間者の俺と青の君
この話は短編としては少し長いです。
それでもよろしければ、読んでやってください。
騙したはずのあんたの顔がちらついて、消えない。あんたは俺の夢枕に立っては無言で俺を責める。それはこの世のどんな残酷な言葉より俺に悪夢を見せているって、あんたは知りもしないんだろう。
スパイ・間者・諜報員。
俺の仕事にはたくさんの名前があるが、どれもこれも歓迎されたことがない。仕事内容はいたって簡単だ。忍び込み、その機密情報を持ち帰る。忍び込むのは何も国だけじゃない。軍事的な技術を保有している大企業や食えないトップのいる銀行。俺の仕事先は国内外を問わない。俺たちの上司はどうにか有利に事を進めようと俺のような人間を送り込むのだ。
その成果は上々。なにせ俺たちが頑張っているから。今回も最初はそんな仕事の一つだった。
この国は今現在俺の国と敵対しているわけではないが、急成長を遂げている。国はどうにかして日夜成長するこの国を自分たちの掌中におさめたいのだろう。聞くところによると、すでに数人の人間が潜入済みだそうだ。
同僚のように妻子を持っていないので自国を発つことに憂いこそ感じないものの、この仕事に嫌気がさすことは数え切れないくらいにある。仕事に命をかけるスリルも随分昔にかすんで消えてしまった。今回の標的はその国の大手企業の元重役。だがすでに死んでいる。どうやら今回はその男の身内に潜るらしい。
俺はため息一つ吐いてから、今回の身分証明書を見てコーヒーを吹き出した。そこには教員免許と死んだ男の姪の家庭教師として潜り込むよう、書いてあった。
「おいおい、冗談だろ。先生の真似事をしろって?」
それから出国までの間、錆付いた勉学の記憶を掘り起こさなければいけなくなった。
「こんにちは、先生。今日からよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
なぜこうなった。質素ながら整えられた応接間で俺は頭を抱えた。俺はスパイだ。これも仕事なら我慢できる。だが何らかの陰謀を感じずにはいられなかった。きっと上司が、俺が女子供を苦手なことを知ってこんなことを仕組んだにちがいない。
俺はもう一度目の前の少女に視線を戻した。今年で十五になる貴族の一人娘のはずだが、この少女の着ている服は平民が着ているものと変わらないものだ。唯一違うのは、淡い青の色がついていることだけ。 俺の視線に気付いたのか、少女が恥かしげに言う。
「伯父が生きていた頃はまだ栄えていたのですが、ここ最近は私の服を調えるものもないのです」
なるほど。俺がこの少女の家庭教師になれたのもそのせいか。雇った者の身の上調査も満足にできないほど貧困しているのだ。探られて痛い腹を持つ側としては願ったり叶ったり。
「先生は西洋の方なのですか」
「ええ、西洋と東洋の血を持っています」
俺にはもともと東洋の血が入っている。スパイは顔や性格、時には身分や親だって偽れる。だが根本的なものは隠せない。その隠せないところを自分の嘘で覆い隠すのもまた、俺たちの仕事だ。
「海外に何年かいましたので、異国語もお教えしますよ」
俺の提案に少女は顔を輝かせた。
「ありがとうございます。私、大きくなったら国と国を繋げる仕事をしたいのです」
未来について語る彼女の顔がまぶしくて、俺は思わず目を背けた。世の中には彼女が夢見るきれいなことばかりではいられない。自分がその最たる例だから。
子供の癖に。そんな陳腐な言葉さえ思い浮かばなかった。
程なくして彼女の優秀さに俺は舌を巻くことになった。
「ここを訳して」
「彼らは自分たちの叔母のために夕食を作った」
彼女は異国語の飲み込みが以上にはやい。俺がもしも普通の家庭教師だったなら、すでに教えることがなくなっている。俺は初めてスパイの仕事の中でこの仕事についていたことに感謝した。
今日はここまでにしましょう。
俺がそう言うと決まって彼女の顔は不満そうになる。彼女のそんな可愛らしい顔を見ながら、俺は内心いつも冷や汗をかいている。潜入調査が終わるまでに彼女に教えることがなくなることは俺も不本意だ。だから最近は知識の出し惜しみを強いられている。
「それなら、これまで先生が行かれた国の話をしてください」
「いいでしょう」
ぼろが出るよりはいい。俺はこれまで自分が行った国を思い起こした。そこで自分が墓穴を掘ったことに気付いた。俺は確かにたくさんの国に行って来た。だが俺がこれまで潜入したのは、きな臭い場所ばかり。だから彼女が望むような煌びやかな話はできない。
彼女が目をらんらんと輝かせ、俺の話を待っている。
彼女を見てふと気付く。何も素直に本当のことを話す必要はないのだ。いつものように嘘で塗り固めたことを吐けばいい。
いつの間にか彼女に嘘を吐くことを極力避けている自分がいた。そのことに気付いて、無意識に笑いを浮かべそうになる。
一体今さら何を。
俺はスパイだ。家庭教師ではない。そのことを忘れたのか。
「では、民宿の話でも」
忘れてはいない。忘れることは不可能だ。
それでも俺は何よりこの目の前の聡い「お嬢さま」に、自分の正体が知られてしまうのが怖いのだ。自分がこれまで体験した故郷との差を説明しながら、ただそれだけなのだと、言い聞かせた。
俺への給料を彼女はどうやら母の遺産の中から支払っている。
俺がそう気付いたのは昼間、彼女の父親が乗り込んで来た時だった。俺がちょうど彼女に勉強を教えていると、表が急に騒がしくなり玄関の扉が荒々しく開けられた。その音を聞いた彼女は俺に謝って部屋を出て行った。それから閉めてある扉の向こうから言い争う声が聞こえる。
「お前! また遺産を使っているのか! いい加減にしろ。あれは全部、俺のだぞ!」
「いい加減にするのは父様の方です。母様の遺産を食い潰しておられるのはどちらですか。少しは働いてください」
「子供が生意気を言いおって……」
兄貴が生きていればこんなことにはならなかったのに。
その言葉を聞いて思わず俺は飛び出した。彼女の父親の兄。今回の俺の本当の目的。急に飛び出してきた俺に彼女は驚き、父親は怪訝な顔をする。
「俺はお嬢さんに雇われた家庭教師です」
瞬間、俺を見る父親の目が敵を見るそれに変わった。父親が大きな足音をたて、俺に近づく。彼女が俺をかばうように立ったが、俺はそれを無言で制した。
「お前か! 娘におかしなことを吹き込んで! 人のうちの財産を食い物にして!」
「それはおなしな話ですね」
俺は腰を折って、小さな男の耳元でささやく。出来るだけ小さな声で彼女に聞こえないようにと苦心してやる。
「貴方がお兄様にしていた借金の額、お嬢さんに言ってもいいのですよ」
生前この男の兄が貸していた金額は、一生で返せるものではない。それをこの男は酒とギャンブルで食いつぶしたのだ。そこまでの情報は先週までに同僚たちから送られてきていた。今回ほかは企業の方にいる。身内に潜ったのは俺だけなようだ。このことから俺の上司が身内には手薄なのがわかった。つまり今回俺の活躍は期待されていない。
だが真面目な俺は仕事については努力を忘れない。
彼女の父親だという男は身を小さくし、口を閉ざした。ここまで扱いやすいと、拍子抜けする。俺は男の肩を抱きながら、彼女に今日はここまでにしようと言う。不安そうに顔を曇らせた彼女に 特注品の作り笑顔を向けた。
「なに、少しだけお話を聞かせてもらうだけですよ」
「思ったとおりの収穫だったな」
彼女の父親を解放してから俺は夜道を一人歩いていた。
彼女の伯父にあたる人物が没してから、重要な情報は流出していない。まだ誰かが、それを握っているのだ。彼女の父親ではない。あの男では無理だろう。なにせ器が小さすぎる。俺は先刻そのことを確認したばかりだった。
一体誰が、誰がそれを握っている? 彼女の伯父は妻子もなく、二親もすでに死亡。頼れる友人もすでに俺の同僚が調査済みだ。他に調べていないところは彼女の父親くらいだったのに。
「ああ、くそっ。手詰まりか」
癪だが、一度上司に指示を仰ぐか。その時はそれが最善のように思われた。
ここ数日、俺はいたって普通の家庭教師を演じていた。
電信の返信には帰国を考えろとだけ書いてあった。どうやら俺の同僚たちも失敗したらしい。
「先生、今日はここまでですか」
物思いにふけっていた俺は不覚にも、声をかけられるまで彼女が自分を見ていたことに気付かなかった。
「え、ええ。そうしましょう」
彼女は賢い。その彼女は俺の知識をどんどん吸い込んでいる。ここ数日の俺は、敵を自ら育成している気分だ。
「では私はこれで」
俺は彼女に退出を申し入れ、部屋を出た。長い廊下が目の前に広がった。とにかくこの家は広い。没落した家にしては十分過ぎるほどに。
「この家の中なら何でも隠せそうだな」
誰にも聞かれることのなかった言葉に、呟いた自分が一番はっとさせられた。そうだ、この家なら。
探す必要がありそうだ。周りに誰もいないことを確認して、俺は一階の窓に少しばかり細工をする。一見鍵がかかっているように見えるが、実はかかっていない。俺の十八番だ。
それから俺は何食わぬ顔で家を出る。みんなが寝静まった頃合いを窺い、開けた窓から家の中に侵入する。もちろん音などたてない。その辺りは得意分野だ。
人のいる寝室は避け、家の中を物色する。
「それらしいものはない、か」
そもそも俺はそれがどんな形をしているのか知らないのだ。
ふう、とため息をついて俺は一階まで戻る。やはり気は進まないが、強行策に出るしかないか。彼女が眠っているであろう寝室の方に視線が自然に向かう。俺は大嘘つきだ。そのことを疑問に思ったことはない。
そうだというのに、この胸のざわめきが収まらない。
帰国するために用意された船が来る、三日前の晩のことだった。
翌日。俺は少し早めに彼女の家に着いた。
「先生、今日は早いですね」
「そうですか?」
俺はわざと早く来たくせに、素知らぬふりをする。いつものように彼女と向かい合ったのに、彼女は首をかしげた。
「何か気になることがあるのですか」
「いえ、少し探し物を」
まだ見つけていなくて。
俺がそういえば彼女は簡単に信じたようだった。そんな彼女を見ながら、俺は必死に仕事のことだけを思う。
「ねえ、先生」
教本を閉じる音。顔を上げれば真っ直ぐこちらを射抜く視線とぶつかった。
「貴方の探していらっしゃるのは、なんですか」
その目の中。知的な光が揺らめいている。その光を俺は心底恐ろしいと思った。腹の中に震えを感じながら、それでも俺の頭は澄み切っていた。俺が決して失くしていけないものを手の内に持っていたら、どうするだろう。もうすぐ自分の寿命が終わることを知っていたら。
そして、もし身内に自分より賢い人間がいたら。俺なら、自分の死んだ後有効に使ってくれる人間に渡す。
「托すよな」
俺のその言葉に彼女はとびっきりの笑顔を返す。だがその体が僅かに後退しようとする動きを見せた。逃がさない。もう情報のありかを知っていそうなのは、目の前の彼女だけだ。俺は彼女の腕を掴む。思ったような抵抗はなかった。
「きっとそれが、自分の賢い姪だったんだろうな」
「貴方は? 伯父に恨みのある政府内の人ですか。それとも国外からの間者ですか」
彼女の光は美しい。俺でさえ、見惚れるほど。
だが腐りきった俺には、少々眩しすぎる。
聡いことはいいことだが、と俺は彼女を見下ろした。
「あんたは、賢すぎるよ」
距離ゼロメートルで、俺は彼女に黒光りする銃身を突きつける。銃弾は入ってなくとも、頭蓋骨を砕くことは可能だ。命を奪う武器を頭に突きつられながら、それでも彼女の光は消えない。ただ、悲しそうな色が混ざっただけで。
「さあ、あんたはあれをどこに隠している?」
素直に出すなら殺しはしない。
驚くような陳腐な台詞に自分で笑いそうになる。答えようとしない彼女に焦れてもう一度、銃を構え直す。
「知ってるだろう。あんたの伯父が残した、政府内の人間の弱み。あんたの伯父はそれを使って政府を牛
耳っていたんだろう」
彼女はゆっくりと体を動かし、机の引き出しを開ける。その一番奥。彼女には似合わない黒革の手帳。
「それか」
いたって普通の場所に隠されたものだ。俺はそう思いながら手帳を開く。そこには政府の重要人物の名前が羅列されている。
間違いないようだ。俺はそれを慎重に上着の内ポケットに入れて、黙ったままの彼女に目を落とす。
「こんなに簡単に渡してしまってよかったのか」
「私が持っていても仕方のない物ですから」
先生はそれが欲しかったのでしょう、と呟くその顔は俺からは見えない。その声色が悲しげに聞こえたのは気のせいだ。
真っ直ぐに届いたその言葉に俺が臆す必要はないのだ。
何も憂鬱に感じることはない。これで俺の仕事は終わりだ。
そうだというのに。
低く舌打ちがもれた。どうしようもないほど、気分が悪い。一体なんなんだ。俺は何が不満なんだ。
聡い彼女はただ黙っていたわけではないようだ。静かに上げられた顔には理解の色と初めて見る色が混ざっていた。
「先生は国外からの間者なのですね」
可愛い生徒からの最後の質問に、答えないという選択肢はないだろう。俺の笑みは知らず知らず苦くなっていた。
「yes. I’m a spy」
そのまま家庭教師は彼女の前から姿を消した。彼女は自分に拳銃を突きつけた家庭教師を警察に通報しなかったようだ。
通報されたからといって、変装をした俺には関係ないことだが。
今日俺は帰国するために、俺は今港を歩いている。
仕事の大半はすでに済んでいる。もうこの国に思い残すことはないはずだ。仕事は思った以上に上手くいった。それなのに何か釈然としない。
彼女が無意識に打ち込んだ言葉たちが俺の中で暴れている。こんなことに気付きたくはなかったのに。
一体あんたは俺に何本の杭を打ち込めば気が済むんだ?
俺は人の行き来が多い港の中を早足に抜けて行く。
「もしもし、すみません」
声をかけられた俺は半身だけ、そちらに振り返った。そして飛び出しそうになった声を飲み込んだ。さらさらとした黒い髪。見覚えのある知を秘めた瞳。
目の前に立っていたのは、彼女だった。どうしてという言葉の代わりに繕うための言葉が自然とあふれる。
「お嬢さん、何か?」
大丈夫。今日の変装は完璧だ。万一にも気付かれる心配はない。そう思っても冷や汗が背中を伝い、胸ポケットの手帳が重くなった。
「貴方もあの船に乗られるのですよね」
彼女は指差したのは、紛れもなく俺が帰国するための船だ。俺が肯定すると、彼女は柔らかい青色の封筒を差し出した。
「あの船に以前私の家庭教師を務めていた方がいます。その方にこれを渡していただきたいのです」
見つけられない場合、その手紙は焼くなり煮るなりしてほしいと言う。
「ですが、もし本人が見つけられた時には私がその方のことを恨んではいないのだと伝えてもらえますか」
「なぜ私に?」
いやな汗が止まらない。もしかしてこの聡明な少女は自分の完璧であるはずの変装を見破ったのではないか。
「なぜでしょう? 私にもわかりません」
青い封筒を受け取りながら俺は彼女の表情を探る。
「いいですよ。必ずお伝えしましょう」
すっと腰から折って礼をした彼女の顔を、黒々とした髪が隠してしまう。再び見えた彼女の顔を見て、俺は居心地が悪くなった。
もしかして彼女はすべて分かっているのではないか。
そう俺に思わせるに十分過ぎるほど彼女は揺れのない表情をしていた。俺の目を真っ直ぐに見た彼女は口元を緩ませ、たった一言だけ。
「ありがとうございました」
その言葉で俺はすべてを悟った。
美しく微笑み彼女は踵を返す。その後ろ姿も一本の芯が通っていてぶれることのない。その背中を俺は目を細めて見送った。
「俺の負け、か」
彼女はすべてを気づいていた。それでいて俺に何も言わなかった。立ちすくむ俺の体を船の汽笛が揺らしていた。
船はゆっくり陸を離れていく。見送ってくれる人間などいないので俺は甲板に出ることなく、外の騒音に耳を傾けていた。船室の小さな窓から手を振る人々が見えるが、そこに彼女の姿を見つけることはかなわない。ふっと息を吐いて、握ったままだった青い封筒を見る。封を切り、中の手紙を見ようとして無意識に胸ポケットの手帳に触る。
封筒と同じ色の便箋に書かれた字に目を奪われる。ありふれた別れの言葉が羅列している。その文章に俺は僅かな違和感を持って、便箋の裏を見る。
そこには小さかったが決して消えないような文字で一文書いてあった。
「ところで、二冊目からはお持ちにならないのですか」
知っているはずの言葉が頭の中で処理できなくなる。それから、かっと自分でも信じられないくらいに頭に血が上った。慌てて手帳を出して、ページをめくる。その最後のページは不自然な終わり方をしていた。俺は脱力して備え付けの椅子に体を投げ出した。
一気に熱くなった頭が徐々に冷える。それと一緒に今度は行き場の無い苛立ちが湧き出してきて部屋を飛び出した。陸を離れたからか、甲板には先ほどより人がいなかった。
なぜ手帳を手に入れた時、もっとよく確認しなかったのか。いや、わかっている。俺たちは手に入れた情報を忘れるべきだからだ。そうなので手帳の中身も確認しなかった。今回はそれが仇となった。
馬鹿だった。大企業の秘密が一冊の手帳に収まるわけが無かったのだ。俺は過去の自分の愚かさを呪い、地団駄を踏んだ。
手すりの冷たさが俺に理性を取り戻させる。戻ってきた理性の中で自分が情けなくてうずくまった。本当のことを知ってしまうと、最後の彼女の表情も意味が変わってくる。俺はいい年して自分よりかなり若い少女に手玉に取られていたのだ。
これでは負けどころか。
「完敗じゃないか」
彼女の方が何倍も上手だった。
俺は握り締めていた手紙を海に破り捨てた。細切れになるまで破かれ、軽くなった薄い青は風に容易く飛ばされる。
それは俺の前で濃い青に飲み込まれ、静かに沈んでいった。