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「マデリーン、君とは婚約破棄する。君は僕にふさわしくない。僕にふさわしい相手は、この聖女見習いノエルだ。」
いつもは柔和な笑顔を浮かべているマーヴィンが、珍しく硬い表情で私に告げる。ただ周囲の人からは、目の前の彼の目線が泳ぎ、私をまっすぐに見られていないことには気づかないだろう。
そんなマーヴィンの傍らに立つノエルは、周囲の目線が集まる気恥ずかしさと、婚約破棄を言い渡された当人である私への申し訳なさと、マーヴィンに選ばれたという嬉しさがない混ぜになった複雑な表情を浮かべている。
「この場にいる皆に告げる。王太子マーヴィンは、マデリーン・スカーレット公爵令嬢との婚約を破棄し、僕と今並び立つノエルとの婚約を宣言する。」
マーヴィンは大仰に手を挙げると、その手をノエルへと手を差し出す。ノエルはぱあっと表情明るく微笑み、周囲の人にカーテシーをしてみせると、マーヴィンの手を取った。
マーヴィンは紺色で細やかな金の刺繍がされたフロックコート、ノエルの色である焦げ茶色のベストを着ている。そこに並び立つノエルはというと、桃色にマーヴィンの瞳の色である緋色の花の刺繍がほどこされた美しいドレスを身にまとっている。胸元にはマーヴィンの髪色である濃い青色の大粒のサファイアのネックレスが燦然と輝く。
互いの色を身に着けた2人は誰から見てもお似合いのカップルだ。
マーヴィンの色である緋色のドレスを身に着けている私が滑稽に見える。
この婚約は王命で決められた政略的なモノだけれど、互いに想いあえていると私は信じてきた。
国教会で女神の前で、神聖な儀式の上で誓った婚約が、マーヴィンの一存で破棄される。不実をしたのは目の前の2人だというのに、そんなこと許される筈がない。
「マデリーン、君は王妃となる立場として、平民であるノエルを守る立場である筈。それなのに、君は周囲の人間をけしかけて無視させ、彼女を苦しめ、学園内を混乱に至らしめた。そんな人間は、僕の隣に立つに値しない。」
「そんな身勝手な理由、認められません!そもそもの原因は……!」
腹立たしさ故に我慢ならず私がそう叫んだ途端、私の周囲から突如、明かりが消えた。視界が真っ暗になり何事かと視線を周囲に彷徨わせ、何者かの襲撃かと衛兵を呼ぼうと身構えたところで、背中が何かに引っ張られるような感覚がした。
そのまま後ろにひっくり返りそうになり、視界がぼやけていく。
気がつけば、目の前に見覚えのある天蓋があった。
ぱちぱちと瞬きを繰り返していくうちに、思考がクリアになっていく。
私が生まれた時に両親が、この子は天使に違いないと高揚する気持ちのままに依頼して、教会の天井画と同じものをそっくりそのまま天蓋の裏に刺繍させたもの。
天蓋の、私と同じ金の髪に紺碧色の瞳の天使と目が合うと、私は慌てて寝台から飛び起きた。
「お嬢様?随分とお早いお目覚めですね。」
「今日は神暦何年何月何日?!」
寝室のカーテンに手をかけていた侍女の肩を掴むと、私は必死の形相で早口で問いかけた。
私のただならぬ様子に侍女は驚き1度唾をのみこむと、彼女は自分の肩に置かれた私の手に自分の手を添え、微笑み丁寧な口調で答えてくれた。
「本日は、984年5月15日でございます。」
「………そう……。ありがとう。」
私は肩を落とし、肩に流れる金の髪を払いのけると、そのまま寝台へと逆戻りして布団に潜り込んだ。そしてポツリと呟いた。
3度目だ……と。
明晰夢というものがある。
とある研究者の書物によると、明晰夢とは『夢の中でこれは夢だと自覚できる夢』のことだと明記されている。
私はかれこれ3度も同じ明晰夢を見続けているのだと思う。
夢、でなければ説明がつかない。
まさか、私が同じ生を3度も繰り返しているなんて。
明晰夢なら自分の思う通りに夢の中で生きられるらしいとも書物は明記してある。
けれどこの夢はまったく自分の思い通りにならず、必ず同じ運命を辿ってしまう。
私の婚約者である王太子マーヴィンに夜会で婚約破棄され、その場で、聖女見習いのノエルと王太子が夜会の参加者たちの前で婚約を宣言する。すると、気がつけば半年前の朝に戻っているのだ。
神暦984年5月15日に。
私の名前は、マデリーン・スカーレット。
この国が建国当時からある歴史ある名家スカーレット公爵家の長女。
深い紺碧の瞳、なだらかな肩にゆるやかに流れる長いウェーブの金髪。母に似て目鼻立ちがはっきりした顔とややきつく見える目元をしており、勝ち気ではっきり物事を言う性格。
対して婚約者で王太子マーヴィン・アルマイトは、濃紺色の髪に緋色の瞳。マーヴィンは父親である現アルマイト王にそっくりな優しげな目元をしており、判断力に欠け少しばかり優しすぎるきらいがある。
そして、ノエル。彼女はパーター子爵が愛人に産ませた庶子だ。
肩までの直毛で焦げ茶色の髪に、茶色の瞳。その顔は私レベルまではいかないものの、整った愛らしい顔をしている。
この国は女神を主神とした宗教を信仰しており、全国民は5歳になると教会で洗礼を受け、祭壇に奉じられている水晶に触れることで、聖人、聖女の選別を受ける。
ノエルはその選別で聖女の見込みがあると認められ、この国にたった5人しかいない聖女見習いとなった。
私が3度も同じ夢を見続けているのは、マーヴィンとノエルの存在が関わっているに違いないと私は思っている。
3度目の朝を迎えてからひと月経った。
今日は昨日までの荒天は嘘のように、空には雲一つない青空が広がっている。
午前の授業を終えていつもなら食堂へと足を運ぶのだけれど、私は迷うことなく学園の庭園へと足を運んだ。
貴族や平民にも等しく門戸が開かれた学びや。
13〜18歳までの若者が同じ学園に通うことが、この国では義務付けられている。
今日はその学園の東屋で、ノエルとマーヴィンが、昼休みに逢瀬をする日だ。いつも同じ日に逢瀬に遭遇しているので間違いない。
1度目の夢のその日、私はマーヴィンを探して外へ出た。
マーヴィンは王太子という大切な身のため、食堂では警備のために必ず同じ席で食事を摂っていた。
それなのに数日前から食堂に姿を現さなくなった。
マーヴィンは学園で生徒会長をしており、生徒会の差し迫った仕事があるので、しばらく生徒会室で食事を摂ると説明されていた。
その日はたまたま午後の授業前にマーヴィンに聞きたいことがあり、生徒会室に足を運んだ。
けれどその扉前に必ずいるはずの警備の者がおらず、生徒会室はシンと静まり帰り、中ももぬけの殻。
急ぎ食堂に足を向ければ、そこにもマーヴィンはいない。
天気が良い日には屋外でランチをする者もいる。もしかしたらと足を庭園の東屋へと運べば。
マーヴィンとノエルが東屋の木のチェアで人目も憚らず身を寄せ、終いには互いの顔が近づき……この先は口にもしたくない。
1度目、私はその場で気が触れたように叫び声をあげた。そうして私の存在に気づいて顔を青白くさせたマーヴィンにつかつかと歩み寄ると、その左頬に思い切り平手打ちした。
そのままの勢いでノエルを突き飛ばしたところで、警備の者の手によって東屋の冷たいモルタルの床に押し付けられた。
どうにか抵抗しようと身を捩って顔だけを上げれば、不安そうに身を寄せるノエルを抱き寄せ、見たこともない冷たい目私へと向けるマーヴィンの姿は、ひどく印象に残った。
マーヴィンが不実な行為をしていたという事実は圧力により伏せられそのまま自宅謹慎になり、謹慎が解かれたと思えば、参加が許された夜会で婚約破棄をされた。
2度目の夢の時は、目撃者が私だけでは圧力で伏せられてしまうと悟り、協力者を募ることにした。目撃者が多ければたとえ王族とはいえ、圧力で押さえつけるのは難しい筈だと思ったからだ。
更にそれが高位貴族であればある程、優位であると。
親友とその婚約者を誘い、外で昼食を摂ろうと提案したところ、何も知らない2人はふたつ返事で了承してくれた。
私を含めて3人で東屋へと向かえば、やはりそこに仲睦まじく過ごすマーヴィンとノエル。
マーヴィンとノエルが顔を寄せ合ったところでタイミングよく私がサンドイッチの入ったバスケットを落とすと、1度目と同じようにこちらに気づいたマーヴィンが顔を青白くさせ、勢いよくチェアから立ち上がる。
私が涙を流したふりをして親友の令嬢にすがりつくと、親友の婚約者が、これはどういうことかと駆け寄り、マーヴィンとノエルに怒鳴りつけるのが見えた。
親友の婚約者は公爵子息で、王弟の息子。マーヴィンとは従兄弟にあたる。
流石のマーヴィンでも、王族に連なる立場の従兄弟の口を圧力で防ぐことなど不可能だと思ったから。
ただ、これも失敗だった。
私の望んだ通り、2人のお陰で、マーヴィンとノエルの不実はあっという間に学校中に知れ渡った。
マーヴィンは王族だからこそ表立っては何もされはされず、ただ白い目を向けられるだけで済んだ。でもノエルの方はそうはいかなかった。
ノエルはその時までは聖女見習いということで皆から尊敬の眼差しを向けられ、彼女には多くの友人がいた。
しかし聖女見習いとはいえ、彼女は子爵夫人により子爵家の娘と認められず、父の姓であるパーターも名乗れない平民。
学園では巻き込まれたくないと潮が引くように周囲に人がいなくなり、身分もわきまえず王太子を血迷わせたという理由で、学園の生徒は彼女を無視するようになった。
彼女が悲しい表情を浮かべているのを見るたび、ほんの少しの罪悪感共に、溜飲が下がる思いをした。彼女は、私の婚約者に近づいた報いを受けたのだと。
けれどマーヴィンの心は戻ってこなかった。
やはり同じ日の夜会で私は婚約破棄された。
他人をけしかけてノエルを無視させ、苦しめたという理由で。
そもそものきっかけは、マーヴィンにあるというのに。
そうして迎えた3度目の夢。
今回は誰も連れず、東屋から遠く離れた木陰から、マーヴィンとノエルが仲睦まじくしているのを見つめた。
直接マーヴィンを批判しても、人を使っても、結局、私は婚約破棄される。
何をしても無駄なら、私にできることはただ2人の不実をこの目に焼き付けることだけだ。
ただ今回は、2人の姿を見ても、不思議と心が揺らぐことはなかった。
2人が微笑みあい、手が触れあい、2人の距離があまりにも近いことを目の当たりにすると、自分の心で熱く煮えたぎっていたモノが冷え、小さくなり、跡形もなく消えていく。
残ったのは、虚しさだ。
『公爵令嬢として、次期王太子妃として、王太子殿下にふさわしい人物であれ。』
父のその言葉を胸に、近隣諸国の言語を4つもマスターした上に、厳しい王太子妃教育に堪えた。
それもすべてマーヴィンのために。
それなのにマーヴィンは、平民の聖女見習いを選んだ。
自国の言語の成績も芳しく無く、他国の言語などもってのほか。貴族令嬢ではないので、貴族のマナーも皆無。そんな人をマーヴィンは選んだのだ。
私が勉強してきたことは、まったくの無駄だったのだ。
「ふさわしいって……何よ。」
「確かに、ふさわしくないよね。」
「?!」
私のつぶやきに、背後でふふっと笑う声がした。
慌てて振り向くと、そこにいたのはこの学園では見たこともない男。
この学園の証である学生服を着ており、私と同じ学年を示す緑のネクタイをつけてはいる。
でも同じ学年なら行事を共にする機会も多いし、話をしなくても顔にある程度見覚えがあるものだ。なのにいつの間にか私の背後にいた男の顔には、まったく見覚えがなかった。
黒い髪にメガネをかけ、長い前髪で顔を隠した地味な相貌。ただその前髪の隙間から覗く瞳は紫水晶のような神秘的な色をしていて、不思議と引き寄せられるような魅力があった。
「貴方……誰?」
あまりに近い距離にいつの間にか見知らぬ男がいたことに恐怖を覚え、息を詰める。
男との間には2メートルほどの間隔はあったけれど、男を警戒して少し後退りして距離を置いてから問いかける。紫水晶の瞳をしたその男は私の質問には答えず、代わりにまっすぐに東屋にいるマーヴィンとノエルの方を指さした。
「ねぇ、あの男は、君にふさわしい男だと思うかい?」
「私に……ふさわしい………?」
唐突な質問返しに面食らいながらも、思わず男の指の先にいるマーヴィンとノエルを見る。
その瞬間、マーヴィンとノエルが熱く抱擁し、唇が重なるのが目に入った。
不実の瞬間を見せつけられて、辟易する。
嫉妬心が湧くどころか、嫌なものを見せられたことに吐き気すら込み上げてきて、口元を押さえて目線をそらした。
「ね、彼は君にふさわしい男?」
場違いなほど愉しそうに微笑みを浮かべながら、再度確認するように告げる彼の言葉は、まるで悪魔のささやき。
随分と砕けた話し方だ。
本来なら高位貴族である私に、この学園でこんな話し方をできる立場なのは、片手で数えられるくらいしかいない。もちろん、目の前の男は見たこともないし、論外。私にこんな話し方をしてくる相手には、注意をしないといけない……のだけれど、不思議と彼の口調を受け入れている自分がいた。
マーヴィンが自分にふさわしいか、なんてだいそれたこと、考えたこともなかった。
いつも王太子であるマーヴィンが主体で、それに合わせて努力するのが当たり前だと思っていた。
自分にマーヴィンがふさわしいかと言われたら……答えは1つだ。
「いいえ、まったくふさわしくないわ。」
はっきりと言える。
マーヴィンより私の方が他国の言語に長けていて、マーヴィンは発音が少し下手だ。でも、マーヴィンが話せないなら私が補助してあげればよいと思っていた。
マーヴィンが他国の文化を覚えるのに苦慮していたから、私が理解して補助してあげればいいと思っていた。
マーヴィンができないことは、王太子妃になる私が補助して、彼を支えればいいと思っていた。
王太子妃教育をしてくれる家庭教師にも、王太子であるマーヴィンを支えなさいと言われた。
でも、彼1人で立てないのを、私が助ける必要はあるの?
いくら頑張っても、自分に心が返ってこないのに?
答えはNOだ。
私の返答に、男はいっそう愉しそうに表情を綻ばせる。
「そうだね。王家だって彼の不実を知っていたのに、王太子である彼のために君を自宅謹慎させて、不実を握り潰して、婚約破棄させた。」
そうだ。1度目の夢の時、私がマーヴィンを平手打ちにした後、すぐに警備の人間が私を取り押さえた。つまり、マーヴィンとノエルが仲良くしている姿を、警備をしている大勢の人間が見て見ぬふりをしていたのだ。多くの人間が不実を知っていたのに、王家のために不実をなかったことにした。
「せっかく親友と親友の婚約者にも手伝ってもらって糾弾しようとしたのに、それも無駄になった。」
そうだ。2度目の夢の時も、理不尽な理由で、悪いのはマーヴィンなのにすべて私のせいにされた。マーヴィンに対して怒りが湧き上がってくる。
「そんな王族の一員になんて、なりたくないよね!」
「ええ、なりたくな………い………。」
煽られるままに私が男の言葉に同調してみせると、男は興奮したように頬を紅潮させ、いっそう瞳をキラキラとさせ、高揚とした様子で距離を詰めてくる。私の心がマーヴィンから離れることを、心から喜んでいるように見える行動だ。
彼との距離が近くなっているのに気づいてはいたけれど、私は驚きのあまりその場から動けずに固まってしまった。
男の言葉には、私しか知らないはずの事実があった。それは3度目の夢では起こってもいない、存在しない事実。
「何故、知っているの?私が自宅謹慎させられたことも、親友とその婚約者を使って、2人を糾弾しようとしたことも。」
私は自分が半年前に戻っていることを、他の誰にも話したことはなかった。こんな荒唐無稽な話など、誰も信じるはずがないと思っていたから。
手を伸ばせば触れ合える程の距離まで近づいてきていた男は、私の問いかけにピタリと動きを止めた。
そしてまたもや私の質問には答えず、胸元に手を当てて舞台役者のように演技がかった礼を一つすると、誘うように私に手を差し出した。
愉快そうなその表情は、そのままに。
「夢から醒めたお嬢さん。現実の世界へヨウコソ。私は、君が選ばなかった道の先で待っているよ。」
やわらかな風が吹いて、私の髪も男の髪も風になびいて揺れる。その時、黒髪の長い前髪の男ではない、別の人間が目の前にいるように見えた。
黒髪の男の姿が薄っすらと揺らぎ、その向こうに見えたのは長い青銀髪を肩辺りで1つにゆるく束ね、紫水晶の瞳をした美しい男性。
青銀髪の男の上に、黒髪の地味な男の姿がぼんやりと重なって見える。
青銀髪の男は私にウインクすると、私が瞬きした一瞬の間に、姿を消した。そこには先ほどまで、誰もいなかったかのように。
そう、それは夢幻のごとく。