「そう…かな。多分」
「はー…すごいよ、都築君」
「僕はすごくない……」
「私は好きだよ。都築の絵」
「一回しか見たことないよね」
「うん。でも、あの時、私は、面白いっていったけど、本当はこう言いたかったの」
「すっごくいい絵で、感動したって」
「……っ」
「だから都築君は絵、やめないでね」
佐伯はそういってもう一度笑った。
それから二人で今までの思い出を話し合った。
僕が佐藤に殴られることになった顛末や、夏に見かけた佐伯と一緒にいた男子のこと。あの日あいつは佐伯に告白したが、佐伯はあいつの女遊びの噂を知っていて、見事に振ってやったとか。
いろんなことを話して。
暗くなって。
僕と佐伯は「ばいばい」と軽い別れの挨拶を交わして、それぞれの家に帰った。
家路への暗い夜道で一人、空を見上げると。
満天の星空が広がってた。
僕はこの5年間を適当に生きてきた。
ほんとうにどうしようもなく適当に。
たった一つ。
佐伯未菜があの時言ってくれた言葉だけを本物だと信じて。
そしてこれからも、僕は彼女が言ってくれた言葉を目印に満天の星空を歩き続ける。