雪山にて2
もうキリの身体はほとんど雪から掘り出されていた。チハヤはキリの身体全部が雪から出ると、キリの体中の匂いをふんふんと嗅いで「よし」と言った。それから、なにか気に食わないことでもあるように、尻尾をひと振りした。
「やっぱり、お前は大きな怪我をしていないようだ。俺の言った通りだ。でも、実はお前人間で、狐ではないのか?」
キリはびっくりした。自分が狐だとは一言も言っていない。キリの母親の和葉は確かに狐だと聞かされていたが、自分は生まれたときから人間以外のものになったことなどない。どうしてチハヤはそんな勘違いをしたのだろうか。
「俺はお前が人間どもに追われて逃げているのを見た。人間どもは魔物だなんだとお前のことを呼んでいた。そして、お前からは狐の匂いがした。俺はてっきりお前は狐なんだと思った。人間どもは気に食わないことがあると、狐のせいにすることがあるからな。もしそうなら、ひどい話だ。だから、助けたんだが……」
キリが「自分は狐じゃない」と否定すると、チハヤは耳をピンと立てて驚いた様子だった。
「じゃあなんで、お前は同じ人間から追われていた?なにか悪さをしたのか?」
「違う!わたしは何もしていない……。わたしはただ……」
キリは激しい勢いでチハヤの言葉を否定したが、そのあとは声が震えて言葉が続かなかった。(父さん……ハル…………)キリは一気にこみ上げるものがあり、鼻の奥がツンと痛んだ。危うく嗚咽を漏らしそうになったが、なんとか堪えた。今泣いてしまってはもう立ち直れない気がする。拳を強く握り込んで、掌に爪が食い込んだ。
チハヤはキリの目に涙が盛り上がるのを見ると、なにか勘違いをしたのか慌てて言った。
「すまん!泣かせるつもりはなかったんだ。俺はお前が何かしたとは思っちゃいない。お前はそんな悪さをする奴には見えない。悪さをする奴なら、俺は助けない」
それからキリの様子を窺うように、キリの顔をすぐ下からそっと上目使いで覗き込んできた。温かい鼻息がキリの顔にかかる。
「それにしても、なぜお前からは狐の匂いがするのだろう?なにか心当たりはあるか?」
チハヤが不思議そうに言うと、キリは
「わたしの、母さんは、狐だった、そうよ」
と言った。今は一語一語言葉を区切って話さなければ、心の中の感情を押し留める堤が決壊してしまいそうで、怖い。
キリの言葉を聞くと、チハヤの灰色がかった金色の目に納得した色が浮かんだ。近くで見ると、チハヤの瞳は和葉の瞳の色によく似ていた。母の目の色はもう少し茶色味が強かったが、ちょうどこんな色をしていた。改めてキリは「自分は狐の娘なんだ」と自覚した。
「そうか、それでお前からは狐の匂いがしたんだな。俺の鼻が鈍ったわけじゃなかったんだ」
チハヤは、もう一度キリの全身の匂いをふんふんと嗅いで確かめてから、笑った。狐が笑うのを見るのはなんだか変な感じがしたが、その笑顔はチハヤによく似合っていた。
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あのあとチハヤは、まだ動けないキリに向かって「ちょっと待ってろ」と言い、どこかに行ってしまった。
チハヤがいなくなると、急に心細く感じた。思い出したくないことも思い出されてくる。
キリは何も考えまいと空を見上げた。相変わらずの曇り空で、かすかに桜色の混じった鈍い灰色に輝いている。キリの身体が引っ掛かった木は、しっとりと濡れてごつごつした木肌を光らせていた。キリはその命の恩人の木に寄りかかりながら、さらに周囲を観察した。
もう日が暮れる頃なのだろう。雲は鈍い灰色から段々と明度を落とし紫がかった灰色になって、ぼんやりと雪が光って見える。キリが雪崩に巻き込まれた崖下は、あまり木が生えていなかった。キリが木に引っ掛かったのは、本当に幸運だったようだ。辺り一面が雪崩のかたい雪で覆われ、キリは改めて恐怖を感じた。自分はあと一歩で死ぬところだったのだ。
キリは急に寒さを感じた。痛みと緊張のせいで、キリは今まで寒さを意識していなかったのだ。しかし、今は凍死してしまいそうなほど寒い。今まで寒さを感じなかったのが、嘘のように思える。骨の芯から凍えていて、手足はまるで血の気がなく氷のようだ。凍傷になってしまったかもしれない。