雪山にて
キリは意識を取り戻した。途中木に引っ掛かり、奇跡的に顔が外に出ていた。しかし、胸から下は重く冷たい雪に覆われ、どこもかしこも痛んで動かせない。息を吸うごとに背骨が軋み、胸に痛みが走った。しかし、取りあえずは生きている。
見上げると、自分が落ちたと思しき崖が6間(約11メートル)ほど上に見えた。我ながらあの高さから雪崩に巻き込まれて、よくこの程度で済んだものだ。本当に奇跡としか思えない。
ふと視界の端に茶色いものがかすめた。と思ったら、キリの背後から狐の顔がぬっと突き出し、キリの顔をべろっと舐めた。狐の舌は、生温かくてざらざらした。
キリが呆気に取られて見ていると、狐はキリの胸元の雪を前足で掻きだした。この狐はほっそりとしていて小さく、狐の中でも小柄な方だった。赤茶けた毛皮の所々に雪の欠片が付いている。とがった鼻先にもたくさんの雪がくっついていた。
キリは狐のしようとしていることを悟って、狐に声をかけた。
「どうしてわたしを助けてくれるの?」
「別に……お前から狐の匂いがしたから」
狐の声(鳴き声と言うべきか)は、獣の姿に似合わず、人間で言うなら声変わりしたての少年のような声だった。ぶっきらぼうな口調だ。
「狐の匂いってどういうこと?」
キリは、喋るたびに痛む胸に顔をしかめながら聞いた。それにしても、狐の匂いとは何なのだろう。自分は獣くさいのだろうか……。
「狐の匂いは、狐の匂いだ。お前からは狐っぽい感じがする。だから助ける」
まったく答えになっていない。キリは気を取り直して、別の質問をすることにした。狐の雪を掘る速度は速く、もうキリの腹のあたりまで雪から掘り出している。残るは腰と足だけだ。
「わたしはキリ。ねぇ、あなたの名前は何と言うの?」
「俺は千早だ。足が速いからそう呼ばれている」
答える狐は、ちょっと得意そうに尻尾を揺らした。
「チハヤ、助けてくれてありがとう」
キリがお礼を言うと、チハヤはますます得意気になって尻尾の揺れ方も激しくなった。しかし、はたと尻尾の揺れを止めて
「いや、まだだ。俺がお前を掘り出したところで、怪我をしていれば助けられないかもしれない」
と言った。
「怪我」という言葉を聞いた瞬間、キリは父のことを思い出した。閃光のようにあの時の光景が目の前に蘇る。父は、頸から沢山の血を流し、崩れるように倒れた。キリはそんな父を置いて逃げてきてしまった。父はあのあと……それ以上は考えたくなかった。息がうまくできず、胸が今までとは違う痛みで抉られるように痛い。
チハヤはキリの様子が変わったのに気付いたようで、またキリの顔をべろっと生温かい舌で舐めた。ざらざらする。
「どうしてそんな顔をする?このチハヤ様が助けてやろうというんだ。助からないわけがないだろう?見たとこお前は大きな怪我もしていないし、大丈夫だ。俺は無駄なことはしない主義なんだ。お前が死にそうなら、俺はもうとっくに見捨てている」
少々的がずれている上に見捨てるとはひどい言い草だが、チハヤがチハヤなりにキリを励まそうとしてくれているのを感じて、キリは無理をして微笑んだ。チハヤはそんなキリの様子を見て、少し不満そうに鼻を鳴らしたが、黙っていた。