とんち について思うこと
いつものたまにある何となくエッセイ。
ちょっぴり真面目な内容かな?
漢字で書くと「頓知」となりますが、その言葉の意味は「その場に応じた即座に働く知恵、機知」とあります。
これが「頓知者」と人物を指す言葉になると、多くの人が思い起こすのは、おそらく「一休さん」だろうと思います。
その一休さんの逸話と言えば「屏風絵の虎退治」や「橋に掲げられた『このハシ渡るべからず』の看板」などが挙げられるのですが、このエッセイで取り上げる人物は「一休さん」ではなく「吉四六さん」という人物です。
この「吉四六さん」、架空の人物という訳ではなく、廣田吉右衛門という人がモデルと言われていて大分県の中南部で多く伝承されており、下町の英雄のような扱いで親しまれてきました。
この吉四六さんにある、いくつかの逸話の中で有名なものに「天昇り」というお話があります。
その内容はこのようなものです。
ある、お日さまは出ているけど寒い冬の日。
吉四六さんは畑で「麦踏み」という、若い麦の芽を足で踏んで強い麦が育つようにする仕事をしなければなりませんでした。
ですが、吉四六さんは寒いわ、畑は広いわで、とても面倒でやってられません。
そこで吉四六さんは考えます。
しばらくして何か思いついたのか、吉四六さんはウキウキした様子でどこかに行ってしまいました。
次に吉四六さんが現れた時、吉四六さんは長い長いハシゴを肩に担いで現れてきました。
そして村人に向かって叫びます。
「オラはぁ〜、こんハシゴで天に昇ってみるぞ〜」
それから吉四六さんは麦畑の真ん中にハシゴを立てて昇っていきました。
村の人々は大慌て、ハシゴの周りに集まって必死に呼び止めようとします。
ところが吉四六さんは高い所にいるせいか、聞こえていないようです。
ますます慌てる村人たちは、声が聞こえるようにとあちらこちらと動きまわり、吉四六さんに呼びかけます。
そうする事で畑の麦は村人たちによって、どんどん踏まれていきました。
こうして、賢い吉四六さんはあっという間に畑の麦踏みを終えてしまいましたとさ。
めでたし、めで……
と、まぁこんなお話なのですが、ここからがこのエッセイのテーマになります。
この吉四六さんのこと、皆さんどう思われますか?
「うん、吉四六さんて賢いと思う」とか「そのような方法を思いつくのは、やはり知恵者だ」などなど、「とんち」というその言葉の意味においては間違いなく賢く、知恵を持った人物だと思えるはずです。
ですから、皆さん中には賢く知恵のある吉四六さんのような「頓知者」になりたいと思う人もいても、おかしくは無いと思います。
私も以前、そのように思った事があります。
ですが、今はそのようにはあんまり思っていません。
なぜなら、この話でいう「賢さ」は「ずる賢さ」、「知恵」は「悪知恵」に思えるようになったからです。
同じ頓知者でも、時の権力者などの嫌がらせの難問に対して機転を効かし、それを乗り越える一休さんに比べて、自分の都合の良いように村人を操っている感じのする吉四六さんは、どこか卑怯でダークな部分を感じさせます。
村人についても聞いてみたいと思います。
あなたは、このお話の村人をどのように思いますか?
吉四六さんに騙された愚かな人たちだと思いますか?
正直にいうと「村人は愚かだ」と思うところは、私にはあります。
ですが、その村人以上に愚かなことをしているのは吉四六さんだとも思うのです。
何故なら、吉四六さんの言葉に「天に昇る」という嘘があるからです。
「人がハシゴで天に昇れるはずが無い。それを信じた者が愚かだ」
そのように答える人もいるでしょう。
そして、その考えは間違いではなく、むしろ正しいと思われます。
何故なら、畑の麦を踏んだ村人の中には「騙された!」と怒る人が少なからずいると思うからです。
ですが、そう考えると吉四六さんはその村人からの信用を失ったと言えるでしょう。
この事が、吉四六さんのことを「愚か」だと思う私の考えなのですが、皆さんはどのように考えるのでしょうか?
実際には、このお話は作り話だと私は思います。
ですが、類似したことはしていると思うのです。
それでしたら吉四六さんは嘘をついた事で、村人から嫌われ、信用を失っていたと思うのですが、そうでは無いみたいです。
何故でしょう?
おそらく吉四六さんは、そのような事をした後で、お礼やお詫びをしたんだろうなと思います。
村人も素朴でおおらかだったのでしょう。
少なくとも吉四六さんは、多少の嘘をついても許されるほどの人格者だったのでしょう。
そして村人も吉四六さんの嘘を軽く流せる器量があったのだと思います。
吉四六さんが「頓知者」として人気があったのは、おそらく、そのような背景があったからこそだと私は思うのです。
もし、そのような背景がなければ、嘘をついた末路として「オオカミ少年」のようなお話になっていたかもしれません。(頓知にまつわる一部のお話で、そのようなものはありますが……)
私が何故、このようなエッセイを書いたかというと、この「背景」の部分が今の日本の社会は失っているように感じるからです。
「ずる」などを内に秘めた「賢さ」や「知恵」という言葉を多用し、「合理的」や「論理的」と言った言葉に結びつける事が昨今もてはやされているように感じているのですが、それが悪いとはまでは言いません。
ですが、それらの言葉を使い、社会に認められるのには、先に述べた「背景」がキチンとあってこそ言うべきだと思います。
今の時代、言論人はともかく「頓知者」であって欲しい政治家や資本家に、この「背景」を与えるに値する人物はあまりにも少ないように感じます。
いえ、「居ない」と言っても良いのかもしれません。
問題は他にもあります。
その「背景」を造りだす私たちの中には、信じることも疑うことすら諦めた「無関心」の存在となり、人を気遣う村人のようになれない、そのような人も多く存在しています。
何故でしょうか?
おそらく、その「背景」の正体が見えなくなってしまっているんだと思います。
私にもしっかりと見えているわけではありません、かなり霞んでます。
歳のせいかもしれませんが、ここは「そうでは無い!」と言い切り、その「背景」が見える、あるいは感じられる、感じ続けられると断言したいと思います。
でなければ、私の将来は、ただ悪態をつくだけの孤独で惨めな老害にしかならないと思うからです。
今の時代を生きる私たちの物語は、後々、子供や孫たち世代の話の中で「めでたし、めでたし」という言葉で締めくくる事ができるのでしょうか?
その締めくくりで終わらせるためには、多くの人が早くにその「背景」に気づく事だと思います。
そしてそれに気づいた上で、自身がその「背景」の正体たる行いを実践して行かなければ、恐らく子どもや孫たちの世代は悲惨なものになりかねません。
ここまでの話で、その「背景」に気づく事なく私自身が騙されていることも充分あり得ます。
「とんち」の無い私は、これから先も騙され続けるだけかもしれません。
人の話に騙され、その話を信じた者として文字通り「儲け」の一部でしかない存在だとしても、村人にすらなれない「無関心な存在」には絶対になりたくはない。
そのような想いを胸の内に持ちつつ、このエッセイは終了したいと思います。
最後まで、お読み頂きありがとうございました。
騙されるのがイヤだからと無関心でいると、それは大きな牙となって自分に襲いかかってくるものは何でしょうか?
答えは色々あると思うのですが、私の答えは「政治」です。