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アウトレットモールの片隅で

作者: 落葉愚人

一 

 最近になって日本中のあちこちに、巨大なアウトレットモールが出現中だ。

 その中の殆どは、テナントで、そこから上がるテナント料で、それは成り立っている。

 テナントが集客できない場合は、6か月の猶予ののちに、退去させられる。

 見たことがあるかもしれないが、退去は素早く行われ、一晩で終わらせなければならない。

 その次の経営者が片づけとともに設置を始める。

 要は、翌日の営業までにすべては完結していなければならないのだ。

 顧客は、そこにいままであったかのように行きかう。

 前の経営者は、そのアウトレットモールの地下にある一室に在庫とともに押しやられる。

 そこで在庫の整理をする期間は5日と決まっていた。

 それは本当にみじめで、誰もが泣きながら、片づけをすることになる。

 一か月のノルマがそれぞれの店に課せられ、それを達成できない店は、様々なセールを打ち出し、顧客の確保をめざす。その中には、自分で購入してでも、出店を行うものさえ出始める。

 美樹が軽食をそのアウトレットモールで始めたのは、10年ほど勤めた会社をリストラされ、再就職を希望しつつも、30過ぎのOLを雇う企業などなかったからだった。

 女性の時代だ、何とかミックスは声を高らかにアピールするが、所詮日本の企業は、なんら変わることのない、男尊女卑、若尊老卑のなかで経営は成り立っている。

 若い者は何れ歳をとり卑へとかわる。ましてや女性はそうだ。未だに日本社会はその域から脱却できないでいる。

 美樹はその郊外のアウトレットモールができるという話を聞き、出店説明会に参加した。

 説明会では、そのアウトレットモールが、どれだけの集客力があり、可能性として月々いくらの収益が見込まれるという話だ。

 テナント料は、思ったより低く、保証金500万、毎月30万のテナント料を支払うというものだった。集客ノルマは月にして500人で一日あたり、15人もあれば達成可能だ。

 ただしテナント料のことを考えたとき、客単価が800円としたときには、12,000円ほどの売り上げにしかならない。月で30日稼働したとしても、どんなに最低でも625人は必要だ。

 もう何日働いただろう。既に、このアウトレットモールか開店して1年が過ぎようとしている。最初はこのアウトレットモールの片隅にも客は押し寄せていた。それも次第にメインストリートが中心になり、客足は遠退いた。

 朝、9時に出勤して、夜は店を閉めて会計と仕入と仕込みと帰宅は12時すぎだ。

 思った以上に、売り上げは伸びていない。

 最初の2か月は、びっくりするくらい売り上げが、伸びていたが、このアウトレットモールの近くにもっと大きなアウトレットモールが出現し、顧客がとられてからは、売り上げも、ジェットコースターの落下並に落ちてくる。

 平日ともなると通る人波もまばらで、これじゃ売り上げも伸びないのも理解できた。

「大セールやってます。2割3割如何ですか」

 美樹の隣のガンマン風のジーンズ店の店主の声が、やたらと響いてくる。

 もうすぐ、お昼時になろうとしている。

 客足は、まばらで、この時間帯で、顧客は2名それもオレンジシュースとコーヒーしか売れていない。

 カウンターの中で、外を通る人を見送る。

 一人の店の中は静まり返っていた。テーブルでは、カップルが声も上げるのも申し訳なさそうに、ひそひそと話をしていた。

 一人の男が、店に入ってきた。

 髪はオールバックで、中肉中背、ジーンズにキャメルのコート、黒縁のめがねをかけ、どことなく芸術家か哲学者を思わせる。

 彼は、店を一通り見渡すと、美樹に声をかけてきた。

「店員募集を見た者ですが。」

 内ポケットから茶封筒を取り出し、美樹へと渡した。

 店員募集の広告を美樹は出していなかった。

 にもかかわらず、茶封筒の中には、確かに美樹の店の募集広告が同封されていた。

「私、募集広告は出していないのですが。」

「いえ、これは確かにここの広告ですよね。ここの売り上げは、人を雇うほど、収益が上がっていない。結局、行けるところまで自分の身銭を削って、少しでも延命を図るというおつもりのようですね。」

 男はぶっきらぼうに、それも美樹を追い詰めるようにいった。

 言い方はぞんざいだが、その中に嫌味はなかった。そもそも、今の彼女は、いつ破産してもおかしくない状況にいた。

 わらでもすがる思いだが、だからと言って決して顧客は増えることはなかった。

 こうなってくると、このアウトレットモール自体が恨めしい。

 当初の、顧客見込みの説明会の話と大きく下回っている。

 下回り始めた頃、この近所の出店主と抗議に出かけたが、結局客足が遠のいているのは、この地区だけで、他は問題ないとの説明であり、こちらの努力不足だとの回答であった。

 これをいわれると美樹たちも普段の仕事ぶりを顧みて、決して誇れるものではなかった。

「ええ、人手は足りているわけではないのですが、人を雇うような状況ではないのです。この私ですら、いつこの店を手放さなければならないかと、不安でふあんで。」

 声を押し殺し、一番端にいるカップルに聞こえないように言った。

「それじゃ、2、3日無償で構いません、おいてみては如何ですか、どうやらあなたには休息が必要みたいですよ。鏡を見てください。髪はぼさぼさで、目の下に隈ができてますよ。これじゃお客さんは寄り付きませんよ。」

 美樹は、茶封筒から履歴書を取り出した。

 大学は、東京学院大学の経営学修士課程の卒業だ、結構いい大学だ。

 就職は、すべてで、5社、それも大企業ばかりだ、52歳で5社の転職は、人間的に問題がありそうだ。名前は大川 康二朗 北海道の出身だ。

 ありきたりの質問をしつつ、その履歴書と大川を見比べた。

 こんな軽喫茶にその風貌は決してありえない雰囲気だ。

 まるで、社長秘書が似合っている。そう思いながらも美樹は、どうせアルバイトだし、自分も少し疲れているし、一週間ばかり、お願いしようかしらと心の中で思い始めていた。

 決して悪い人ではなさそうだし。

「ええいいわ、まず一週間だけお願いしようかしら、ちょうど私も休みたいと思っていたことだし、それに今後のことも考えなきゃいけないし。」

 その言葉を大川は聞くと、顔中に満面の笑みを浮かべた。

 その表情を見て、美樹はなんと子供っぽい雰囲気をもっているのかしらとおもった。

「まずは、店の会計とレシピと作り方をお教えするわ。」

 美樹が教えようとするまでもなく、料理やコーヒーの淹れ方、以前からここにいたかのように、不気味なほど完璧だった。

「そうそう、一日の締めは私のほうでやるからいいわ。閉店の一時間前には入るようにするから。」

「厨房は自由に使っていいですか。それとレシピも少し手を加えたいのですが。」

 美樹は、どうせこのままでいてもどうしようもなく、この休息の一週間で店をたたむ決断をしようと思った。結果は既に、どうでもよかった。

 まあ駄目もとで、好きなようにやってもらってもいいわ的に思った。

「それじゃ、今日は一緒にやりましょう。でも男性用のユニフォームは用意していないのよ。」

「大丈夫です、スーツを持ち歩いていますから。」

 そう言うと、大川はスーツケースを持ち上げた。

「着替えは、トイレになるけれど。」

 美樹はトイレを指差しながら言った。


 トイレから出てきた大川は、ワイシャツに黒いチョッキ、落ち着いた色のネクタイと完全ないでたちだ。

 既に、カップルは、会計を終え帰るところだ。

 カップルが帰ると、店の中は、誰もいなかった。

 12時のときを告げる鳩時計が空しく店に響いた。

 大川は、ワイシャツの袖をまくると、雑巾をかけ始めた。

「しばらく、店の手入れをしていなかったようですね。」

 拭きあげた雑巾が真っ黒になるのを、美樹は少し恥ずかしそうにその手元を見た。

 本当に慣れた手つきだった。

 掃除が終わるまで2時間ほどかかったが、その間、誰もお客は来なかった。

 外では、相変わらず、大セールスの呼び込みの隣の店主が声をはりあげる。

 その間、殆ど一度も声が途絶えないということは、顧客が一人もいないということだった。

 そもそも美樹の店と一緒だった。

 少し、くすんでいた店は、大川が雑巾で拭くと、みるみる内に光を放つように輝きだしたように見えた。

 それが終わると、大川は店のレシピを見始めた。

「このレシピどなたが考えたのですか。」

 声を出すのにもう遠慮はいらなかった。お客は未だない。

「ネットで検索したおいしいレシピをもとにしたの。」

「まあありきたりですね。今日は少しカレーライスを考えましょう。」

 どうやら、レシピを変更するつもりらしい。まあいいわ、好きにしてと美樹は思った。

 大川はレシピに鉛筆で、手を加え始めた。

「買い出しは、いつもどうしていますか」

「いつも遅いので、コンビニで買っているの。私一人だし、あとはたまに外の八百屋から持ってきてもらうわ。たまにだけどね。」

 少し見栄をはった。外の八百屋は、開店当初の1回だけだった。

 殆どは、コンビニで買ったものばかりだ。

「コンビニ購入は原価を圧迫します。ここの辺りは、地元野菜がたくさん取れるでしょう。そちらからの野菜のほうが値段も、美味しさも格段でしょう。肉類は、築地で買いましょう。明日の朝は、私が行きましょう。様子見て美樹さんが行くようにしたほうがいいでしょう。メニューのメインはカレーライスとパスタとトーストにしましょう。パスタとトーストは私がいい店を知っています。そこから開店前に持ってきてもらいましょう。ちなみにカレーライスは私の手作りですが、これでもカレーには自信があるんですよ。」

 大川は、まくり上げた腕を叩いた。

 どこまで変えようとしているの、まあいいけど、どうせ家庭用でしょ、でも何か変わりそうねと美樹は思った。

 所詮一週間ほどのバイトなのに。お金だってそんなに出せないわよ。私、もう仕入金だってないし、今日のお客は2名だけ、合計980円 ああ喚きだしたい。

「仕入金・・・無いわよ」

 大川の張り切りに水を差した。子供の対応だ。

 大川は、子供をあやすような、満面の笑みを浮かべた。

「わかってますよ。それじゃ、一週間の貸しにします。あとで返してもらいます。」

 まあその中には、一週間後の休んでいる間にお金を用意しろということなのか。

 やるだけやってみるけど、結局、その場の成り行きでこの店を出店したことだし、もうそのころの体力はない。

「明日は、一人当たり単価、1,000円を目標にしますね。」

 そんな目標、ばっかみたい。無理に決まってるじゃない。こんなところますます売れなくなるのが落ちよ。

 結局、その日のお客は、平日というハンデがあったにしろ、その後2,3人来ただけだった。

 会計なんてする必要すら無く、レジには1,800円しか入っていなかった。

 そそくさと店を出た。隣の、ジーンズショップの店主の今井と一緒だ。

「どうですか景気は。」

 わかっていても美樹は聞いてしまった。

 アメリカ人のように今井は手をひろげて、

「どうもこうもジーンズは今、売れないからね。一本も売れない。そろそろこちらもだめかも。ここまで来たら、どっちが先かなってとこだね。そう言えば、アルバイト雇ったんだ。」

 なんか、陰にこもった言い方だ。

 美樹は慌てて手を振りながら、

「押しかけよ、こっちも店じまいの準備に入ろうとしているの、このまま私がやってちゃ準備ができないでしょ。」

「やめるんだ。」

 今井の顔に、少し明かりが戻った。その顔では、どうやら同じ境遇の人間を見つけた時の喜びのようだ。

「この一週間が山場ね。駄目ならもう終わり。もう資金も底を尽きたし。どうしようもないの。」

「僕も、美樹さんと歩調を合わせるよ。どうせ結果は知れてるしね。」

「あっ、いけない戸締りの仕方教えてなかった。」

 美樹はそう言うと、今井に手を振り、店に戻った。

 明日は、ゆっくりと休めそうだ。どうせ客なんか来ないし、早めに閉店しようと美樹は心に決めた。それに大川に払うアルバイト代も必要だし。

 美樹は戸締りの仕方を伝えると、そそくさと帰って行った。

 大川は、美樹が帰っていくのを、まるで、中世の騎士のように深々と頭を下げ、胸に手を当てて、見送った。

 なんて洗練されてるのと美樹は思った。


 翌日、美樹が起きだしたのは12時過ぎだった。久々に休んだ気がした。

 鏡の前に立つと、今まで気が付かなかったが、かなり老けて見えた。

 駄目ね、こんな顔でお客さんの前に出ていたのね。

 これじゃ、リピータなんて来やしないね。

 美樹は久々に、美容院に行き夕方遅くに、店に向かった。

 ジーンズショップはどうやら今日はお休みのようだ。

 定休日の水曜じゃないのに、昨日の話が効いているのかなと思いつつ、角を曲がると、美樹の喫茶店も閉店になっていた。

 まあこんなに早く勝手に店を閉めるなんて、なんてことなの、昨日までの威勢のいい言い方はなんなの。ほんとにもういやになっちゃうわ。バイト代だって払わないわ。

 美樹はそう思い、店の扉を開けた。

 そこには、今井が、倒れるように椅子にもたれて座っていた。

「今井さん、何やってるの。」そう言いながら、美樹は怒鳴って、カウンターの中にいる大川を睨み付けた。

 今井は、だるそうに美樹に手を振りながら、挨拶をした。

「今からでも店を開けるわよ。それから大川さん、私に勝手に店を閉めるなんて、もう来なくてもいいわ、あなたくびよ。それから今井さん、ここから出って。」

 そう言いながら、美樹は店のシャッターを上げはじめた。

「美樹さん、シャッターを開けてどうしようというんだい。」

 今井が、大きな声で言った。

「何言ってんの、今、この店は一円でも稼がなきゃいけないのよ。あんたたちみたいに怠けていられないのよ。」

 今井は、今にも吹き出しそうに、にやにやと笑いながら美樹に言った。

「何を売るのかい。売りもんは何もないよ。カレーは240食、スパゲッティは40食、パンは60食、コーヒーは180杯、明日の売り物すら何もないから、仕入れなきゃ何もないよ。」

「えっ、」

 美樹は驚き、上げかけたシャッターをそのままに、レジの売り上げ伝票を打ち出した。

 白い紙に打ち出される、今まで見たこともないレシートの長さに、唖然とした。

 カレーは3時には売り切れ、パンもスパゲッティもコーヒーすら4時には売り切れていた。その売り上げ明細と片手に、大川を見た。

 大川は、精悍な顔に子供っぽい笑顔で美樹を見ていた。

「お気に召しましたか。お嬢さん。」

「えっ ええ」

 何が起こったわからぬまま、美樹は頷いた。

「それと今井さんにお礼を言うんだね、店が忙しくて回らなくなった時に見かねて、自分の店を閉めて手伝ってくれたんだ。」

「礼なんていいよ。いやああんなにこのアウトレットモールの片隅が盛況になったの初めて見た。それにしても本当においしかった。そうそう、まだ鍋の底に少しカレーのルーがあるから食べてみるといいよ。」

 今井は、だるそうにのぞけながら鍋を指差した。

 美樹ははっと気が付いたように、今井の言うまま鍋へと駆け寄って、スプーンで底にほんの少し残っているルーをすくって口へと運んだ。

 野菜本来の甘みが完全にルーの中に溶け込み、少しばかり残った肉片は、口の中で一瞬で消えていった。辛さも上品でその美味しさを、殺すこともなく、美樹がこれまで食べたカレーの中で、ダントツの美味しさであった。

 その上、更にもっと食べたいという欲求が、収まらず鍋をあさった。

 それまでのいきりたった表情が嘘のように、笑みが顔中に広がっていった。

 子供に戻ったような自分の姿に、美樹は思わずハッとした。

「おいしいだろ。」

 けだるそうに今井が言った。

「こんなおいしいもの食べたことないねえ。これじゃ店じまいをするわけにはいかなくなったようだぜ。大川さんは次の仕事先が決まっているようで、アルバイトで一週間はいてくれるようだ。レシピも教えてくれたんだ。明日から忙しくなるぜ。ちなみにおれも手伝うからな。売れないジーンズよりは、ずっとましだしね。アルバイト代は、美樹さんが好きに決めていいさ。」

 今井のその言葉に、美樹は頷いて応えた。

 それからの一週間は、本当に忙しく、夢のように過ぎ去って行った。店が終わった後、美樹と大川、今井とで一緒に夕飯を食べ、今井のおちゃらけているが、意外に誠実な性格であることもわかった。何よりも大川の、温かく見守られている安心感が、美樹をほっとさせた。

 売り上げは、うなぎ上りで、この一週間で、年間の売り上げを稼いだ感があった。

 それにしても、あの大川はなにものなんだろう。

 突然、現れて美樹の人生を、立て直してくれたし、今井も自分の店をたたんで、本格的に美樹を手伝う気でいるようだし、何より大川に完全に惚れ込んでいる様子で、話し方や、仕草、全てをコピーする気でいるようだ。

 そう見ると、これまでのしょぼくれたジーンズショップの店長より、ずいぶんと洗練されたいい男に見えてくる。

 大川のバイトもこの何時間で終わりだ。

 この日も客足は途絶えず、これまでの売り上げの記録を伸ばしていた。

 大川は、もうすぐ終わりだというそぶりは少しも見せず、いつも通りに後片付けをしていた。大川のいなくなった後のことは、アルバイトを2名雇うことにして、今井は厨房、美樹は仕入と会計をすることに決めた。

 今井は、表面上の大川のコピーはほぼ終えたようだ。

 大川は、美樹と今井に別れを告げると、美樹に一通の手紙を渡した。

「これは、私が完全にここを出てから開けてください。この一週間本当に勉強になりました。そのお礼を書いたつもりです。」

 大川の顔中に本当に優しい笑顔が広がった。美樹は思わず、大川に抱き付いていた。

「本当にありがとう大川さん、あなたがここにきてくれなければ、私は、本当に駄目な人生を歩まなければならなかったわ。出来ればずっといてほしいのだけど。次の行くあてあるの。」

「美樹さん、こうみえても私には、たくさんの財産があります。基本的に何一つ不自由はないのです。いつだっていつも会おうと思えばいつでも会えますよ。」

 美樹を抱きしめる大川の手に力が入るのを感じた。


 大川が去った後、店は急に寒々としたものとなった。

 それまで、生気に満ち溢れていた食器やオーブンといったものさえ、火が消えたようにただの置物になったようだ。改めて、大川の存在の大きさを感じた。

 たった一週間、美樹の人生が変わろうとしていた。今井もそうだ、そうそう彼が一番変わったようだ。一丁前のシェフ気取りで、まるでこれが天職だというばかりに、自信に満ち溢れていた。結局、今井はジーンズショップをたたむことにして、美樹の店の共同経営者となることにしたようだ。

 客はたぶん明日も来るだろう。今井がつくったカレーは、大川のレシピを正確なコピーをすることで、殆ど味を落とさずにつくることができるようだ。しかし、自分でつくった料理は、お世辞にもおいしいとは言えなかった。いいよ俺はカレーだけで勝負するからと強がっていたが、彼のポケットには少し汚れ始めた買ったばかりの料理本が入っていた。

 美樹は、ふと大川からもらった手紙の封を開けた。

 何が書いているのだろう。

「さて、美樹さん、この一週間本当に楽しい時間を過ごさせていただきました。

 これからは今井さんと一緒に店を盛り立ててください。きっといい店になりますよ。

 美樹さん、私はあなたに会ったのは初めてではありませんでした。あなたは覚えていないほど小さなころ、会っていますよ。私は、あなたのお母さんと昔本当に仲の良い友達でした。友達というより私はあなたのお母さんを愛していました。大学中も卒業してからも、料理に対する興味を失うことが出来ませんでした。私は当時勤めていた会社を辞め、一流のシェフになりたくて、フランスに行きました。下積みが長かったのですが、どうやら少し名を上げることが出来たようで、日本に戻りました。あなたのお母さんに再会した時には、もうあなたのお母さんは、ご結婚をされていました。私は深く絶望し、傷つきました。その時にあなたは、六歳になっていたでしょう。私が、フランスに行って六年、あなたのお母さんは、何の連絡もよこさない私に愛想を尽かせたのでしょうね。次に私は、アメリカの有名な料理店に行きました。あなたのお母さんのことは、一度だって、忘れたことはありませんでした。前のご主人と別れたことも、亡くなられたことも、風の便りに聞いて知っていました。いつもわたしの心の中に、一度だって離れたことのないあなたのお母さんの面影は、いつもいます。

 本当に愛していました。出来れば今すぐにでも会いたい。あなたは本当にあの人にそっくりで、あなたを見るたびに、心が張り裂けそうになります。

 このアウトレットの経営者と私は、仲の良い友達で、是非とも店を出店してくれないかと話がありました。

 そこでこそっと下見に来たところ、あなたのお母さんに本当に瓜二つのあなたがそこにいました。心が捻じれるような思いで、様子をうかがうと、どうやらすごく苦しそうに見えました。

 そこで、アルバイトと偽って手助けをしようと思いました。どうでしょう少しはお役に立てたでしょうか。

 私があなたのお母さんそしてあなたにしたことは、苦しく思っています。

 もう二度と会うことすらかなわないと思っていたあなたのお母さんに本当に瓜二つのあなたが目の前に現れてくれたこと、本当に奇跡があるとしたら、このような形で、あなたに会えたことが、本当の奇跡に思えてなりません。あなたのお母さんのこれが望みのような気がしております。

 いつもいつも君に会いたいと思って生きてきた。

 覚えているだろうか、君と二人で喫茶店の中、初めて会った時の窓からこぼれる陽の光に絵画的なほのぼのとした感じがしたのを、その瞬間に私は君に恋に落ちた。

 そして、会うたびにわたしは、君と夢を語り実現しようとしました。

 わたしは、本当に才能もこらえ性もない男で、何件も店を変えて修行を積みました。

 最初は頻繁に送っていた手紙も、君からの最後の手紙をうけとった時から辞めてしまった。酒におぼれ、フランスの見知らぬ街で徘徊し、警察の厄介にも何度もなりました。

 店の同僚からは、冷たくあしらわれ、居場所も失われていきました。

 不思議とどんな状況でも料理をつくるという気持ちだけは捨てることが出来ませんでした。いくつかの奇跡がわたしを表舞台へと引っ張り出しました。

 君が亡くなられたという当時の親友からの葉書きで知りました。

 一人いた子は離婚した親に引き取られたと聞き、もう住所を知るすべはありませんでした。

 あなたはもしかして、私の娘ではないかと思っています。たぶん間違いないでしょう。

 こんなことを、このようなかたちで言うなんて、本当に申し訳なく思っております。

 次にあなたが本当に困ったとき、私はあなたのもとに駆けつけます。

 わたしはまだあなたのお母さんを愛しております。そして、美樹さんあなたもです。

 いつか親子として、店を出せることを夢見ようと思っています。

 わたしは、また海外に行かなければなりません。戻ってくるころには、また何年も経っていることでしょう。

 必ず、どこへも行かずにここに居てください。

 また会える日を楽しみにしています。


 美樹はその手紙を読み終わると自然に涙が、溢れて止まらなくなった。

 手にした手紙に、涙の滴が落ち、インクが滲む。

 明日からは、頑張らなくちゃ。

 美樹はそう思い顔を上げると、明日の仕入を終えてビニール袋と大きなかごを肩に引っかけて笑っている今井がいた。

「明日も忙しくなりそうだね。」

 その言葉に、美樹は大きく頷き、涙を拭いた。


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