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翌朝は今年と同じで土曜日だったので、姉夫婦は休日だった。
(サラリーマンにとっては僥倖だったな。政府にとっても)
でなければ帰宅難民はもっと増えた筈だった。
しかし僕は行かなければならなかった。
借りていた家で自営業をしていた僕であるが、バイトもしていた。
バスは普通に走ってるようだった。
いつもならバスで山手線の止まる最寄り駅迄行き、そこから品川駅に行く。
(バスで東京駅迄行って地下鉄を捕まえた方がいいだろうか)
しかし、あと1時間で山手線が復旧すると、ニュースで報じられていたから、僕はいつもの経路で行くことにした。
だが。
それから2時間経過しても山手線は通らなかった。
そこから……。
バスで戻り、浅草迄行って。
馬込行の電車に乗って、新橋迄出て、そこから地下鉄に乗って……、と信じられないような迷走ルートを使ったのだった。
4時間かけてたどり着いた品川駅はホームからコンコースから人で埋め尽くされていた。
僕のバイト先は、とある宅配会社だった。
ようやくたどり着いたバイト先は戦場のようになっていた。思った通り救援物資の集荷でパンクしかけており、社員の方たちは必死に働いていたので遅刻したとはいえ大歓迎された。
おそらく被災者の親族の方からなのだろう。
救援物資の集荷申し込みが沢山あったが、普段届け先の最寄りのセンター迄届く筈が、閉鎖されているセンターもあった。その為、宛名の方に遠くの集荷センターに取りに来て頂いたり、配達不可の地域はお断りもした。
ペットボトルに水道水を詰めたものを持っていくと、社員の方に。
『水!売ってるの?!』
と聞かれたので、僕は申し訳なさそうに答えた。
『ペットボトルに水道水を詰めただけなんです』
社員さんの台詞が気になって、帰りがけに入ったコンビニからは物資が消えていた。
飲料水、食べ物、救急キット、乾電池、懐中電灯。
そんなものがごっそりとなくなっていた。
段々と被害の状況が明らかになるにつれ、どんどん事態は悪化の一歩を辿っているようだった。
TVは被災状況のことばかり。
CMは自粛され、ACジャパンばかり。
段々とACジャパンの音楽を聴くことすら、嫌になった。
そんな時に計画停電が発表された。
東京の夜はうす暗くなった。
一方ではこんなに電力を抑えても生活に支障がないのもわかった。
ただし、一般家庭の計画停電は別だ。
毎日、ニュースを確認しては自宅の地域が告知されているかを確認した。
ショッキングだったのは、やはり原発事故だ。
人智は天災を凌駕する事は出来ないのだ、と思った。
しかし、たらればだ。
僕達はチェルノブイリを眼にしながら何も対処方法を取ってこなかった、そのつけが来てしまったのだ。
僕も何も考えていなかった一人だ。
僕はチェルノブイリのニュースを見聞きしながらも、反対運動もしてこなかった。
化石資源を持たない日本に火力発電は向かないし、ダムに闇雲に反対していたから、水力発電より原発の方が日本には向いているのではないかとすら思っていた。
冷却水を大量に必要なことから海際に建造されることも知っていたし、日本が新幹線のように、原発を輸出品として売り出したいのも知っていた。
反対しなかったのは、賛成していたのと、同じことだ。停電してみて思った。「日本は原発を要らないのだな」と。
電力を消費する為に、電力を消耗していたきらいもあるのではないだろうか。
だが、原発停止を求める人達がデモに集う時、電車を使わなかったのか疑問に残る。
アイスを食べながらアイスの製造をやめろ、と言ってるようなものではないのか。
とはいえ、当時の都知事が『天罰だ』と言ったことは、被災地へではない。
人智が天災を押さえつけることが出来る、と考えた人間への警鐘なのだと思う。今回の天災はバベルの塔を破壊した神の雷であったのかもしれない。
尊い犠牲があまりにも多過ぎた。
これからは風力発電や、代替えエネルギー発電にシフトチェンジすべきだと思う。
水力発電は貯水の観点からも必要だと思う。
(日本は砂漠の国々より貯水率が低いらしい。山から海迄急激な角度の処が多く、水は土地に浸透する迄に海に到達してしまうのだとか)
救助活動をしてくださっている警察、消防隊、自衛隊がありがたいと思えた。
ボランティアで行きたかったが躊躇してしまった。
被災地に派遣される公務員が羨ましいと零したら
「行きたくなくても行かなくてはならない人間もいる」と言われた。
確かに彼らにも護る者がいる。
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恋人と一週間ぶりに逢った。お互いの11日を報告し、それからの1週間を確認しあって、また次の週に会うことを約束して別れた。
30分の逢瀬だった。
ようやく新潟・茨城・福島の友人に安否のメールを確認することに頭が回るようになったのは震災から2週間は経っていたろうか。
本来、真っ先に安否を気遣う地域だった。だけど、僕の心配は、母→当時の恋人→そして家族だった。こういう時、親しい人から同心円状に親近度の薄い人へ思いを馳せるのだと思った。
中越地震や中越沖地震を経験していた友人は「もう慣れっこだ」と笑っていたが、その強さが悲しかった。
仕事と仕事の合間。
3時間程空いたので、映画を観た。
観た後、心が晴れ晴れとしたのを知って、初めて震災からずっと緊張していたことを知った。
あの頃は皆、「地震酔い」をしたり、計画停電や余震におびえていて、みんな強張っていたと思う。
2年ほど前から小説を書いているけれど、半自伝的な恋愛小説を書いていて、震災が出てくるのだが、その時はどうしても書けなかった。
5年経って、パズルの一片のピースとして、僕がどう震災を見てきたのかを残してもいいのではないかと思った。
今、僕の隣には恋人から配偶者になった人がいる。
配偶者と並んで寝る時に思うのだ。『この人の傍にどうあっても戻ってくる』と。
そして『奇禍に遭うのなら、この人の隣がいい』と思う。
茨城に住んでいた友人が亡くなった。
震災後も、度々ひどい揺れに見舞われた地域だった。
友人の夫からの「亡くなった」という一葉のはがきのみが、彼女がこの世の人でないことを知らせるものだった。僕は、葬式に出ることも叶わなかった。
……なんとなく。
彼女は終わらぬ揺れに疲れて、命を絶ったのではないか、と思っている。
この国から揺れはなくならない。
僕は、友人に手を差し伸べるのが遅すぎた。
「何もしなかった」
傍観者であったことを忘れない為に、僕はこれを記す。




