獣の目
その日、いつものように朝早く出かけた源九郎は、なぜかすぐに息を切らせて帰ってきた。相当急いできたのだろう、顔は真っ赤で、冬だというのに汗にまみれていた。
キリは、そんな父の様子を見て不思議に思った。忘れものにしては焦りすぎだ。
「いいか!キリ、今すぐに荷物をまとめて逃げろ!早くしろ!時間がない」
いつもは無口で穏やかな父に似合わず、激しい口調で鬼気迫る勢いだった。キリが状況を把握できず、ぼーっと突っ立っていると、そんなキリに業を煮やしたのか源九郎は待ち切れず先に荷物をまとめながら怒鳴った。
「村で疫病が流行っている。死ぬ者も出てきたそうだ。村の者は、俺たちがなにかしたせいだと言って怒っている。はみ出し者で、妙な噂の絶えない俺達ならやりかねないとな。ようはなんでもいい。不満のぶつけどころがほしいんだ。あの様子じゃ、話も聞いてくれないし、容赦もしてくれないだろう。早くしないと村の連中がやって来て、俺たちは殺されかねない。だから、急げ!」
キリは父に怒鳴られると、びくんっと肩を揺らし、自分も急いで荷物をまとめ始めた。(村で疫病が流行っている……夢で見た通りだ。ハルは大丈夫だろうか)キリは心配になったが、今確かめる術はなかった。必死で荷物をまとめている父に聞くのは憚られた。
かんじきと蓑をすぐ手に取れるところに置き、それぞれ竹筒の中に梅干しをいくつかと、味噌を入れた。それから、辛子の種子を油紙に包み、干し肉を出来るだけ用意した。急だったので、食糧はこのくらいだ。忘れずに小刀と火口箱(火をつける道具が入った箱)を荷物に入れ、出来るだけ着こみ、脚に藁をまきつけ、さらに温石(温めた石、布などに包み懐に入れてカイロとして使った)を用意しようとしたとき、外から風に乗って人の声が聞こえてきた。
源九郎が外に様子を見に行くと、遠く木立の黒の間にまだ豆粒ほどにしか見えないが、村の男衆がただならぬ様子でこちらへ向かってくるのが見えた。皆、手に手に鎌や鍬など物騒なものを持っている。やわらかい新雪が積もったばかりで走ってはこないが、早く歩けないのはこちらも同じだ。
源九郎はさっと険しい顔つきになると、荷造りをしている最中のキリに途中まで用意できた荷物を持たせ、乱暴に外に引っ張り出した。
キリは、村人が向かってくるのを見て取ると、同時に胸を何かで刺し貫かれたような痛みを感じた。向かってくる男衆の先頭には、ハルの父親もいたからだ。ハルはどうしたのだろうか。いずれにせよ、顔が見えるくらい近くに村人たちは迫っていた。
キリは逃げようと山に向かって踵を返した。冬山をむやみに歩き回るのは危険だが、村人に捕まって殺されるよりはましだ。しかし、一向に父は歩き出そうとしない。
源九郎の顔は緊張しているが、口元はまっすぐにひき結ばれ、覚悟の色が見て取れた。
「キリ、時間がない。俺のことはいいから早く逃げなさい」
「そんなっ父さんも一緒に来るんじゃないの?だめよ。二人一緒じゃなきゃ逃げない」
キリは源九郎に取りすがって、源九郎の身体を引っ張ったが、源九郎は頑として動かず巨大な岩のようだった。源九郎は、そんなキリを山の方へ突き飛ばすと、あっという間に村人の方へ行ってしまった。キリを突き飛ばす瞬間、源九郎の目には優しい光が浮かんでいた。