第十九章 オグを追って 3.聖女
「思い人がいるのに、そんな風に感じているの?私は、どうかと思うけれど」
ニクトが、愛らしいくりくりした瞳をイアリオに向けて、言いました。
「その覚悟がなくて、体を預けてしまうなんて、考えられない!」
イアリオはニクトに自分の性欲について隠すことなく語りました。彼女はこれまで、自分の故郷について、黄金や魔物のことなど話すことのできない事以外の、自分のプライベートに関した話せることは、ほとんどその少女に明らかにしていました。自分が教師だったこと、歴史が好きだったこと、小さな頃から、恋をしていたこと、その恋の相手が突然いなくなったこと。そして、折角新しい恋に目覚めても、それは横恋慕になってしまっていることなどを。
「もっともよね。もっともだわ。でも、そう感じてしまうのは、何か原因があるはずだと思うの。私の持ってる辞書には答えが載っていないから、自分で探す他なくて」
「ふうん」
ニクトは相槌を打って、足を蹴りました。
「どうなっちゃうかわからないのよ、自分が」
イアリオは微笑みました。魅力に溢れた微笑みでした。決してやましさに裏打ちされた危険な魅力ではなくて、前向きさしか浮かばない、成長途上の思春期のような晴れた微笑みでした。ニクトはどきりとしながら、一生懸命自分に考えられることを考えました。
「でもね、あたしもどうなっちゃうかわからなかったよ。フィマに仕掛けた時…あったのは、覚悟だけだもの。どうなってもいいから、今だけ、勇気を起こそうとして」
ニクトもどきりとする表情をしました。その勇気によって欲しいものを獲得できて今や自分が誇らしい、というものではなく、その勇気を振り絞った時に、見せていただろうどうなるかわからない決断の顔でした。
「そうね」
イアリオは相手を褒めたく思いました。ですがそれはできませんでした。彼女は首を振り、天井を仰ぎ、額に手を当てました。
「でも、話して、ちょっと気が楽になったかもしれない。何が原因なのか、あんまりすぐにはわからないけど、今は、そんな気持ちを持っているって自覚している。それが大事なのかもね。私、結局、経験がないのよ。だから、色々と深くも考え込んでしまっているのね」
「ふうん、そう」
ニクトはまた足で地面を蹴りました。どこかつまらなそうに。
「何か不満そうね」
「だって、イアリオは相談しているようで、自分で解決したがっているようだから。あたし、別に必要ないんじゃないかなって」
「そんな風に思ったの?」
イアリオは目を丸くしました。
「でも、そうしてきっと、あなたは自分の問題を解決してきたんだね。きっと、結局自分で見つけてきたんだ。ふふっあたしだってそうだもの。だから、あたし、こう思うの。あなたは大丈夫だって。だって傍にいて落ち着くもの!迷ってないの。ぐちぐちと悩んでもいない。大人だね、ほんと、イアリオって。
絶対にイアリオを好きになる人はいるよ。自分は横恋慕している、て言ってたね。でも、あなたは決して不幸にはならないと思うよ。どんなに気持ちに振り回されたって…あたしはイアリオじゃないから、ほんとのところはわからなくはあるけど…お互いにさ、でも、なんだか大丈夫なんじゃないかってことは、わかるでしょ?」
ニクトがイアリオに抱いていた印象は、そのまま彼女からニクトに抱くものと同じでした。こここそ彼女たちがよく似ているところでした。イアリオにはニクトの言葉がよくわかる気がしました。
イアリオはロンドを誘って街に出てみることにしました。いずれ、彼女が調査の旅に彼を供にするのならば、今のうちにその人となりを知っておいて損はないだろうという算段もありました。でもそれ以上に、今、彼女は自分を知りたがりました。もしロンドに抱く感情が本物なら、自分はそのまま彼に抱かれてもいいとすら思いました。
ニクトや、トラエルの町のハリトは、イアリオの肢体に憧れを抱いていました。その豊満な体つきは、女性から見ても男性から見ても魅力に満ちていました。おまけに彼女は背が高く、肉付きもいいので目立ちました。トラエルの町で、彼女は名物にもなっていました。ですから噂にもなったのです。彼女が、地下の墓場に行っているのは、黄金のためではないのかというあらぬ噂です。彼女を信頼する人間は多くても、胡散臭そうに見る人々もいたのです。なぜなら彼女はずっと独身で、活動的で、明るかったからです。落ち込む彼女を見ることができたのはその家族だけでした。イアリオは、レーゼやハリトにも、暗い顔は見せまいとしていたのです。彼女は裏表のないような性格に見え、それは子供たちからは人気を獲得していましたが、大人たちには人間臭さを感じさせない異質なものも読み取らせました。しかし、彼女には裏も表もあることを、初めて見つけたのは、他でもないレーゼでした。
彼女から誘われ、ロンドは随いました。彼は次の仕事相手の依頼とみて彼女についてきましたが、彼も彼で、イアリオには不思議な心地を覚えていました。彼は、もしかしたら目の前の女性はとびきりの女かもしれないぞ、と思い始めていました。街を歩く二人は、二人とも背が高く、外国人ですからとても目立ちました。並んで歩けば似合いのカップルのようにも見られたでしょうが、二人は依頼者とその受諾者の距離で進みました。彼はオルドピス人のような服装をしていず、サンダルを履かず裸足で、まるで野ざらしな脛を見せた短い焦げ茶色のパンツと、活動的な革当てのシャツを着けて、その上から短い裾の羽毛の織物をかけていました。羽毛の織物は彼の普段着ではなく、オルドピスに入国を許された者の衣装の一つでした。イアリオは故郷の衣装そのままでしたが、それが許されたのはその衣服で明らかに外国人だと判るためで、彼の普段の着物は下穿きくらいでしたから、彼が一目で入国者だと判るように羽織物がオルドピスから用意されたのです。
イアリオは、彼と一人分以上の距離を空けながら、前後に、時に真横に、連れ添って歩きました。そのうち彼女は、この男が自分に歩調を合わせて注意深く次の依頼者のことを探ろうとしているのがわかりました。護衛としての勤めを果たすために、そうして相手の空気を感じ取ろうとしていたのです。この男が、どうしてオルドピスから信頼に足る外国人だと紹介されたか、彼女にはわかる気がしました。
「少し、どこかに座りましょうか。落ち着いて話ができればと思うんですが」
彼は言われるままにイアリオについて、太い腕を広げた大きな二本の樹の間の石のベンチに並び座りました。ロンドはまだ、彼女がわざわざこの国まで来て、何の目的でどんな旅をしているのか聞いていませんでした。彼はあまり依頼者の詳しいいきさつなどを聞こうとしないようにしていました。クロウルダについても、彼らがどのようにオグを調査しているか聞き及んでいませんでした。彼らを守るためにはするべきことをしていましたが。
彼は、自分にできることは限界があると知っていました。だから、その限界の見極めをするために護衛の相手はよく観察しましたが、個人的な事情などには踏み込まなかったのです。彼女に対しても、そのようなあるがままの姿勢で臨みました。しかし彼は、彼女を前にして、強いて意識してその姿勢を保とうとしました。彼女からまったく不可思議な魅力が溢れ出ていて、彼の側に疑問が次々に浮かんできてしまっていたからでした。相手はとても涼やかな目をしていました。唇は厚く愛情に満ちているようでした。頬は黄色で、髪は黒く、ちりちりにほどけていました。それを、後ろ手に縛り、衣服の上で、跳ねるように振りました。手は、長く、脚は、健康でした。この女性は一体どこから来たのか、そのような疑問を彼は持ってしまい、ずっとその問いを頭の中に繰り返させてしまいました。
彼は、彼女がクロウルダの親戚だということはトルムオから聞いて知っていました。つまり、彼の果たすことになる護衛も、今まで通りのものになることも予想できました。彼は距離を置きながら、彼女をよく見つめました。そしてわかったことは、クロウルダの中に見えることのあった病的な恐怖心が、彼女の中にもあるようだということでした。しかしその表れ方は、クロウルダたちとは大分違っているようにも見えました。自分たちが恐怖の只中にあることを彼らは隠さない風潮がありましたが。彼女には豊かな母性が垣間見られ、それでいて少女のようでした。年齢の分からない雰囲気を醸し出し、容易には自分をさらけ出さない淑女の匂いがしながら、何もかもを、ひけらかしているようにも思えました。
気が付けばロンドはうっとりとこの女性を眺めていました。彼はまるで聖女を前にしているような気がしました。
二人は沈黙を守りました。こうしているだけで互いをじっと分かりゆくようでした。イアリオの側でも彼をよく観察し、彼の一挙手一投足が、常に彼女を立てていることを感じました。彼らの間に流れる時間は、空気を伝って、お互いを譲り合っていました。譲り合う中で、しっかりと、互いの存在を感じ合っていました。
「あなたは話をしたい、とおっしゃった」
ロンドが、おもむろに口を開きました。漏れ出た言葉は、葉のように、風を滑って向こうの耳に届きました。
「どんな話ですか?こうしてじっと黙っているのも、いいかもしれませんが」
「そうですね。私も、あなたと同じ考えです」
「じゃあ、ずっと黙っていますか?」
イアリオはにこりと微笑みました。彼に向かって。その時、空気の流れが一変し、世界中が、こちらを向いたように彼は感じました。彼女に見られ、目を向けられ、彼は彼女を取り巻く世界にも見つめられたように感じたのです。フィマも、彼女と相対した時に、ロンドと同じように、彼女が引き連れた彼女の周りの世界を感じていました。あるいは、彼女の中に存分に昇華された、トラエルの町そのものを。ロンドは、相手が迫ってくるようでした。黙っているだけで、とてつもない量の何かが、ぴりぴりと肌を撫ぜて自分に流れ込んでくるようでした。
「私は、ご存知かもしれませんが、オルドピスの遥か西方、ニムゲトクという地方の出です。そこはかつて戦士の国で、今ではすっかり平穏になってしまいましたが、男たちは力自慢で女たちも弓に長けています。この体はその賜物です。あなたを守り切る自信は、あります」
ロンドはこうしてわざわざ自分の役割を告白しました。自分が出した質問からの答えを、待っていられるほど、心は落ち着かなくなっていました。イアリオはじっとこの男を見つめました。
「どうしてオルドピスに?」
彼女は訊きました。
「ああ、野で拾われたのです。私は故郷を出て遊び呆けていました。義賊のようなことをしましたが、どうしてそれは、盗賊となんら変わらないことでした。でも、義心には溢れていました。自分の力を持て余していて、この国に、傭兵に近い形で雇われました」
彼は穏やかな口調で話しました。ですが、すっかりどぎまぎしていました。それは、彼女が訊いたことが、先に述べた自己紹介よりも踏み込んだ、自分の告白となるからでした。
「長いのですか?」
「そうですね…かれこれ、十年近くは経つでしょう」
「結婚はしているの?」
不意な質問でした。彼は、正直に答えました。
「まさか!地元ならともかく、こちらの地方で、私に似合う女なんていませんよ」
それを聴いて、イアリオは不思議な気持ちになりました。この男が伴侶を持っていない、というところにではなく、現在はそれが当然だろうと感じたからでした。なぜそんなことを感じたのでしょう。ですが二人は相当似通った者同士でした。不思議と、彼が未婚であることが、この男への信頼につながるのを彼女は感覚しました。
「あなたはどこの国の生まれで?」
今度は彼が、自分が告白したことと同じことを訊きました。
「私?それは…ちょっと言えないのです。大変な所で、秘密にしておかなくてはならないので。でもいずれ…戻らなければなりません。ここから西方にあります」
彼女はちょっと言葉を切りました。彼と自分たちとの相貌の似通いを言うつもりだったのです。彼女は自分たちの歴史を改めて思い返しました。どこで彼が自分たちと似ているのか、思い出すようにわかりました。
「そして、もしかしたらあなたのふるさととも関連があるかもしれません」
彼は、密かに唾を飲みましたが、その音は彼女には聞かれませんでした。
「それは私も感じました。あなたの骨格や相貌は、私たちのものととてもよく似ているから。
じゃあ、その昔に分かたれた同一民族の子孫なんですね」
まさに、自分の思っていたことを言われて、イアリオは驚きました。彼女は急に自分に恥ずかしさを覚えました。だから、こんなことも言いました。
「多分…それと、私たちはひょっとしたらクロウルダの血族でもあるのです」
「…それも、もしかしたらと感じました。私たちに似ていないところは、まさにそれだと思いました」
彼女は、背後でがたん、と扉が閉じられる音を聞いたような気がしました。まるであの世とこの世を隔てる門が、閉め下ろされたかのような。どこかで彼女はあの天女たちの言った、聴いた時はまるでその意味が分からなかった言葉が、急に、理解できるようになった気がしました。あの墓丘で出会った天女たちが、もし自分たちのご先祖なら…と、彼女は前よりも明確に、想像できました。もしかしたらあんな風に出現したのは、クロウルダたちが死んだ後も自らこの世に霊魂として残り、仲間に通信ができたという、それと同じようなことだったのではないか…?そう考えられたのです。
彼女はあれを幻だとして片付けようとした時期がありましたが、それは向こうの話がよく理解できなかったからで、その時は自分の手にも余るものだったからでした。今は、違いました。
「ロンド、あなたに私から依頼するのは、私の旅路の護衛ですが、あなたはこれまでクロウルダについてオグの史跡を回ったと伺いました。つまり、これまであなたが巡った場所を、もう一度、私と共に来てもらうことになります。でも、その時はオルドピスによる私を監視するための、兵士も混ざっているはずでしょう。
私は、クロウルダは歴史の毒に当てられた民族だと感じています。なぜ彼らだけがオグと呼ばれる凶悪な魔物を追うさだめにあるのか。ですが、私もまた、そうなのです。彼らのように、いいえ彼らより、とびきり濃い毒の持ち主かもしれません。それは、決して忘れられず、変化しないのです。昔、先祖がした凶悪な行いが、今も自分たちを蝕んでいるのです。その蝕みを見定めるために、その蝕みがどんな結果をもたらすのか、それを知りに、私はここへ来て、あなたと共に、オグを巡る旅に出ようとしています。でも、どうやら自分は、この国からたいそう怖がられている。オグという魔物の影響が、私の国を支配し始めているから、その影響が私たちの国から外に出ないかと。
ロンド。私は最近、よく夢を見ます。どれも非常に印象深い夢です…多分、私自身のこれからを占うような内容なのでしょう。でも、何とつながりがあるのかは、まだわかりません。しかしまるでその夢を見るために、ここへ調べ物をしに来たかのようです」
彼女の言葉を聞いて、ロンドはもどかしく感じました。自分が何を納得すればいいのかよくわからなかったのです。彼女は自分のことを隠しながら、自分に起きている変化も含めて、どのような旅へと彼に付き添いを頼んでいるかを語っているようでした。彼は彼女の言葉をよく咀嚼する必要があると思いました。しかし、それはまた彼女自身も同じで、彼と共にゆく行程が、いかなるものになるのか甚だ想像できませんでした。
「場所を変えましょうか」
二人とも黙り込んでしまった後で、イアリオは立ち上がり、彼を誘いました。オルドピス中に走る上水道が、飲用の水を汲むために地面の下から飛び出して剥き出しになった箇所がありました。噴水と同じ仕組みで水を上に持ち上げ、大人の背丈の半分ほどの高さに積まれた石橋の、丸い窪みの内側に水を集めていました。都には清涼な空気がずっと流れていましたが、それは噴水やこうした水道設備があるからでした。街の中にいるかぎり長袖の下着を着用しているイアリオも、涼しさの恩恵を受けられたのです。
水は、滝のように流れ落ちる工夫が凝らされた所もありました。都の端の方にある、小さな林の中にそれはありました。黒い石に囲まれた泉に小さな滝は迸り、飛沫が嬉しそうに飛び跳ねていました。彼女はそこにロンドを連れて行きました。
そこで足を停めた彼女をロンドはじっと見つめました。どうやら淑女は緊張しているらしい、と彼は感じました。ここで言う必要のあることを、いつ言おうかと決めかねているように見えたからです。
「いいですね、こういう場所は。何か、水のそばは気が落ち着きますから」
彼は思わずそう言いました。
「こうした場所でないと話せないこともありますからね」
イアリオはただそう言いました。ロンドは黙り、彼女の次の言葉を待ちました。しかし彼は、ねっとりとした強い感触と、興奮した熱が、喉下に迫るのを感じました。彼はやはりこの女に心を囚われ、この女と共に旅ができる喜びを、自分は感じているんだと思わずにはいられませんでした。
一方で彼女は、自慰の苦しさを、一気に解決しようとしていました。その意を決したのは自分のためでした。彼女の目は彼を伴って歩いていくうちにすでに熱く濡れていました。抑え切れない性の疼きが、周りは涼やかなのに、迸っていました。
ロンドも彼女の様子に気がつきました。彼であれその相手であれ、一度は経験したことのあるその苦痛は、なるべく早く取り除かれることを願うのです。彼は、この女性を、異性として認識して、その訴える症状に自分もできることをしようと全身が疼きましたが
紅潮したイアリオの頬に、月光の瞬きを見て、後ずさりしました。彼はぎょっとして、今しがた突き上げた自身の興奮を、穏やかに拭い取りました。彼は、目の前の相手が処女だと分かりました。それは、いたずらに触れることのかなわぬ肢体を持っているということであり、男を呼び込むも、その固い結び目を振りほどくことは相当な覚悟がなければならなかったのです。しかしまた、彼は、この女性がまるで体に子を宿しているようにも、勘違いをしました。処女の母体などありえませんが。
「どうやら、自分は」
彼は彼女に頭を下げました。
「本当に、あなたを守るだけのようだ」




